第4話 化粧は嘘だと、その方は仰いました
三日、宿を替えながら歩いた。
持って出たのは、着替えと道具と帳面と、それから硬貨が十七枚。六年ぶんの手間賃という名目で、年に二度だけ継母から渡されていたぶんの残りだ。安い宿でひと晩が硬貨半分。食事を入れると一枚。この計算だと、半月で終わる。
二日目までに、王都の中ほどで七軒を見た。どこも家賃が高い。化粧の店を出したいと言うと、組合の札はお持ちですかと聞かれる。持っていないと答えると、話がそこで終わる。六軒目の差配人の方が、親切に教えてくださった。
「札は組合が出すんだが、組合に入るには店が要る。店を借りるには札が要る。順番がな」
「どちらから入るのでしょう」
「入れないよ。だから、みんな親の店を継ぐ」
わたしの母は化粧師だった。だから本来なら、わたしは継ぐ側だった。ヴェルニエの看板が下ろされたのは三年前で、そのとき組合の名簿からも消えている。継母がどういう手続きをなさったのかは知らない。知らないうちに終わっていた。
三日目に、母が言っていた通りへ行った。王都の南の門から、内側へ三つ目の広場。花の広場と呼ばれている。市の立つ日には花が並ぶそうだが、この日は空だった。通りに入ると、匂いが変わった。
香油と、乾いた薬草と、油の匂い。奥のほうから、南の香辛料の匂いが混じって流れてくる。目を閉じても、この通りに入ったことが分かる種類の匂いだった。母が「粉の匂いの分かる人がいる」と言っていたのは、たぶんこういう意味だ。
その通りのいちばん端に、閉まっている店があった。
板を打ちつけた窓と、色の落ちた看板。文字はもう読めない。木の格子の隙間から中を覗くと、壁一面が棚だった。棚だけが残っている。床には埃が指の厚みほど積もっていて、その上に足跡がひとつも無い。
「何か用ですか」
後ろから声がした。
振り返ると、背の高い男の方が立っておられた。年は二十七、八くらい。外套の裾に泥が跳ねている。馬でいらしたところらしい。
「こちらは、貸家でございますか」
「貸家です。持ち主は私です」
思っていたより若い声だった。
「借りたいのですが」
「何をなさる」
「化粧の店を」
その方は、格子越しに中をご覧になった。それから、わたしの荷を見た。片手で持てる布包みひとつを。
「化粧は嘘だ」
はっきりとそう仰った。言い方に棘は無かった。天気の話をするのと同じ調子だった。それが、かえって芯まで届いた。
「無いものを有るように見せるのだから、嘘でしょう。私はそれで身内を一人失っている。あなたに恨みは無いが、この店をそれに使うのは気が進まない」
わたしは荷を持ち直した。
「嘘ではございません」
「では何です」
「合わせているだけです」
その方が、こちらを見た。
「わたくしは、顔を直しません。合わせるだけです」
「同じことでしょう」
「違います」
わたしは布包みを地面に置いて、道具の袋を開けた。貝殻をひとつ取り出して、蓋を開けて、その方に見えるように傾ける。
「これは紅でございます。同じ紅を、十人の方に置いたとして、十人とも同じ色にはなりません。肌の下の血の色が違いますし、骨の高さが違いますし、その日の乾き方が違いますので」
「それが、どうかしましたか」
「無いものは、出ないのです」
風が通りを吹き抜けて、埃が少し舞った。
「頬骨の低い方に、高い頬骨は作れません。作ろうとすると、影を描くことになります。影を描いた顔は、離れて見れば分かりますし、光の向きが変わればすぐ崩れます。四刻はもちません」
その方は黙っておられた。
「ですからわたくしは、その方にもともと有るもののうち、いちばん見えやすいものを選んで、いちばん見えやすい位置に置きます。それだけです。無いものは足しません。足すと、こちらが負けますので」
言ってから、少し言いすぎたかもしれないと思った。
「無いものは出ない、と」
ジュリアン様は、そこだけ繰り返された。
「はい」
「それなら、有るものが薄い者はどうします」
「薄い方はいらっしゃいません」
「いる」
「おりません」わたしは首を振った。「薄く見えるのは、置く場所が合っていないだけです。合う場所は必ずどこかにございます。探すのに時間がかかることはありますけれど」
その方は、右手を上げて、髪を耳にかけようとなさった。途中でやめて、手を下ろされた。
「……名前は」
「セラフィナと申します」
「家名は」
「いまはございません」
その方はうなずかれた。それ以上は聞かれなかった。
「ジュリアン・ドラクロワです。リヴィエールの領を持っています。この通りの家作は、祖父の代からうちのものだ」
伯爵家の方だった。それにしては、外套の裾が汚れすぎている。
「家賃は、ひと月で硬貨三枚。前金は要りません」
安い。中ほどの通りの三分の一だ。
「ただし、条件をつけます」
ジュリアン様は格子の錠に鍵を差された。錆びていたらしく、二度、三度と回して、ようやく音がした。
「三日で、客をひとり取ってごらんなさい。取れたら、二階も貸します。取れなければ、この店は貸しません」
「三日でございますか」
「この通りの人は、よそから来た者に一年は口を利きません。三日は無理です。無理を承知で言っています」
扉が開いた。埃の匂いが、まとめて外へ出てきた。
「無理だと分かったら、早いうちに別の道を探したほうがいい。それが親切のつもりです」
わたしは中へ入った。
棚は思っていたよりしっかりしていた。指で押しても板が反らない。段の高さが低くて、上から見下ろして中身を確かめられる作りになっている。ものを並べて売る店ではなく、ものを取り出して使う店の棚だ。
「ここは、もとは何の店でしたか」
「香油です。祖父の代の店子が四十年やって、十二年前に亡くなって、そのままです」
なるほど、と思った。だから棚がこの高さなのだ。床の埃は、掃けば一日で片づく。奥に流しがあった。栓をひねると、赤い水が少し出て、それから澄んだ水に変わった。生きている。
壁の下の方に、木の色が変わっている帯があった。膝の高さくらいのところに、横一本。四十年ぶん、桶を置いた跡だろう。東に、小さな窓がひとつあった。板が打ちつけてある。剥がせば、朝の光が入る。
朝の光が入る東の窓と、水の出る流し。それだけあれば、化粧師の店は成り立つ。
「借ります」
振り返って、そう申し上げた。
「三日ですよ」
「はい」
「言っておきますが、私は待ちません」
「待っていただかなくて結構です」
ジュリアン様は、少しだけ眉を上げて、それから鍵をこちらへ放られた。
◇
その日のうちに、床を掃いた。窓の板を剥がすのに、夕方までかかった。釘が六本。手が届かないところは棚に上って外した。最後の一本が抜けたとき、日はもう傾いていたけれど、それでも西の光がまっすぐ入ってきて、床の木目が見えた。
東の窓は、明日の朝にならないと使えない。貝殻を四つ、棚の右端に並べた。刷毛を六本、太いほうから。篩を二枚。乳鉢。秤の分銅を七つ、小さい順に。六年ぶんの道具は、棚のいちばん下の一段で、まだ半分も埋まらなかった。
残りは三日。
この国の化粧師は、組合の札が無いと店を出せません。札は、王都の組合が出します。組合に入るには、店が要ります。店を借りるには、札が要ります。どこから入るのかというと、たいていはどこからも入れません。
次回、三日目の朝が来ます。彼女のところに、最初のお客さまがいらっしゃいます。右の頬に、古い火傷のある方です。




