第29話 王妃さまが、名前を口になさったそうです
二度目の検分の日は、朝から風が強かった。
風の強い日は、粉を扱う者には厄日だ。道具箱の紐をいつもより一本多く掛けて、包みの口を二重に折った。馬車の中でも、箱は膝に乗せた。座席に置くと、揺れが粉に伝わる。膝の上なら、揺れはわたしが吸える。母がそうしていたのを、子どもの頃に見た。あの人の膝は、いつも道具箱の台だった。
王宮に着いた。門を三つくぐった。前と同じ部屋に通された。鏡には今日も布が掛かっている。布の掛け方まで前と同じだった。誰かが毎日きちんと掛け直しているのだ。決まりを守る手つきというものは、布の畳み目にも出る。
道具を並べる。布を敷く。篩を二枚。貝殻を四つ。口は手前へ。眉墨。香油。白粉の包み。手順は身体が覚えている。覚えているのに、今日は一度だけ順を間違えた。香油を先に置いた。置き直した。風の強い日は、粉より先に油を仕舞いたがる。手の癖だ。直すほどの癖ではない。ただ、癖が出るのは気が張っている証拠ではある。
並べ終えて、待った。
部屋は静かだった。高い窓が風で鳴る。それ以外に音がない。店なら音がある。通りの声。荷車。ノエルの足音。女将の笑い声。音のない部屋で待つのは、音のある店で働くより疲れる。それも今日、覚えた。
半刻、待った。
誰も来なかった。
◇
一刻が過ぎた頃、扉が開いた。ドロテ様だった。今日も白かった。白い顔は、部屋の入口から動かなかった。
「課題は、ありません」
それだけだった。
「検める価値のある腕かどうか、前回で分かりましたので」
「……それは」
「言葉のとおりの意味です」
どちらの意味にも取れる言葉を、どちらの意味か分からない顔で仰る。この方と話していると、白い壁に向かって声を出している気持ちになる。壁の向こうに人がいるのは分かる。壁が厚くて、人の形が見えない。
「首席様。ひとつだけ、伺わせてください」
「手短に」
「わたくしの腕の、どこがお気に召しませんでしたか。覆えという課題に従わなかったことでしたら、それは腕ではなく、判断でございます。判断でしたら、いくらでもご説明いたします」
「気に召さない、とは言っていません」
ドロテ様は、それだけ言って、踵を返しかけた。それから、思い直したように、半分だけ振り向いた。
「……あなたの練りは、二十四度ではなかった。数えていないと言ったけれど、あの日のあなたの練りは、二十二度でした。乾いた日の、乾いた頬の回数です」
「数えて、おいでだったのですか」
「わたくしは、なんでも数えます」
扉が閉まった。
残されたわたしは、道具を仕舞った。篩を布で拭く。貝殻の口を紙で塞ぐ。眉墨を立てる。香油を寝かせない。ひとつずつ箱へ戻す。仕舞いながら考えた。
数える人だ。回数を数える。日付を数える。たぶん年月も数える。教本のとおりに、が口癖の人だ。数えて、揃えて、決まりにして生きてきた人が、決まりから外れた練りを、回数まで覚えている。
あれは、咎める側の覚え方ではない。盗む側の覚え方でもない。あれは——弟子の仕事を見る師匠の覚え方に、いちばん近い。そう思ってから、思い上がりだと自分で打ち消した。打ち消したのに、消えなかった。
◇
帰り支度を終えた廊下で、小さく呼び止められた。
「化粧師さま」
フロール様だった。あの日の顔のままではもちろんないが、眉の形が、わたしの引いた形のままだった。自分で写して、毎朝引いているのだ。粉の載せ方も薄い。覚えて、続けてくださっている。
「その節は、ありがとうございました。あれから……その、勤めが、少し楽になりました」
「眉、ご自分で。お上手です」
「毎朝、思い出しながら」
少しだけ、眉尻の墨が濃かった。指の腹でならすと良い、と申し上げると、フロール様はその場で写し取るように二度うなずいた。覚える気のある方は、うなずき方が違う。一度目は聞いたしるし、二度目は覚えたしるしだ。ノエルと同じうなずき方だった。
フロール様は、そこで声を落とした。廊下の左右を見てから、囁くように仰った。
「これを申し上げてよいのか、分からないのですが。……先日、お茶のお席で、王妃さまが」
「はい」
「お名前を、口になさいました。エレーヌの娘、と」
風の音が、高い窓の外で鳴っていた。
「侍女頭がお答えして、それきりでございました。でも、王妃さまがご自分から人の名を仰るのは、めったにないことなのです。ですから、その」
「……ありがとうございます。伺ったことは、胸に仕舞います」
「はい。どうか、そのように」
一礼して、フロール様は勤めに戻っていった。廊下の光の下で、右の頬の赤みが見えた。ちゃんとあった。ちゃんとあって、そして、この方の顔はもう、赤みの顔ではなかった。
歩き去る背中を見送りながら、考えた。王妃さまが、母の名を覚えておいでになる。二十年前の三月。夜明け前の橋。手ぶらで帰った母。飛んだ日付。ばらばらだった欠片が、ひとつの向きに揃おうとしている。揃いかけて、まだ足りない。真ん中の一枚が無い。母は王宮で、誰の顔を作ったのか。その一枚だけが、どこを探しても無いのだ。
考えごとは、そこで打ち切った。廊下の突き当たりに、ベルナールが待っていたからだ。考えごとの顔で人前に出るのは、化粧師の恥である。わたしは顔を、仕事の顔に戻した。戻し方なら、六年ぶんの心得がある。
◇
門までの道を、ベルナールが送ってくださった。
庭を横切る道の脇で、庭師が薔薇の枝を落としていた。秋の剪定だ。切る場所を迷わない鋏の音がした。良い職人の音だ。王宮というところは、どこを見ても職人の仕事でできている。仕事でできているのに、仕事の話ができる相手は少ない。フロール様とベルナールと、それから、数える人がひとり。
「本日は、ご足労だけになりました」
「いいえ。数えていただけましたので」
「……と、申しますと」
「二十二度、だそうでございます」
ベルナールの足が、わずかに緩んだ。手袋の指が、一度組み直された。この方の癖だ。考えるとき、指を組み直す。
「首席が、人の練りの回数を口になさいましたか」
「はい。それが、何か」
「いえ。——二十年、あの方の下で見てまいりましたが、あの方が数を口になさるのは、覚えるおつもりのときだけでございます」
馬車の扉が開けられた。乗り込む前に、ベルナールは言った。いつもの慇懃な声だったが、どこか一段、低かった。
「近く、典礼から沙汰がございます。検分とは別の筋で、動いているものがございますので」
「別の筋、と申しますと」
「申し上げられません。ただ——」
手袋の手が、扉を押さえた。
「沙汰が届きましたら、驚かずに、文面を二度お読みください。良いことと悪いことが、同じ紙に書いてある類の沙汰でございますから」
数える人は、忘れない人です。忘れない人が二十年、何を数えてきたのか。それはまだ、白い壁の向こうです。
次回、沙汰より先に、別のものが届きます。醜聞、という名の荷物です。差出人の見当は、つきすぎるほどついております。




