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義妹を「王都一の美姫」にしたのは、わたくしの紅でした 〜出て行けと仰るので、調合帳は一頁も置いてまいりません〜  作者: 紅坂ゆい
第4章 紅は、貸すものではありません

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第23話 王宮のお召しは、断れるのでしょうか

 ベルナールと名乗った方は、まだ紙を手のひらに乗せたままでいた。


 わたしは受け取らなかった。受け取ると、話が受け取ったところから始まってしまう。話は、始まる前がいちばん大事だ。母の帳面の一頁目にも、似たようなことが書いてある。〈顔に触れる前に、椅子の高さを合わせること〉。顔の話ではないのだと、六年やってようやく分かった。何の仕事でも同じなのだ。


「伺いたいことが、三つございます」

「どうぞ」

「そのお召しは、お断りできるものですか」

「できます」


 即答だった。


「二十年前も、七人の方がお断りになりました。王宮の仕事は、割に合いませんので」

「割に、合わない」

「実入りの話ではございません。しくじれば化粧師を辞めることになり、うまくいっても、うまくいったと誰も言ってくださらない。王妃陛下のお顔が良いのは、当たり前のことでございますから」


 正直な方だと思った。王宮の使いというものは、良いことだけ並べて帰るのだと思っていた。この方は、悪いことから並べている。


「二つ目のご質問を」

「わたくしが選ばれたわけでは、まだないのですね」

「ございません。これは検分への召しでございます。首席化粧師が、道具と腕と人柄を検めます。王家の大礼——ご婚礼、戴冠、そして十年祭。化粧師を一人だけお召しになるときは、必ずその手順を踏みます」

「首席化粧師」

「王宮に住み込みで、王妃陛下のお顔を預かっておられる方です。この十年、毎朝」


 毎朝、と聞いて、義妹の顔を思い出した。毎朝には、毎朝の重さがある。それは金でも名誉でも量れない。


「三つ目でございます。祭は、いつですか」

「来年の春。陛下が戴冠なさった月でございます」


 春。いまは夏の終わりだ。半年ある。半年しかない、と言う人もいるだろう。肌をひとつ知るのにひと月、季節をまたぐ処方を組むのにもうひと月。それを思えば、長くはない。


「では、お受けするかどうかの前に、こちらから一つだけ申し上げます」

「伺います」

「店は、閉めません」


 ベルナールは瞬きをした。それから、手袋の中で指を一度、組み直した。屋内なのに手袋を外さない方だ。外さない理由までは、顔に書いていない。


「……検分の前に条件をお出しになった方は、はじめてでございます」

「条件ではございません。順番の話です。この店には、順番をお待ちの方がおられますので」


 ちょうどそのとき、戸が開いて、常連の粉屋のお内儀が顔を出した。お内儀はベルナールを見て、手袋を見て、それから何も聞かずに壁際の椅子に座った。この通りの方たちは、聞かないでいるのが上手だ。


「明後日の祝いの分、お願いね。順番は待つから」

「承っております。眉墨を新しくしておきますね」


 ベルナールはそのやり取りを最後まで見てから、紙を台の上に置いた。折られたまま。


「お開けになるのは、お決めになってからで結構でございます。三日後の朝、迎えの馬車をよこします。乗るも乗らぬも、そのときに」


 一礼して、出て行かれた。歩き方に音がなかった。音のない歩き方は、稽古しないと身につかない。あの方も、何かの職人なのだと思う。


 ◇


「先生ってさ」


 ノエルが階段を降りてきた。途中から全部聞いていた顔だ。


「王宮だよ、王宮。ふつう最初に聞くのは金の話だろ」

「金額で決める仕事ではないでしょう」

「だとしても聞くの。聞いてから断るの。ほんとに商売下手だよな」

「褒め言葉として承ります」

「褒めてない」


 粉屋のお内儀が声を出して笑った。ノエルは台の上の紙をじっと見て、それから匂いを嗅いだ。片目を閉じて。


「……蝋と、墨と、あと知らない木の匂い。いいやつだ、これ。うちの棚のどれとも違う」

「開けてはいけませんよ」

「開けないよ。匂いだけ」


 わたしは乳鉢を引き寄せた。手が空くと、考えなくてもいいことまで考える。だから手を動かす。


 お内儀の眉墨を作る。煤を乳鉢に落とす。香油を三滴。指の腹で練る。伸びを見る。お内儀の眉は右が薄い。薄いほうに合わせて柔らかめに練る。硬い墨は薄い眉に線が立ちすぎる。練り上がりを手の甲に引く。光にかざす。夕方の光は嘘をつくので、西の窓は使わない。東の壁に映して見る。よし。


 手を動かしているあいだ、頭の中は静かだった。王宮のことは棚の上に置いてある。眉墨の次は白粉の仕込みがある。今日の分の仕事は、今日の分だけある。それでいい。


 爪のふちに、紅の染みが見えた。もう何年も、そこにある。石鹸では落ちない。落とす気もない。


「先生。行くんでしょ、どうせ」

「まだ決めておりません」

「決めてる顔してる」

「どんな顔ですか、それは」

「篩を二度かけるときの顔」


 二度かけるのは、決めているからだ。生意気なことに、当たっている。


 ◇


 夕方、ジュリアン様がいらした。今朝、申し出をなさって、昼に王宮の使者が来て、日の暮れにまたいらした。一日に二度いらっしゃるのが普通なのかどうか、まだお互いに分かっていない。そういう時期なのだと思う。


「王宮から人が来たと聞きました」

「お耳が早いことです」

「マチルド叔母上です。町中の話が、あの人のところには昼までに集まる」

「昼までに」

「使者があなたの店の戸を叩いたのは、昼だったそうですが」


 つまり、叩いた音とほとんど同時に届いている。恐ろしい速さだ。組合の認可より、あの方の耳のほうがよほど検分が細かい。


 わたしは紙を見せた。ジュリアン様は開けずに、折り目だけをご覧になった。


「受けるのですか」

「店は閉めない、と申し上げました」

「答えになっていません」

「はい。まだ答えを持っておりませんので」


 その方は少し黙って、それから、窓の外を見ながら仰った。


「式のことですが」

「はい」

「あなたが決めていい。日取りも、場所も、大きさも」

「では、小さくいたします」

「即答ですね」

「式の大きさは、金額で決める話ではございませんので」


 ジュリアン様は笑わない方だが、このときは口の端が動いた。


「王宮の話も、それで決めるのでしょう。金でも、家の名でもなく」

「——たぶん、母で決めます」


 言ってから、自分の言葉に自分で気がついた。二十年前にお選びした方の、娘御。あの方はそう仰った。母は王宮へ行った。二十年前に。そして帳面には、そのことが一行も書いていない。


 書いていない、ということが、書いてあることより気になっている。母は書く人だった。白粉の湿り気ひとつ、客の椅子の高さひとつ、書かずにいられない人だった。その人が、王宮のことだけ書かなかった。書き忘れる人ではない。ということは、書かないと決めたのだ。決めた理由を、わたしは知らない。


「三日後の朝に、馬車が来るそうです」

「乗るのですね」

「乗って、検分とやらを拝見して、それから決めても遅くないと思っております」

 王宮の仕事は割に合わない、と使者の方が言うのは本当です。うまくいくほど、誰の仕事でもなかったことになりますので。それでも行く人には、割り算より先に理由があります。

 次回、帳面をあらためて開きます。母の頁は、春だけ日付が飛んでいました。

 ブックマークと評価をいただけますと、王宮までの馬車賃が浮きます。歩いても行けますけれど。

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