第25話 帳面は、王宮でもお見せいたしません
三日目の朝、馬車は約束どおりに来た。黒くて、紋も飾りもない馬車だった。目立たないための馬車というものがあるのだと、初めて知った。
戸口でノエルに留守を頼んだ。
「客が来たら、順番に書いておいて。……ああ、いえ」
「書けないよ」
「覚えておいてください。匂いででも」
「それなら任せて」
通りの向かいから女将のローズが出てきて、腰に手を当てた。
「今日は誰が座るの」
「王宮の椅子に、わたくしが座ってまいります」
「あんたが座る側かい。そりゃいい」
女将は笑って、それから真顔になって、行っといで、と言った。母を知っている人たちは、みんな少しだけ同じ顔をする。行き先を聞いても驚かない顔だ。
◇
橋を渡るとき、窓の布を少しだけ開けた。
朝の川は白かった。二十年前、母はこの橋を歩いて渡った。三月、毎朝、夜明け前に。馬車は半刻の道を四半刻で行く。速いことが、少し申し訳なかった。
王宮は、外から見るより中が広い。門を三つくぐって、それでもまだ庭だった。ベルナールが先に立って歩く。今日も手袋をしていた。屋内に入っても、外さなかった。
「作法を三つだけ申し上げます」
「はい」
「呼ばれるまで喋らない。触れよと言われるまで触れない。そして、下がれと言われたら振り向かずに下がる」
「店と同じでございます」
「……と、申しますと」
「お客さまの顔も、呼ばれるまで触れませんので」
ベルナールは前を向いたまま、少しだけ歩みを緩めた。笑ったのかもしれない。手袋の方の笑いは、歩幅に出る。
白い回廊を長く歩いた。窓が高くて、光が上から落ちてくる。この光は化粧に向かない。上からの光は、顔の下半分を沈ませる。歩きながらそんなことを考えているのだから、わたしも大概、母の娘だ。
すれ違う人は、みんな足早だった。そして、誰もこちらを見なかった。見ない稽古をしているのだと、途中で気づいた。誰が誰と歩いているかを見てしまうと、見た者の口が疑われる。だから見ない。この場所では、見ないことが礼儀で、見ないことが保身なのだ。
母はここを、三月通った。誰にも見られずに。いや——誰にも、見なかったことにされて。
◇
通されたのは、鏡と長机のある部屋だった。
鏡が大きい。店の鏡の三倍はある。そして、布が掛けられていた。鏡に布を掛ける部屋を、わたしは葬いの家でしか見たことがない。ベルナールに目で問うと、その方は「この部屋の決まりでございます」とだけ仰った。決まりの理由は言わない。言わないのか、言えないのか、それも分からない。
待つあいだに、机の上へ道具を並べた。呼ばれてから並べるのでは遅い。篩を二枚、貝殻を四つ、眉墨、香油、白粉の包み。布を敷いて、右利きの並びで置く。貝殻の口はすべて手前へ向ける。倒したときに、こちらへこぼれるように。人さまの側へこぼす道具の並べ方は、しない。
並べ終えて、手が止まって、それから気づいた。手が勝手に、いちばん丁寧な並べ方をしている。緊張しているのだ。手のほうが、頭より正直だった。
足音がした。扉が開いて、その方は入ってきた。
白かった。
六十を越えておられるはずの顔に、皺の影がひとつも見えない。白粉が完璧だった。完璧すぎて、表情が読めない。笑っているのか、怒っているのか、顔の表面が教えてくれない。こういう顔を、わたしは初めて見た。
「首席化粧師の、ドロテ様でいらっしゃいます」
ベルナールが名を告げた。わたしは頭を下げた。
「顔をお上げなさい」
声にも、表情がなかった。
「エレーヌの娘だそうね」
「セラフィナと申します」
「聞いたのは名前ではありません」
「——はい。エレーヌの娘でございます」
ドロテ様は机の前まで来て、並べた道具を上から順に見た。手は触れない。目だけで、篩の目の細かさまで数えるような見方だった。
「道具は、悪くありません。手入れは教本のとおりに?」
「母に教わったとおりに、でございます」
「同じことです。教本の手入れの章は、正しい」
教本のとおりに。その言い方を、この方はこのあと何度もなさった。
「白粉を篩うのは」
「二度でございます」
「教本のとおりね。紅を練るときの回数は」
「決めておりません」
白い顔が、こちらを向いた。
「教本には、二十四度とあります」
「肌によって変わりますので。乾いた頬には少なく、脂の多い頬には多く。数えるのは回数ではなく、指に返ってくる重さでございます」
「……重さ」
「はい。紅が指を離したがる手前で止めます。そこを越えると、色が死にます」
ドロテ様は何も仰らなかった。正しいとも、違うとも。ただ、次の問いまでの間が、それまでより一拍長かった。
「香油は何で溶くの」
「季節によります。いまの時期なら、火を使わずに手のひらで」
「教本では湯煎です」
「湯煎は速うございます。ただ、速い分だけ、香りが先に立ちます。お顔よりも先に香りが部屋へ入るお化粧を、わたくしはいたしません」
問いが止まった。長い沈黙のあとで、ドロテ様は言った。
「では、帳面を」
来た。わたしは息を整えて、申し上げた。
「お見せできません」
部屋が静かになる前に、続けた。静けさに先を取られると、こちらの言葉が言い訳になる。
「帳面には、お客さまの顔が書いてございます。頬の痕も、瞼の癖も、その方が隠しておいでのことも。わたくしの腕はいくらでもお検めください。ですが帳面は、わたくしのものであって、わたくしだけのものではございませんので」
「王宮でも、と言うのね」
「王宮でも、でございます。処方は、ひとつも」
ドロテ様は、わたしの顔をしばらく見ていた。白い顔の奥で何が動いているのか、まるで分からなかった。
「……いいでしょう。腕を見ます。三日後、課題を出します」
「承りました。ただ、一つだけ」
「まだ何かあるの」
「店は、閉めません。検分は、店の順番の空きに通わせていただきます」
初めて、白い顔の眉のあたりが動いた。ほんのわずかだった。
「二十年前のあの人も、同じことを言いました」
声の温度は変わらなかった。それでも、その一言だけは、教本の言葉ではなかった。二十年、この方の中のどこかに置いてあった言葉だ。置いてあった場所までは、白い顔が隠して見せない。
「母を、ご存じなのですね」
「検分は三日後です」
問いは受け取っていただけなかった。それだけ仰って、ドロテ様は踵を返した。
扉の手前で、一度だけ足が止まった。机の端の帳面——布に包んで、道具の隣に置いてあった——その背のあたりを、視線が撫でた。手袋のベルナールが扉を開ける。ドロテ様の指が、宙で小さく動いた。帳面の背の、綴じ糸の高さで。
古い糸だから、目に留まったのだろう。母の代からの糸だ。そろそろ替えねば、とわたしも思っていたところだった。
白粉が完璧すぎる顔は、実はいちばん難しい顔です。完璧は、その日の肌ではなく、昨日までの決まりで作るものですから。
次回は検分の課題です。覆ってごらんなさい、と首席は仰せです。困りました。覆いは、いたしませんのに。




