第6話 片目を閉じて匂いを嗅ぐ子ども
日が暮れる前に、もう一度扉が開いた。立っていたのは子どもだった。十四か、十五か。背は低いが、手足が長い。両腕で木箱を抱えていて、その重さで肩が下がっている。
「乾物屋、ここ?」
「いいえ、隣です」
「はあ? 番地はここって書いてあるんだけど」
その子は木箱を床に下ろし、上に貼ってある紙を、しばらく睨んだ。それから、睨んだまま動かなくなった。
「……お読みになれますか」
「読めるよ」
読めていないな、と思ったけれど、口には出さなかった。
「お預かりしましょうか。隣へお持ちしますので」
「いや、いい。俺の仕事だから」
その子は木箱を抱え直して、それから、鼻を上げた。
一度、二度。
「なんか、いい匂いがする」
そう言って、店の中を見回した。棚のいちばん下の段に、貝殻と刷毛と篩が並んでいる。その子はそこへまっすぐ歩いてきて、貝殻の前で膝を折った。顔を近づけて、それから、片目を閉じた。
左目だけを閉じて、鼻から、短く息を吸う。それが、その子の嗅ぎ方らしかった。
「これ、蜜蝋と、油と……あと、なんか花のやつ」
「あたりです」
「花のやつ、何」
「薔薇でございます」
「ちがう」
即答だった。
「薔薇だけじゃない。もう一個いる。もっと重いやつ」
わたしは貝殻を持ち上げて、その子の前へ出した。
「もう一度、お願いできますか」
その子は左目を閉じて、もう一度嗅いだ。今度は長く。
「……これ、木のやつだ。根っこ。乾かした根っこの匂いがする」
「岩蘭草でございます。根を乾かして、削ったものを一つまみ」
「そんなの入れて、どうすんの」
「香りが長く残ります。薔薇だけですと、二刻で飛んでしまいますので」
その子は顔を上げた。
「……ふうん」
興味が無さそうな声だったけれど、目は貝殻から離れていなかった。
「あなた、お名前は」
「ノエル」
「ノエル様は、どちらのお店の方ですか」
「様、やめて。気持ち悪い」
「では、ノエル」
「ラウレット夫人のとこ。使い走り」
手が、わずかに止まった。ラウレットという名は、王都の化粧組合の顔役の名だ。母の帳面にも二度だけ出てくる。〈ラウレット殿へ返信。断る〉。それだけ。何を断ったのかは書いていない。
「大きなお店ですね」
「でかいよ。俺は店の中に入れてもらえないけど」
「入れていただけないのですか」
「箱運ぶだけだから」
ノエルは肩をすくめた。
「中でなんかやってんの、たまに扉が開くと匂いで分かる。今日は蜜蝋を溶かしてた。昨日は白粉を篩ってた。篩ってるときは粉っぽい匂いになるんだ」
「よくお分かりになりますね」
「分かるよ。誰でも分かるだろ」
誰でも分かるものではない。白粉を篩う匂いを言葉にできる人を、わたしは、母のほかに知らない。母は「粉には粉の匂いがある」と言っていた。当時は何のことか分からなかった。分かったのは、自分で三年篩ってからだ。
この子は、たぶん、十四で分かっている。ノエルは立ち上がって、木箱を抱え直した。
「あんた、ここで何やってんの。看板、化粧って書いてあったけど」
「化粧の店です」
「客、いた?」
「今日、ひとり」
「ふうん」
ノエルは木箱を膝で押し上げた。中身が、かたかたと鳴った。瓶だ。四つか、五つ。
「それは何をお運びですか」
「香油。夫人の店の」
「重そうですね」
「重いよ。これで六箱目」
六箱。この子の背丈で、朝から、六箱。
「割れたらどうなりますか」
「引かれる」
「お給金からですか」
「そう。だから割らない」
言い方が乾いていた。何度か割ったことがあるのだろう。その瓶の中身も、たぶん、この子は嗅げば分かる。分かるのに、中身の名前は誰も教えていない。教えなくても箱は運べるからだ。
◇
扉が二度目に開いたのは、それから半刻ほど後だった。ジュリアン様だった。今日は馬で来られたのではないらしく、外套の裾がきれいだった。
「三日目です」
「はい」
「客は」
「ひとり、いらっしゃいました」
ジュリアン様は店の中を見回された。掃いた床と、拭いた東の窓と、棚の下段の道具を。
「花の広場亭の女将ですね」
「ご存じでしたか」
「通りで会いました。私の顔を見るなり、あんたのとこの店子はいい仕事をする、と言われた」
わたしは、少し息を吸った。
「……そう仰いましたか」
「言いました。あの人が人を褒めるのを、私は十年で二度目に聞きます」
ジュリアン様は懐から鍵を出して、台の上に置かれた。
「二階の鍵です。約束ですので」
「ありがとうございます」
「ただし、私はまだあなたの仕事を認めていません」
置いた手を、そのまま引かれた。
「女将の顔は見ていない。見ていないものを認めるわけにはいかない。それだけです」
「では、いつかご覧になってくださいまし」
「見ますよ」
そう仰って、扉のほうへ歩かれた。途中で一度、棚のほうへ目をやられた。貝殻が四つ、刷毛が六本、篩が二枚。段の半分も埋まっていない棚を。
「道具が、少ない」
「六年ぶんですので」
「六年でそれだけですか」
「必要なものだけ持ってまいりましたので」
ジュリアン様は何か仰りかけて、やめられた。それから、右手を上げて、髪を耳にかけようとなさった。また、途中で下ろされた。
◇
二階へ上がった。
階段は店の奥にある。急で、幅が狭い。上がりきると、部屋がひとつあった。四畳半ほど。北側に窓が一枚。板は打ちつけられていない。硝子が二枚とも入っている。床に、藁の屑が散っていた。天井の梁に、鳥の巣の跡がある。もう使われていない巣だ。
壁際に、木の台が置いたままになっていた。天板の真ん中がすり減って、浅く窪んでいる。四十年、ここに何かを置いて削り続けた人がいた跡だ。台を拭いた。三度拭いて、まだ布が茶色くなった。四度目で、ようやく木の色が出た。
今夜からは、床ではなくここで寝られる。窓を開けた。北向きなので、光は入らない。かわりに、通りの音が下から上がってきた。乾物屋の戸を閉める音。井戸の釣瓶。誰かが誰かを呼んでいる。
六年、この時刻には家にいた。だから、この時刻の外の音を、わたしは知らなかった。下へ戻ると、扉の外に人の気配が残っていた。開けると、ノエルが立っていた。木箱はもう無い。配達は済ませたらしい。
「まだいらしたのですか」
「別に。通りかかっただけ」
嘘だな、と思った。この店は通りのいちばん端で、その先には何も無い。
「入りますか」
「入んない」
そう言いながら、ノエルは戸口から中を覗いた。目線が、台の上で止まる。台の上には、開いたままの帳面が置いてあった。今日の記録を書きかけて、そのままにしていた。ノエルは、それをじっと見ていた。三つ数えるくらい。四つ、五つ。
珍しいのだろう、とわたしは思った。この通りに帳面を開いている店は、たぶんそう多くない。
「帰る」
「お気をつけて」
ノエルは背を向けて、通りを下っていく。歩きながら、一度だけこちらを振り返る。わたしは手を振った。ノエルは振り返さずに、また前を向いて歩いていった。
匂いを覚えるのに、字は要りません。だから、鼻のいい人は、たいてい自分の鼻の値打ちを知らないまま使われます。この通りで箱を運んでいる子も、まだ知りません。
次回、女将さんが二度目にいらっしゃいます。そして、ヴェルニエ家の夜会の話を持ってきます。
ここまでお読みくださって、ありがとうございます。ブックマークをいただけますと、岩蘭草がもう一つまみ増えます。




