第24話 母の頁は、春だけ飛んでおります
翌朝、店を開ける前に、帳面を最初から繰った。
百四十頁のうち、母の書いた分は六十八頁ある。日付、客の名、肌の質、光の向き、使った処方。母の字は細くて、行の終わりが少しだけ上がる。急いで書いた頁ほど上がりが強い。そういうことも、六年めくっていると分かるようになる。
たとえば、こういう頁がある。
〈ベルタン子爵夫人。冬の八の日。頬に赤み。粉を薄く、紅は置かない。ご本人は紅を望まれたが、断った。三日後に肌が落ち着いてから〉
断った、まで書く。断った理由は書かない。読めば分かるからだ。母の帳面は、そういう帳面だった。省くところと省かないところが、いつも同じ場所にある。だから読みやすい。だから、抜けがあればすぐに分かる。
わたしが探したのは、二十年前の春だ。
無かった。
正しく言えば、冬の終わりまでは毎日のようにあって、春の頭からぱたりと絶えて、次の頁はもう夏の初めだった。三月ぶん、日付が飛んでいる。頁が破られているのではない。破られた七頁とは違う。頁はつながっている。ただ、書いていない。
三月。人の肌がひとつの季節を越える長さだ。
「先生、朝から険しい顔」
ノエルが箒を持ったまま覗き込んできた。
「見て分かるものですか」
「分かるよ。頁をめくる音が速い」
音か。この子は目より先に耳と鼻で生きている。わたしは飛んでいる前後の頁を開いて見せた。
「ここから、ここまで。三月、何も書いてありません」
「……字は読めないけどさ」
ノエルは頁に鼻を寄せた。片目を閉じる。
「この、書いてないとこの前の頁。墨の匂いが濃い。あとのほうは薄い」
「濃い、とは」
「一日に何度も書いたやつは墨が重なって濃くなる。うちの棚の札と同じ。……この前の頁、たぶんすごく忙しかった。で、ぱたっと止まってる」
忙しさの絶頂で、書くのをやめた。あるいは、書けない場所へ行った。
王宮。ベルナールの声が耳に戻ってくる。二十年前にお選びした方の、娘御でいらっしゃいますので。
「ねえ先生。その飛んでる三月ってさ、悪いことなの」
「悪いことかどうかは、まだ分かりません。ただ」
「ただ?」
「母は、書かない人ではなかったのです。雨の日に客が来なかったら、来なかったと書く人でした」
ノエルは箒を壁に立てかけて、しばらく頁を眺めていた。読めない字を眺めるこの子の目は、読める人間より頁をよく見る。
「……先生のおっかさんてさ、どんな人」
「手の速い人でした。わたくしの倍の速さで、わたくしより丁寧でした」
「化け物じゃん」
「はい。いまでも追いつけません」
言ってから、追いつけないという言い方が、まだ母を測っている言い方だと気づいた。六年経っても、わたしはあの人の帳面の中で仕事をしている。それが嫌ではないから、困る。
◇
昼過ぎに、アニェス・ボレル様がいらした。
八十三におなりで、月にいちど、杖をついて香油を求めにいらっしゃる。母の代からのお客さまだ。母の客で存命の方は、もうこの方おひとりしかいない。店を持ったばかりの頃、最初のひと月を支えてくださったのもこの方の口だった。良いとも悪いとも言わず、ただ毎月、同じ日に来てくださる。それが通りにどう見えるかを、ちゃんと知っていて。
「今日は顔が違うね、セラフィナ」
「顔は、いつもどおりのはずですが」
「作った顔はね。中身の話だよ」
椅子にお掛けいただいて、香油の支度をする。
冬が近づくと、この方の手の甲は乾いて粉を吹く。香油に蜜蝋をほんのひとかけ溶かして、硬めに作る。手のひらに取って、体温で緩めてから使う分だ。瓶を火にかざして、蝋の溶け際を見る。溶け切る一歩手前で下ろす。混ぜる。冷ます。とろみが筋を引いたら、できあがり。
「王宮から人が来たんだって」
「ご存じでしたか」
「この歳になるとね、耳だけ良くなるんだよ」
嘘だ。この方は耳より先に、人の出入りを見ている。窓辺の席で一日過ごして、通りを覚えている。母はこの方のことを〈花の広場の帳面〉と呼んでいた、と女将から聞いたことがある。
「アニェス様。母のことで、伺いたいことがございます」
「おや、珍しい」
「二十年前の春を、覚えておいでですか」
老いた方に二十年前と聞くのは失礼かと思ったが、アニェス様は笑った。
「二十年前なんて、あたしにはついこの前だよ」
「その春、母は」
「来なかったね、まるまる三月」
即答だった。帳面と同じことを、この方は覚えている。
「あたしの手がいちばん荒れる時期にだよ。だからよく覚えてる。恨み言のひとつも言おうと思って、夏に来たあの人を待ち構えてたんだから」
「母は、何と」
「謝りもしないで、手を出しなさいって。それで香油を塗りながら、ひとことだけ。——遠くまで通っておりました、って」
遠く。王都の東の外れから、遠く。
「どこへ通っていたかは」
「言わないよ、あの人は。聞いたって、手を動かしながら笑ってるだけさ。あんたと同じ顔でね」
「……似ておりますか」
「聞かれたくないことを聞かれたときの顔がそっくりだよ。いま、してるだろう」
していたかもしれない。手の甲に香油を伸ばして、伸び具合を見るふりをした。
「でもね」
アニェス様は声を落とした。内緒話の顔になっていた。
「うちの向かいの若いのが、明け方の橋で何度も見たんだと。夜明け前に、道具箱を提げて西へ渡っていくエレーヌをね。三月のあいだ、ほとんど毎朝」
「西」
「西の先に何があるかなんて、言わせるんじゃないよ」
西には、王宮がある。
◇
香油の瓶に布を掛けて、紐で結ぶ。アニェス様はそれを袋に仕舞ってから、思い出したように付け加えた。
「そうそう。おかしなことがもうひとつあってね」
「はい」
「三月も休んで、さぞ実入りが良かったろうと思うじゃないか。ところがあの夏のエレーヌは、うちの支払いを待ってくれって言うくらい、素寒貧だった」
「……対価を、いただいていない」
「帰ってきた日、あの人は手ぶらだったんだよ。道具箱ひとつでね。三月ぶん、ただ働きさ」
◇
夜、店を閉めてから、明日の支度をした。
乗るとはまだ言っていない。それでも支度はする。行かないと決めたときに支度が無駄になるのは構わないが、行くと決めたときに支度が無いのは困る。順番の話だ。
道具箱を拭く。母の道具箱だ。角の革が擦り切れて、下の木が見えている。蓋の裏に篩を二枚。仕切りの左に紅の貝殻、右に白粉の包み。眉墨と香油は立てて入れる。倒すと蓋の裏に色が移る。詰め終えて、持ち上げて、重さを確かめる。片手で提げて、半刻歩ける重さ。母はいつも、そう詰めていた。
この箱を提げて、母は三月、夜明け前の橋を渡った。
三月、毎朝。対価も取らずに。そして、一行も書き残さずに。
母はいったい、誰の顔を作っていたのだろう。
書き残す人がいちばん恐ろしいのは、書かないと決めたときです。忘れたのではなく、残さないほうを選んだのですから。
次回、迎えの馬車が来ます。王宮という場所は、帳面を検めたがるそうです。こちらにも言い分がありますけれど。




