第7話 夜会で、義妹の顔が「いつもと違う」と言われたそうです
女将のローズさんが二度目にいらしたのは、六日後だった。今度は前掛けを外して、髪も結ってこられた。
「先週のやつ、十日もったよ」
「十日でございますか」
「風呂で落としたのが四日目。そのあと自分で真似してみた。全然だめだった。だから、また来た」
わたしは椅子を出した。
「真似というのは、どこを真似なさいましたか」
「そりゃ、痕の外に紅を引いたんだよ。あんたの見てたから」
「どちらの向きに引かれましたか」
「向き?」
ローズさんが座られた。わたしは細い刷毛を取って、その方の右の頬骨の上に、触れずに線を描いてみせた。
「外へ、こうです。目尻の方向へ抜きます。内へ引くと、痕のほうへ目が寄ります」
「……あたし、内に引いてた」
「では、そのせいですわ」
ローズさんは、参ったな、という顔をなさった。
「そういうのは、教えてもらわないと分かんないね」
「はい。ですから帳面に書いております」
◇
この日は、前より半分だけ紅を薄くした。六日前は晴れていて、今日は曇っている。曇りの日は肌の水が飛ばないので、同じ量を置くと濃く出る。それに、ローズさんの顔は前より少し緩んでいた。前掛けを外していらしたぶん、肩の力が抜けている。
顔は、その日の気分でかたちが変わる。骨は変わらないが、頬の高さと目の開き方は変わる。だから同じ人でも、同じ処方をそのまま使うことはできない。帳面に書いてあるのは「前回どうしたか」であって、「今日どうするか」ではない。
書いてあるものを読んで、今日のぶんを引き算する。それが、この仕事のいちばん時間のかかるところだ。香油を米粒ほど。手のひらで温める。頬に置く。痕のところは薄く。
白粉。篩を二度。今日は向かいの壁に日が当たっていないので、白は前回ほど引かない。四分の一だけ戻す。
左の頬から。骨に沿わせる。顎の下で止めずに、首の付け根まで薄く続ける。宿の女将さんは客に頭を下げる仕事だ。下を向いたときに、顎の下で色が切れているとそこだけ白く浮く。
六日前は、そこまでやらなかった。前回は初めてで、その方がどんなふうに首を動かす人か知らなかったからだ。二度目は、一度目より必ず良くなる。良くならなかったら、それは前回を見ていなかったということになる。
「ねえ」
目の際に墨を入れているとき、ローズさんが仰った。
「あんた、ヴェルニエの家の人かい」
刷毛が止まりかけた。止めずに引き切った。
「……なぜ、そうお思いに」
「うちの宿にね、王都の中ほどから来る商人が泊まるんだ。そのうちの一人が言ってた。ヴェルニエ男爵んとこの上の娘が出てったって」
わたしは墨の筆を置いた。
「はい。わたくしです」
「そうかい」
ローズさんは、それだけ仰った。
「あの家の下の娘さん、王都一の美姫って言われてる子だろ。あれの顔、あんたがやってたのかい」
「六年、いたしておりました」
「ふうん」
その方は、鏡のほうへ目をやられた。
「じゃあ、いま困ってるんじゃないか、あっちは」
「そんなことはございませんわ。もともと美しい方ですので」
本当にそう思っている。だからそう言った。
「あんた、そういうとこだよ」
ローズさんが笑われた。頬が動いたので、紅を置き直すことになった。
◇
「そういえば、四日前に夜会があったろ。侯爵んとこの」
直しながら、ローズさんが続けられた。
「あったのですか」
「うちに泊まってた商人が呼ばれてたんだよ。帰ってきて、面白い話をしてた」
わたしは手を止めなかった。
「あの美姫の子がさ、いつもと違ったって」
紅を、下唇の真ん中に置く。外へ二度。
「顔がどうこうじゃなくてね。誰も『どこが』って言えないんだと。ただ、みんな口を揃えて『今日はいつもと違うな』って言ったらしいよ。おかしいだろ。どこが違うか言えないのに、違うってのは分かるんだ」
言える人はいないだろうな、と思った。左の顎の粉をひとすじ流すのをやめれば、正面から見たときに顔が少し傾いて見える。眉の右を一分低くしなければ、顔が全体に上がって見える。紅を外へ流さなければ、頬が内へ寄って見える。
ひとつひとつは、誰にも見えない。三つ重なると、「いつもと違う」になる。名前のつかない違和感というのは、たいていそういう作りをしている。
「あと、これは別の話なんだけどね」
ローズさんが少し声を落とされた。
「その商人が、ヴェルニエの家に納品に行ったんだと。そしたら、奥の部屋がえらいことになってたって」
「奥の部屋」
「なんか、床板まで上げて探し物してたらしいよ。奥様が。使用人にもやらせて、三日続けてるって」
刷毛を持つ手に、力が入りかけた。
母の部屋だ。
あの部屋には、もう何も無い。家具は三年前に売られた。鏡台と椅子だけを、わたしが隣へ運んだ。床板を上げるようなものは、何も残っていないはずだ。残っていないものを、三日続けて探す人はいない。
ということは、継母は「有るはずのもの」を探しておられる。
七頁ぶんの、何かを。
「終わりました」
鏡を出した。ローズさんは覗き込んだ。右を向いて、左を向いて、それから今日は口を開かれた。
「うん。前より、あたしの顔だね」
◇
その夜、帳面を開いて、今日の頁を書いた。
〈花の広場亭ローズさま・曇。紅は前回の半分。理由——曇りは水が飛ばず濃く出るため。加えて、前回よりお顔が緩んでおられた〉
三行目まで書いて、その下に一行だけ足した。
〈母の部屋。床板を上げて三日〉
処方ではないものを帳面に書いたのは、これがはじめてだった。書いてから少し考えて、消さずに置いた。母も三行目に「なぜそうしたか」を書く人だった。いつか、この一行が何かの理由になるかもしれない。
翌朝、東の窓を開けようとして、外の様子がいつもと違うことに気がついた。扉の外に、人が数人立っている。乾物屋の方と、向かいの薬草屋の方と、それから知らない顔がふたり。
扉を開けた。
目の高さに、紙が貼ってあった。真新しい紙だ。糊がまだ乾いていない。組合の印が、右下に赤く押されている。
〈無許可営業 停止勧告 王都化粧組合〉
乾物屋の方が気まずそうに手を振られた。
「あたしらが貼ったんじゃないよ。夜中だ」
「はい」
「うちの人が、四時ごろに馬車の音を聞いたって」
馬車で来て、貼って、帰った。この通りに用のある人は、馬車では来ない。
「あんた、どうすんの」
「開けます」
「開けるって、あんた」
「勧告と書いてございますので。命令ではございません」
薬草屋の方が口の中で何か仰った。ばか、と聞こえた気もするが、たぶん違う言葉だ。わたしは札の下に手を伸ばした。糊のついていない下の端を、指で少しだけ持ち上げてみた。紙は薄い。剥がそうと思えば剥がせる。
剥がさなかった。
剥がすと、貼った人が「剥がした」と言えるようになる。貼ったままにしておけば、貼った人は次に自分で来るしかない。わたしは札を残したまま、その脇の東の窓を拭いた。いつもどおり、内側から先に。それから外側を。
通りの人たちはしばらく見ていて、ひとりずつ帰っていった。最後に乾物屋の方が、戻りかけて足を止められた。
「言っとくけどね」
「はい」
「札を貼って終わりってことは、まず無いよ。あれは呼び出し状みたいなもんだ」
「では、どうなりますか」
「三日か四日で、本人が来る」
その方は札の右下の赤い印を顎で指された。
「この印を押せる人は、王都に一人しかいないんだ」
ひとつひとつは誰にも見えないのに、三つ重なると「なんだか違う」になる。化粧というのは、そういう作りの仕事です。だから上手くいっているあいだ、誰も気づきません。
次回、その札を貼らせた方が、ご本人でいらっしゃいます。手の甲に、古い染みのある方です。




