第30話 家財ではなく、醜聞でございました
その話は、王宮の沙汰より先に、マチルド様の口から届いた。
昼前に馬車が停まって、あの方は挨拶より先に店の戸を閉めた。閉めてから、掛け札を裏返して「支度中」にした。人さまの店の札である。
「マチルド様」
「座りなさいな。立ったまま聞く話じゃないの」
わたしは座らなかった。代わりに手を動かした。仕込み中の紅がある。練っては休ませの、練りの番だった。貝殻を掌に乗せる。指の腹で外へ伸ばす。手を動かしているほうが、話は正しく聞ける。
「昨日の夜会でね、妙な話が回ってたのよ。エレーヌ——あなたのお母さまの話」
「はい」
「二十年前、王宮に上がっていた。ところが記録がどこにもない。なぜか。王家の秘に関わって、口を封じられたか——それとも、封じられる前に、秘を持ち出したか」
練りの回数は変えなかった。十六、十七。
「持ち出した先が、あの帳面だそうよ。娘が後生大事に抱えてる帳面には、王家の秘が書いてある。そんな女の娘を、こともあろうに十年祭の検分に呼ぶなんて——というのが、話の筋。ご丁寧に、家の裁判のことまで添えてあるの。継母と争って帳面を取った強欲な娘、ですって」
二十、二十一、二十二。今日はここまで。貝殻を置いた。
「出どころは、聞くだけ野暮ね」
「マルグリット様、でございますね」
「あの人ひとりの知恵じゃないでしょうけどね。話の作りが上等すぎるもの。家財だ何だと言って負けた人が、今度は家財と言わずに来てる。頭のいい人が後ろで書いてるわよ、これは」
マチルド様は扇を閉じた。閉じた扇で自分の掌を打つ。考えるときの癖だ。この方が本気で考えるところを、わたしは初めて見た。冗談の速い人ほど、本気の顔は静かになる。
家財ではなく、醜聞で。
なるほど、と思った。裁定所は日付を見る。日付で負けた。けれど夜会は日付を見ない。夜会が見るのは、話の面白さだけだ。そして「王家の秘を持ち出した女の娘」は、面白い。面白い話は、正しい話より足が速い。
「それでね、ここからが本題」
マチルド様は声を落とした。
「その話とセットで、もうひとつ回ってるの。『その点、カトリーヌさんは家柄も後ろ盾も確かで安心ね』——って。推挙状に署名が集まってるそうよ。何人かは、わたくしの知ってるお名前だったわ」
「……よく、できておりますこと」
「そうよ。落とす話と上げる話は、必ず二つで一組。片方だけなら悪口だけど、二つ揃うと、世論って顔をするの」
◇
午後の客を三人お通しした。
一人目は宿の泊まり客の商家の奥さま。旅の埃で肌が乾いていた。香油を薄く。白粉は勧めなかった。二人目は八百屋の娘さん。祝いの席があるという。頬に紅を淡く。若い頬に紅は少しでいい。
三人目は女将だった。用も無いのに座って、世間話をして帰った。女将が用も無く座る日は、たいてい通りに何かある日だ。守られているのだと思う。ありがたくて、少し情けない。
三人とも、いつもどおりだった。噂はまだ、この通りまで降りてきていない。夜会の話が市場に降りるには、あと二日かかる。降りてきたとき、この店がどう見えるか。それは降りてきてから考えることにした。今日の客の頬は、今日しかないからだ。
店じまいの掃除をしながら、ノエルが口を開いた。
「聞こえてたよ、昼の話」
「盗み聞きは、感心しません」
「あの声で内緒話は無理だって。……ねえ先生。悔しくないの」
「悔しい、の前に、感心しております。よくできた話だと」
「なにそれ。呑気すぎる」
「よくできた話は、作った人がいるということです。作った人がいるなら、作った理由がある。理由があるなら、そこから辿れます」
ノエルは箒を止めて、少し考えて、それから言った。
「……売ってないのに知ってる匂いと、同じだ」
「はい?」
「出どころが分かんないものには、必ず出どころがあるってこと」
この子は時々、こちらが三日かけて考えることを、掃除の途中で言う。
夕方、ベルナールが来た。
今日は王宮の馬車ではなかった。徒歩で、外套の襟を立てて。座るなり、あの方は手袋の指を組んだ。
「お耳に、入っておいでですね」
「昼に、早耳の方から」
「では、手短に申し上げます。典礼に、文が正式に上がりました。差出人は、ヴェルニエ男爵夫人。内容は、お聞き及びのとおりでございます」
正式に、上がった。夜会の噂と、典礼への文書。外と内、両方から同時に。
「典礼は、どうなさいます」
「調べることになります」
ベルナールは、まっすぐこちらを見た。
「文が上がった以上、調べないという道はございません。調べて、何も無ければ、それが盾になります。何か有れば——」
「有れば」
「有るものが出ます。それだけでございます」
正直な方だ。慰めを言わない。この方の言葉は、いつも過不足がない。過不足のない言葉は、冷たく聞こえて、あとで効いてくる。
「ひとつ、伺います。調べるとは、何をお調べになるのですか」
「二十年前の、すべてでございます。お母上がいつ、どこへ上がり、誰と会い、何をなさったか。王宮側の綴り、門番の記録、当時の官の記憶。それから——」
手袋の指が、一度ほどかれて、組み直された。
「あなたさまのお手元にある物も、求められるかもしれません。帳面、道具、お母上の遺された品。任意ではございますが」
「帳面は、お見せできません」
「……でしょうな」
ベルナールは、少しも驚かなかった。むしろ、その答えを確かめに来たような顔をしていた。
「では、そのおつもりで。調べには、わたくしも加わります。典礼の中で二十年前を知る者が、もうわたくしくらいしか残っておりませんので」
立ち上がって、戸口で、あの方は付け加えた。
「ひとつだけ、申し上げておきます。調べというものは、仕掛けた側の思いどおりには進まぬものでございます。二十年前を掘るということは——仕掛けた方々が思っているより、深い穴でございますから」
◇
夜、灯りをひとつだけ残した。
紅の仕込みの続きをした。今日の分の練りは済んでいる。休ませる番だ。布を掛ける。重石は置かない。紅は眠らせて育てる。母の言い方だ。眠らせているあいだは、こちらも手が出せない。手が出せない時間に、人は考えごとをする。だから職人の考えごとは、たいてい夜にできている。
帳面を膝に乗せて、飛んだ三月の頁を、もう一度開いた。
母さま。あなたの三月が、いま、醜聞という名前で呼ばれています。わたしはそれに、言い返す言葉をまだ持っていません。あなたが何も書き残してくださらなかったので。
書き残さなかったことにも、きっと理由がある。六年、あなたの帳面で仕事をしてきたから、それだけは分かる。あなたは書かない人ではなかった。書かないと決めたことだけ、書かなかった。
その決めた理由ごと、掘り返される日が来る。
悪い話には、たいてい良い話が添えてあります。悪い話だけだと、人は疑うからです。セットになった途端、人は信じるのです。
次回、調べが始まります。弁明はいたしません。弁明の代わりに置けるものを、この店は一つだけ持っています。
ブックマークと評価をいただけますと、店の掛け札を新調できます。勝手に裏返される札ですけれど。




