第5話 女将さんの右の頬に、合う色を
一日目は、誰も来なかった。朝のうちに東の窓を拭いて、看板の文字を書き直した。板が古いので、削ってから書いた。〈化粧 セラフィナ〉。それだけ。組合の札が無いので、店の名は出せない。
昼までに、通りの人が七人ほど前を通った。全員、こちらを見て、見なかったことにして通り過ぎた。二日目も、誰も来なかった。
朝、井戸へ行った。共同の井戸で、朝と夕は列ができる。前に並んでいた女の方が、こちらを見て、桶ひとつぶん間を空けられた。
「おはようございます」
「……ああ」
それきりだった。
昼過ぎに、隣の乾物屋の方が来られた。
「あんた、あそこの店かい」
「はい。セラフィナと申します」
「水は井戸だよ。朝と夕は混む。昼にお行き」
「ありがとうございます」
「……あとね」その方は少し声を落とされた。「うちの通りは、よそから来た人には一年、口を利かないから。悪気はないんだよ。順番なんだ」
順番、とわたしは繰り返した。ジュリアン様も同じことを仰っていた。夕方に硬貨を数えた。十四枚。宿を引き払って店の床で寝ることにしたので、減り方は遅くなったけれど、それでも減っている。
床に寝ると、東の窓の位置が低く見える。夜のあいだ、そこだけ空が四角く切り取られていた。三日目の朝、東の窓を開けた。
この店の朝の光は、ヴェルニエの家の東の部屋より、少しだけ黄色い。向かいの家の壁が土色だからだ。壁の色が肌に映る。ということは、ここで白粉を合わせるときは、いつもより半分だけ白を引かないといけない。
帳面を開いて、書いた。〈花の広場・東窓。向かいの壁が土色。白は半分引く〉新しい一頁の、一行目だった。
◇
昼を過ぎたころ、扉が開いた。立っておられたのは、四十半ばくらいの女の方だった。背が高くて、肩に力の入った立ち方をなさる。腕まくりをしたままで、前掛けに小麦粉がついている。
「あんた、化粧の人かい」
「はい」
「うちは、その先の宿だ。花の広場亭ってんだけどね」
その方は入ってこられずに、戸口に立ったままだった。
「いくらだい」
「お顔をひとつで、硬貨一枚いただいております」
本当は、いくらにすればいいのか分からなかった。この三日で通りの相場を聞いて回って、それらしい数を出した。
「ふうん」
その方は、そこで少し黙られた。それから、右の頬を、こちらへ向けられた。顎の下から目の下まで、引きつれた痕があった。古いものだ。皮膚が薄く光っていて、その部分だけ、毛穴の向きが変わっている。
「これ、隠せるかい」
わたしは近づいて、失礼しますと断ってから、光に当てて見た。窓のほうへ半歩、それから逆へ半歩。角度を変えて三度。
「隠せません」
その方の眉が動いた。
「そうかい」
「隠すと、そこだけ厚くなります。厚くしたところは、笑ったときに割れます。宿を切り盛りしておられるのでしたら、一日に何度もお笑いになるでしょう」
「そりゃ、笑うさ」
「では、隠すのはお勧めいたしません」
その方は、腕を組まれた。
「じゃあ、なんで店を開けてるんだい」
「合わせることはできますので」
「合わせる」
「はい。お座りいただけますか」
少し迷われてから、その方は椅子に座られた。
「言っとくけどね、あたしは期待してないよ」
「はい」
「二十年、いろんな人に頼んだ。王都の中ほどの高いとこにも行った。みんな『きれいに隠しますよ』って言うんだ。で、隠す。塗って、塗って、その上からまた塗って。半日で割れる」
「割れますね」
「そうやってあっさり言われたの、初めてだよ」
その方は、鼻から息を出して笑われた。
「なんで来たか、教えてやろうか。あんた、三日ここに座ってただろ。誰も来ないのに、朝いちばんに窓を拭いてたね。うちの二階から見えるんだ」
「お見苦しいものを」
「そうじゃない。拭き方が丁寧だったんだよ」
◇
まず、香油を米粒ほど。手のひらで温めてから、両方の頬に置く。痕のところは、いつもより薄く。この皮膚は油をうまく吸わない。吸わないところに油を置くと、そこだけ光る。
「ちょっと、痕のほうは何もしないのかい」
「いたします。ただ、順番が最後です」
白粉。篩を二度。向かいの壁が土色なので、白は半分引く。左の頬から置いて、輪郭に沿わせずに骨に沿わせる。
この方の骨は、顎がしっかりしている。眉の上の骨も高い。芯の強い骨のかたちだ。こういうお顔は、輪郭を細く見せようとすると全部が崩れる。細くせずに、そのまま出したほうがいい。
眉を取る。この方の眉はもともと濃いので、足さずに形だけ整える。眉尻を、ほんの少しだけ上へ。
「あんた、若いね。いくつだい」
「十九でございます」
「十九で店。親は」
「母は亡くなりました。母も化粧師でしたので、道具は母のものです」
「ふうん。父親は」
「おります」
それで、その方は察してくださったらしい。それ以上は聞かれなかった。目の際に、細く墨。この方は目が大きいので、上の際だけ。下まで入れると、顔が重くなる。
「痛くないかい、そこ」
「痛ければ仰ってください。すぐ止めますので」
「いや、痛くないよ。びっくりしただけ。誰かに顔を触られるの、二十年ぶりだ」
手を、一度止めた。
それから、また動かした。
それから、紅。
貝殻から指に取って、下唇の真ん中に置いて、外へ二度。この方の唇は厚い。厚い唇に薄い色を置くと、顔の中で唇だけが遅れて見える。だから、少し濃いめに。
最後に、右の頬。
細い刷毛に、紅をほんのわずかだけ含ませた。
「動かないでくださいまし」
痕の上ではなく、痕の少し外側。頬骨の上に、紅をひとすじ、外へ向けて流す。薄く。もう一度、薄く。
三度目で止めた。
「終わりました」
わたしは鏡を持ち上げて、その方の前に置いた。
◇
その方は、鏡を見た。
右の頬の痕は、そこにある。消えていない。消していない。ただ、頬骨の上に色が流れているので、人の目はまずそこへ行く。目が色を追って外へ抜けたあと、痕に戻ってくるまでに一拍かかる。その一拍のあいだに、この方の顔全体が先に見えている。
顔全体が先に見えると、痕は「顔の一部」になる。隠したものではなく、そこに有るものになる。わたしが六年かけて分かったのは、それだけのことだ。その方は、鏡を長く見ておられた。右を向いて、左を向いて、それからもう一度、右を。
指を伸ばして、痕に触れようとして、途中で止められた。
「……いくらだったっけ」
「硬貨一枚でございます」
その方は前掛けの下から硬貨を出して、台の上に置かれた。それから立ち上がって、扉のほうへ歩かれた。
何も仰らなかった。
扉が閉まった。
わたしは、しばらく鏡を片づけずにいた。気に入らなかったのだろうか。それとも、言葉にするようなことでもなかったのか。六年、義妹の顔だけをつくってきたので、他人の顔をつくったあとに何が起きるのかを、わたしは知らない。
台の上の硬貨を取って、袋に入れた。十五枚に戻った。帳面を開いて、書いた。
〈花の広場亭の女将さま・晴。右頬に古い火傷。隠さず、頬骨の上へ紅を外流し。三度で止める。理由——隠すと笑ったときに割れるため〉
三行目まで書いて、顔を上げた。東の窓の外が、少し暗くなっている。もう夕方だった。三日目が、あと少しで終わる。
傷や痕を「隠す」化粧と「合わせる」化粧は、道具も手順もほとんど同じで、違うのは置く場所だけです。隠す側は痕の上に置きます。合わせる側は、痕の外側に置きます。同じ紅で、まるきり逆のことをします。
次回、その夕方に、もうひとり来ます。十四歳で、口が悪くて、匂いだけで中身を言い当てる子どもです。




