第27話 字の稽古と、式の日取り
王宮の沙汰を待つあいだも、店には店の毎日がある。
朝は白粉の仕込みから始まる。包みを開ける。湿りを確かめる。昨日より乾いている。秋が近いのだ。篩を目の粗いほうに替える。乾いた粉は細かい篩だと詰まる。道具は季節で入れ替える。母のやり方だ。いまはわたしのやり方でもある。
仕込みが終わる頃に、通りが起きてくる。パン屋の窯の匂い。荷車の音。女将の声。この店の朝は、店より先に通りが作ってくれる。
朝いちばんに粉屋のお内儀の眉墨を渡した。二人目は仕立屋の針子さんだった。針を持つ手の荒れに、硬めの香油を合わせた。三人目の椅子に座ったのは、リディエンヌだった。
「頬の内側、もう粉の跡がありませんね」
「うん。言われたとおり、白粉やめてたから」
「ようございました。今日は、どうなさいます」
「……お出かけ用。午後から、お茶に呼ばれてるの」
この子はあの夜から、十日にいちど来る。客として来る。順番を待つ。代金を払う。おつりの銅貨まで数えて受け取る。最初の日は財布の出し方がぎこちなかった。二度目で、少し慣れた。慣れていくところを、わたしは横で見ている。
どちらへ、とは聞かない。聞かなくても、この子は言いたいときに言う。
紅を練りながら待っていると、案の定、鏡の中から言った。
「昔のお友だちのとこ。……ほら、家がああなってから、誘ってくれる人、減ったでしょう。それでも誘ってくれる子のとこには、ちゃんと行こうと思って」
「良いお考えです」
「婚約はね、流れたの。先方から」
手は止めなかった。紅の練りに、動揺を混ぜてはいけない。
「そう、でしたか」
「うん。……ふしぎとね、悔しくないの。あの話、わたしの顔に来てた話だから。顔っていうか——お姉さまの腕に来てた話、って言えばいいのかな」
この子は最近、こういうことをさらりと言う。六年かけて言えなかった種類のことを、覚えたての言葉で言う。眩しいような、ひやりとするような気持ちで、わたしは紅を置いた。今日の分は、控えめに。お茶の席の顔は、主役の顔ではないから。
「はい、できあがりでございます」
「……うん。これくらいが、いまのわたし」
鏡の中で、この子は右の頬のえくぼを一度だけ確かめて、椅子を立った。帰り際の背中が、来たときより少し伸びていた。化粧の効き目ではない。効き目なら、そうであってほしくない。
◇
午後、ジュリアン様がいらして、そして帳場の隅で事件が起きていた。
「違う。筆はそう持たない」
「持ててるじゃん、ほら」
「持てているのと正しいのは別だ。直しなさい」
「うるさいなあ。読めりゃいいんだよ、字なんて」
「読める字と読ませる字は別だ」
字の稽古である。
言い出したのはノエルで、教えると申し出たのはジュリアン様だった。それ自体はたいへん結構な話なのだが、いかんせん、教える側が生真面目すぎた。筆の持ち方で四半刻、線の引き方で四半刻。ノエルはまだ一文字も書かせてもらえていない。
「ジュリアン様。恐れ入りますが」
「なんでしょう」
「その子は、匂いをひと嗅ぎで三つ言い当てる子でございます。手本をひとつ見せて、あとは好きに書かせてみてくださいまし」
「……順序というものが」
「匂いに順序はございません。あの子は、順序の外で育った子でございますので」
ジュリアン様はしばらく黙って、それから手本を一枚だけ書いて、黙って渡した。ノエルは紙を睨んで、筆を噛んで、それから何やら書いた。線は曲がっていたが、形にはなっていた。
「……読めますね」
「だから言ったろ」
「読める。だが汚い」
「うるさいなあ」
こうして稽古は、四半刻の説教と一枚の手本、という型に落ち着いた。妙な型だが、二人とも案外この型が気に入っているらしいのは、傍で見ていれば分かる。
ノエルが手洗いに立った隙に、わたしは小声で伺った。
「なぜ、字の先生を」
「あの子が、あなたの帳面を読みたがっているからです」
「……ご存じでしたか」
「見れば分かります。読めない者の帳面の見方をする」
この方は、素っ気ない言い方で、素っ気なくないことをなさる。伯爵家の当主が、店の見習いに筆の持ち方を教える。町の人が見たら笑うだろう。本人たちは大真面目だ。だからわたしは笑わないことにしている。笑わないのに、少し笑ってしまうけれど。
◇
夕方、店を閉めてから、式の話になった。
「日取りですが」
ジュリアン様は、帳場の椅子に掛けたまま切り出された。
「叔母上が、秋のうちにと言っています。理由は聞かないでください。占いです」
「マチルド様の占いは、当たりますの」
「当たった例しがありません。ただ、外れた例しも数えていないそうです」
「強うございますね」
わたしは、少し考えた。考えて、正直に申し上げることにした。この方には、順番を飛ばした言い方が通じない。
「春まで、延ばしていただけませんか」
「王宮の件ですか」
「はい。検分がどう転ぶにせよ、あの件はたぶん、春の祭まで尾を引きます。式を挙げるなら、あの件がわたくしの手を離れてからにしとうございます。式の朝に、王宮から早馬が来るような式は、嫌でございますので」
ジュリアン様は、黙った。
長い黙りだった。窓の外で、通りの灯が一つずつ入っていく。わたしは、しくじったろうか、と思った。順番の話をしたつもりで、後回しの話に聞こえたかもしれない。
「……ジュリアン様」
「いえ。考えていました」
その方は顔を上げた。怒った顔ではなかった。
「祭が終わってから、というのは、つまり春の盛りです。花の広場の名のとおり、あの通りに花が咲きます」
「はい」
「悪くない、と考えていました。それだけです」
それだけです、の言い方が少しだけ早口だったのを、わたしは聞かなかったことにした。
◇
その晩、戸締まりの前に、王宮の文が届いた。
ベルナールの字だった。二度目の課題の日取りだろうと思って開くと、違った。
〈お耳に入れておきます。首席が、典礼に別の名を推しておいでです。王都の化粧師、カトリーヌ殿。ご存じの名かどうか、伺えれば幸いです〉
カトリーヌ。
知っている名だった。
王都の化粧師は数え切れないほどいるが、貴族の家に呼ばれる化粧師は三人しかいない、と言われる。その三人のうちの一人だ。腕は確かだと聞く。会ったことはない。ただ、仕事なら見たことがある。
この夏、リディエンヌの頬の内側に残っていた粉の跡。二月のあいだ、あの子の顔を盛り続けた手の、あれが仕事の跡だった。三人がかりだったと聞いた。誰がどの日を受け持ったのかは知らない。知る必要もないと思っていた。
その名前が、いま、王宮への推し名で出てくる。
文を畳んだ。畳んでから、もう一度開いて、読み直した。ベルナールは「ご存じの名かどうか」と聞いている。あの方が知らないはずはない。知っていて、聞いている。つまりこれは問いではない。忠告だ。
知っている名だった。忘れられるものなら、忘れたい側の名だ。
教える側の熱心と、教わる側の熱心は、たいてい形が合いません。合わないまま続くのが、良い稽古のようです。
さて、聞き覚えのある名前が出てまいりました。次回、その方が店にいらっしゃいます。見物、だそうです。




