第28話 盛った側の方が、いらっしゃいました
二度目の検分の日取りは、まだ来ない。
待つあいだにやることは決まっている。紅の仕込みだ。貝殻の底の紅が、四つのうち二つ、残り少なくなっていた。顔料を量る。秤の分銅は小さいほうから使う。蜜蝋を削る。香油と合わせる。火は使わない。手のひらの熱で練り合わせる。練っては休ませ、練っては休ませ、三日かける。
急げば一日でできる。急いだ紅は、ひと月で香りが変わる。急がなければ、春までもつ。
春までもつ紅を仕込んでいる、ということは、つまり春までこの店でこの仕事をしているつもりなのだ。頭より先に、手が決めている。母もよく同じことを言っていた。迷ったら、手が何をしているかをご覧なさい、と。
その方は、昼下がりに来た。
絹の外套。揃いの手袋。供を一人、外に待たせて。戸を開けた瞬間から、店の中の値踏みが始まっているのが分かった。棚。床。椅子。窓。値踏みの目は隠せない。目は、口ほど稽古ができないからだ。
「まあ、狭いこと」
第一声がそれだった。
「いらっしゃいませ。順番にお呼びしております。本日は、お化粧でございますか」
「見物よ」
その方は椅子には掛けず、棚の前をゆっくり歩いた。
「カトリーヌと申します。ご存じかしら」
「お名前だけは」
「あら、光栄だこと」
完璧な顔だった。ドロテ様の白とはまた違う。こちらは盛りの完璧だ。頬の高さを粉で作り、瞼の影を墨で作り、唇の形を紅で作ってある。作った場所が全部分かるのに、作りの腕が良いので嫌味なほど崩れない。なるほど、貴族の家に呼ばれる三人の一人だ。腕は、本物だった。
そのとき、奥の椅子で紅を差し終えたばかりのリディエンヌが、立ち上がった。
二人の目が合った。
「……あら」
カトリーヌ様の口元が、作られた形のまま動いた。
「リディエンヌ様。お久しぶりでございます。この夏はどうも」
「…………」
「まあ。覚えておいでにならない? 二月も通いましたのに」
リディエンヌは何も言わなかった。目を伏せもしなかった。ただ、代金を台に置いて、わたしに小さく頭を下げて、その方の横を通って出て行った。すれ違うときも、足は止めなかった。
偉い、と思った。ひと月前のこの子なら、できなかった歩き方だ。
この夏のこの子は、盛られた顔の下で眠れなくなっていた。頬の内側を荒らして、目の下をくぼませて、それでも毎朝、三人がかりの椅子に座らされていた。座らせた側の顔を、わたしはいま初めて見ている。
憎む筋合いは、わたしには無いのかもしれない。頼んだのは家で、受けたのは仕事だ。それでも、手が少しだけ冷えた。冷えた手で紅は練れない。だからわたしは、湯で手を温めてから練ることにした。
「愛想のないこと。あの頃は、鏡の前で泣いたり笑ったり、忙しい姫さまでしたけれど」
「カトリーヌ様」
「なあに」
「当店は見物のお代をいただいておりません。ですが、お客さまのお話をなさるのでしたら、お代よりも高うつきます」
カトリーヌ様は、ふ、と息だけで笑った。
「怖いこと。……ときに、王宮の検分、受けていらっしゃるんですって?」
「どちらでお聞きに」
「王都は狭いのよ。とくに、上のほうはね」
その方は棚を眺め渡して、貝殻の紅の前で止まった。
「貝殻。……まだこんな古風なことをなさってるの。いまは陶の器が主流よ。量も入るし、見栄えもいいし」
「貝殻は、掌の熱がゆっくり伝わりますので。練り直しが利きます」
「練り直し? その場で練るの、お客さまの前で」
「肌は、日によって違いますから」
「まあ。一人にそれだけ手をかけて、日に何人お取りになれるのかしら」
商いの話としては、あちらが正しい。三人の化粧師は一日に十の顔を作る。わたしは五つがせいぜいだ。正しさの種類が違うだけだ、とわたしは思っているし、この方は、違う正しさを正しさと認めない側の方だった。
その方は白粉の包みをひとつ、断りなく手に取った。ノエルが階段の途中で足を止めて、じっとこちらを見ているのが、視界の端に見えた。
「悪いことは申しません。お下がりなさいな。あなた、後ろ盾がないでしょう。組合は夫人が沈んでから静かだし、お家は——あら、ごめんなさい。お家の話は、いまさらでしたわね」
ヴェルニエの家の話だ。裁定のことも、この方は全部知っている。知っていて、踏んでくる。踏まれて痛い場所ではないのが、この方の誤算だった。
「ご忠告、承りました。ですが検分は、下りるものではなく、落ちるものでございますので。落ちましたら、そのときに」
「……変わった方ね」
包みが棚に戻された。置き方が少しぞんざいで、包みが傾いた。わたしは黙って直した。
「わたくしはね、推されておりますの。首席の推しですのよ。それでもわざわざ見に来て差し上げたのは、親切心よ」
「痛み入ります」
「それとね」
その方は外套の襟を直して、戸口で振り返った。作られた顔が、初めて作りの外の表情をした。ほんの一瞬、目の奥だけ。
「二十年前のことも、じきに皆さまがお知りになるわ。楽しみにしてらして」
戸が閉まった。
二十年前。検分の話だろう、とわたしは思った。二十年前の検分がどうだったか、王宮の誰かに聞いたのだろう。それを次の課題の前に匂わせて、こちらを揺らすつもりなのだ。安い手だと思った。
◇
「先生」
ノエルが階段を降りてきた。眉間に皺が寄っていた。
「あの人の白粉。すれ違ったとき、匂いした」
「良い白粉でしたか」
「良いやつ。すごく良いやつ。……で、それが変なんだ」
「変、とは」
「あの匂い、前にどっかで知ってる。店で売ってるやつじゃない。売ってるやつなら全部覚えてるもん。売ってないのに、知ってるんだ」
ノエルは自分の鼻を疑わない。疑わないだけの実績がある。売っていないのに知っている匂い。この子の鼻がそう言うなら、そうなのだろう。
「思い出したら、教えてください」
「うん。……なんか、喉の奥に引っかかってて気持ち悪い」
◇
夕方、帳場で今日の分を帳面に書いた。
リディエンヌの頁を開こうとして、指が滑って、間に挟んでいた紙が落ちた。
あの子の手紙だ。四つの折り目。少し湿っていた端は、もう乾いて久しい。開けずに挟んだまま、ひと月近くになる。拾って、埃を払って、元の場所に戻した。
読まないで、とあの子は言った。もうしゃべっちゃったから、と。
でも、あの日この子がしゃべったことと、この手紙に書いたことが同じだとは、誰も言っていないのだ。ふと、そう思った。思ってから、その考えを仕舞った。挟んだ場所は、リディエンヌの頁のところだ。それでいい。
窓の外で、灯がひとつずつ入っていく。二十年前のことも、じきに皆さまがお知りになるわ。あの捨て台詞だけが、妙に耳に残っていた。検分の話にしては、言い方が大きすぎた気がしたのだ。
腕の良い人が嫌な人だと、腕まで嫌いになりそうになります。なってはいけません。腕と人は、別々に量るものです。腕は本物でした。それは書いておきます。
次回、二度目の検分——の前に、妙な沙汰が届きます。首席は検分の席にお出ましにならない、とのこと。




