第26話 覆ってごらんなさいと、首席は仰いました
三日後の検分の部屋には、先客がいた。
若い方だった。二十をいくつか出たくらい。侍女のお仕着せを着て、椅子の横に立って、まっすぐ前を見ている。右の頬に、赤みがあった。生まれつきのものだ。火傷や腫れの赤とは色の底が違う。肌の下から差している赤で、指で押しても消えない類のものだった。
ドロテ様は、机の端に教本を置いた。組合教本、改訂第三版。うちの棚にあるものと同じだ。ただし、こちらの教本は背が割れるほど読み込まれていた。
「課題を出します。この者の頬を、教本のとおりに覆いなさい」
覆いなさい。
「教本の九の章、覆う化粧。頁は開いておきます。手順どおりに、むらなく、境目なく。半刻で仕上げなさい」
「伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「この方は、今日、このあとどちらへ」
「……何の関係があるの」
「化粧は、部屋を出てからのほうが長うございますので」
ドロテ様は答えなかった。代わりに、侍女の方が小さく言った。
「夕方まで、廊下の勤めがございます」
フロールと申します、と名乗られた。声は落ち着いていたが、椅子に掛けるときに一度だけ、右の頬を隠す角度にお顔が動いた。癖だ。長い年月をかけて、身体に染みた角度だった。
◇
白い布で襟を覆う。道具を並べる。鏡の布は、外していただいた。
布を外すとき、フロール様の目が一瞬だけ泳いだ。鏡が苦手な方なのだと分かった。鏡が苦手な方は多い。鏡は正直だからではない。鏡の前でだけ、人は自分の顔を他人の目で見るからだ。他人の目は、たいてい意地が悪い。
「途中で、お尋ねすることがございます。お答えになりたくないことは、お答えにならなくて結構です」
「……検分では、そういうお作法なのですか」
「いいえ。わたくしの店のやり方でございます」
頬に触れる前に、光を見る。この部屋の光は高い窓から落ちてくる。上からの光は、赤みの上に影を足す。廊下の光も似たようなものだろう。つまりこの方は、勤めのあいだじゅう、いちばん赤の目立つ光の下に立っている。
指の腹で、頬に触れる。熱は、ない。乾きは、少しある。赤みの縁を軽く押して、戻りを見る。健やかな肌だ。赤いだけで、どこも悪くない。
教本の九の章を、ちらりと見る。〈覆うべき色の上に、まず灰の下地を〉。灰色で赤を消し、その上に白粉を厚く重ねる。境目は粉でぼかす。書いてあるとおりにやれば、赤みは消えるだろう。
頬の赤みと一緒に、頬そのものも消える。灰の下地は光を返さない。半日で粉が浮いて、浮いた縁から灰色が覗く。夕方の廊下で、この方の頬は継ぎの当たった壁のようになる。
わたしは、灰の皿を取らなかった。
「フロール様。ひとつ、お伺いします」
「……わたくしに、ですか」
「この赤みを、憎んでおいでですか」
フロール様は、鏡の中で目を見開いた。それから、迷って、正直に仰った。
「憎んでは……おりません。母と同じ場所にございますので。ただ、人さまの目が先にそこへ行くのが、少し」
「承知いたしました。では、目の行き先を変えます」
白粉を篩う。二度。目の細かいほうで、もう一度。粉を刷毛に取る。頬に薄く乗せる。赤みの上には、消えない程度にひと刷毛だけ。赤を消さない。温度を残す。
次に目元だ。眉墨を出す。眉尻をわずかに上げる。筆の先を寝かせて、毛の流れに沿って引く。逆らわない。眉は主張させない。目の枠だけ作る。瞼の際に香油を米粒の半分。指の腹で温めてから置く。光る場所を作れば、目はそちらへ行く。人の目は、光るものから見る。
仕上げに紅を取る。貝殻の底で練る。三度。今日は乾いた日だから、水を一滴。唇へ薄く置く。血の色より一段だけ明るく。頬の赤みが、紅の色と繋がる。繋がった色は、もう疵ではない。顔の中で意味を持つ。
手を止める。一歩下がる。光の下で全体を見る。よし。
半刻より、ずいぶん早く終わった。急いだのではない。この方の顔に、直すところが少なかっただけだ。
「できあがりでございます」
フロール様は鏡を見た。そして、動かなくなった。
右の頬に、赤みはある。ちゃんとある。それなのに、鏡の中の顔は、赤みの顔ではなかった。目元から唇へ、見る順番のある顔になっていた。フロール様は右の頬に指を伸ばしかけて、触れる寸前で止めて、もう一度、鏡の全体を見た。
「……これ、わたくしですか」
「もともと、あなたさまです。並べ直しただけでございます」
フロール様は、それからようやく右の頬に触れた。指先で、そっと。赤みは指の下にちゃんとあった。
「母と同じ場所、と仰いましたね」
「はい」
「では、消さなくてよかったのだと思います。今日のところは」
今日のところは、と付けたのはわたしの側の誠実さだ。消したい日が来たら、消せる処方も組める。決めるのはこの方で、わたしではない。
◇
「課題は、覆えと言ったはずです」
ドロテ様の声は、やはり平らだった。いつから部屋においでだったのか、足音を聞いた覚えがない。この方も、音のない歩き方をなさる。王宮というのは、音を消す稽古をした人たちの集まりなのかもしれない。
わたしは布を畳む手を止めなかった。手を止めて答えると、答えが弁解になる。
「覆いは、いたしません」
わたしは頭を下げて、申し上げた。
「覆えば、この方の頬は今日の夕方に崩れます。教本の九の章は間違っておりません。ただ、九の章の顔は、覆いを毎朝やり直せる方の顔でございます。廊下に半日立つ方の顔ではございません」
「課題に、従わなかった」
「はい。従いませんでした」
言い訳はしない。従わなかったのは本当だからだ。ドロテ様はフロール様の顔を長いあいだ見た。白い顔は、最後まで何も語らなかった。
「下がりなさい。沙汰は追って」
◇
帰りの馬車には、ジュリアン様が乗っていた。迎えに来てくださったらしい。町へ戻る橋の上で、わたしは検分の顛末を全部申し上げた。しくじったところまで、全部。
「課題に従わない受験者ですか」
「落ちましたでしょうか」
「落ちたでしょうね、普通なら」
ジュリアン様は窓の外の川を見ながら、こともなげに仰った。
「ただ、あなたは王宮でも変わらないと分かりました。わたしはそれで十分です」
「慰めでございますか」
「事実です。……それと、これは叔母上の受け売りですが」
「はい」
「王宮で普通が通った例しはない、そうです」
叔母上様の言葉は、いつも半分だけ本当で、半分だけ乱暴だ。そして乱暴な半分のほうが、あとになって効いてくる。わたしは川の水面を見た。夕方の川は朝より暗い色をしている。
あの検分に、受かりたかったのだろうか。自分に聞いてみて、返事の代わりにフロール様の顔が浮かんだ。受かる受からないより先に、あの方の夕方の廊下のことを考えていた。それでいい、と母なら言うだろうか。言わないだろうな、とも思う。あの人はきっと、両方やった。
橋を渡り切ったところで、後ろから馬の音がした。王宮の早馬が馬車に並んで、ベルナールが窓越しに文を差し入れてきた。開くと、一行だけ書いてあった。
「なんと」
「……もう一度だけ、機会がございます、と」
覆う化粧が悪いのではありません。覆いを毎朝やり直せる暮らしと、そうでない暮らしがあるだけです。処方は、暮らしまで含めて処方です。
次回、店の側の話です。字の稽古が始まって、式の日取りが少しだけ進みます。
ブックマークと評価をいただけますと、ノエルの手習いの筆が一本増えます。噛み癖があるので、よく減るのです。




