第23話 王宮のお召しは、断れるのでしょうか
ベルナールと名乗った方は、まだ紙を手のひらに乗せたままでいた。
わたしは受け取らなかった。受け取ると、話が受け取ったところから始まってしまう。話は、始まる前がいちばん大事だ。母の帳面の一頁目にも、似たようなことが書いてある。〈顔に触れる前に、椅子の高さを合わせること〉。顔の話ではないのだと、六年やってようやく分かった。何の仕事でも同じなのだ。
「伺いたいことが、三つございます」
「どうぞ」
「そのお召しは、お断りできるものですか」
「できます」
即答だった。
「二十年前も、七人の方がお断りになりました。王宮の仕事は、割に合いませんので」
「割に、合わない」
「実入りの話ではございません。しくじれば化粧師を辞めることになり、うまくいっても、うまくいったと誰も言ってくださらない。王妃陛下のお顔が良いのは、当たり前のことでございますから」
正直な方だと思った。王宮の使いというものは、良いことだけ並べて帰るのだと思っていた。この方は、悪いことから並べている。
「二つ目のご質問を」
「わたくしが選ばれたわけでは、まだないのですね」
「ございません。これは検分への召しでございます。首席化粧師が、道具と腕と人柄を検めます。王家の大礼——ご婚礼、戴冠、そして十年祭。化粧師を一人だけお召しになるときは、必ずその手順を踏みます」
「首席化粧師」
「王宮に住み込みで、王妃陛下のお顔を預かっておられる方です。この十年、毎朝」
毎朝、と聞いて、義妹の顔を思い出した。毎朝には、毎朝の重さがある。それは金でも名誉でも量れない。
「三つ目でございます。祭は、いつですか」
「来年の春。陛下が戴冠なさった月でございます」
春。いまは夏の終わりだ。半年ある。半年しかない、と言う人もいるだろう。肌をひとつ知るのにひと月、季節をまたぐ処方を組むのにもうひと月。それを思えば、長くはない。
「では、お受けするかどうかの前に、こちらから一つだけ申し上げます」
「伺います」
「店は、閉めません」
ベルナールは瞬きをした。それから、手袋の中で指を一度、組み直した。屋内なのに手袋を外さない方だ。外さない理由までは、顔に書いていない。
「……検分の前に条件をお出しになった方は、はじめてでございます」
「条件ではございません。順番の話です。この店には、順番をお待ちの方がおられますので」
ちょうどそのとき、戸が開いて、常連の粉屋のお内儀が顔を出した。お内儀はベルナールを見て、手袋を見て、それから何も聞かずに壁際の椅子に座った。この通りの方たちは、聞かないでいるのが上手だ。
「明後日の祝いの分、お願いね。順番は待つから」
「承っております。眉墨を新しくしておきますね」
ベルナールはそのやり取りを最後まで見てから、紙を台の上に置いた。折られたまま。
「お開けになるのは、お決めになってからで結構でございます。三日後の朝、迎えの馬車をよこします。乗るも乗らぬも、そのときに」
一礼して、出て行かれた。歩き方に音がなかった。音のない歩き方は、稽古しないと身につかない。あの方も、何かの職人なのだと思う。
◇
「先生ってさ」
ノエルが階段を降りてきた。途中から全部聞いていた顔だ。
「王宮だよ、王宮。ふつう最初に聞くのは金の話だろ」
「金額で決める仕事ではないでしょう」
「だとしても聞くの。聞いてから断るの。ほんとに商売下手だよな」
「褒め言葉として承ります」
「褒めてない」
粉屋のお内儀が声を出して笑った。ノエルは台の上の紙をじっと見て、それから匂いを嗅いだ。片目を閉じて。
「……蝋と、墨と、あと知らない木の匂い。いいやつだ、これ。うちの棚のどれとも違う」
「開けてはいけませんよ」
「開けないよ。匂いだけ」
わたしは乳鉢を引き寄せた。手が空くと、考えなくてもいいことまで考える。だから手を動かす。
お内儀の眉墨を作る。煤を乳鉢に落とす。香油を三滴。指の腹で練る。伸びを見る。お内儀の眉は右が薄い。薄いほうに合わせて柔らかめに練る。硬い墨は薄い眉に線が立ちすぎる。練り上がりを手の甲に引く。光にかざす。夕方の光は嘘をつくので、西の窓は使わない。東の壁に映して見る。よし。
手を動かしているあいだ、頭の中は静かだった。王宮のことは棚の上に置いてある。眉墨の次は白粉の仕込みがある。今日の分の仕事は、今日の分だけある。それでいい。
爪のふちに、紅の染みが見えた。もう何年も、そこにある。石鹸では落ちない。落とす気もない。
「先生。行くんでしょ、どうせ」
「まだ決めておりません」
「決めてる顔してる」
「どんな顔ですか、それは」
「篩を二度かけるときの顔」
二度かけるのは、決めているからだ。生意気なことに、当たっている。
◇
夕方、ジュリアン様がいらした。今朝、申し出をなさって、昼に王宮の使者が来て、日の暮れにまたいらした。一日に二度いらっしゃるのが普通なのかどうか、まだお互いに分かっていない。そういう時期なのだと思う。
「王宮から人が来たと聞きました」
「お耳が早いことです」
「マチルド叔母上です。町中の話が、あの人のところには昼までに集まる」
「昼までに」
「使者があなたの店の戸を叩いたのは、昼だったそうですが」
つまり、叩いた音とほとんど同時に届いている。恐ろしい速さだ。組合の認可より、あの方の耳のほうがよほど検分が細かい。
わたしは紙を見せた。ジュリアン様は開けずに、折り目だけをご覧になった。
「受けるのですか」
「店は閉めない、と申し上げました」
「答えになっていません」
「はい。まだ答えを持っておりませんので」
その方は少し黙って、それから、窓の外を見ながら仰った。
「式のことですが」
「はい」
「あなたが決めていい。日取りも、場所も、大きさも」
「では、小さくいたします」
「即答ですね」
「式の大きさは、金額で決める話ではございませんので」
ジュリアン様は笑わない方だが、このときは口の端が動いた。
「王宮の話も、それで決めるのでしょう。金でも、家の名でもなく」
「——たぶん、母で決めます」
言ってから、自分の言葉に自分で気がついた。二十年前にお選びした方の、娘御。あの方はそう仰った。母は王宮へ行った。二十年前に。そして帳面には、そのことが一行も書いていない。
書いていない、ということが、書いてあることより気になっている。母は書く人だった。白粉の湿り気ひとつ、客の椅子の高さひとつ、書かずにいられない人だった。その人が、王宮のことだけ書かなかった。書き忘れる人ではない。ということは、書かないと決めたのだ。決めた理由を、わたしは知らない。
「三日後の朝に、馬車が来るそうです」
「乗るのですね」
「乗って、検分とやらを拝見して、それから決めても遅くないと思っております」
王宮の仕事は割に合わない、と使者の方が言うのは本当です。うまくいくほど、誰の仕事でもなかったことになりますので。それでも行く人には、割り算より先に理由があります。
次回、帳面をあらためて開きます。母の頁は、春だけ日付が飛んでいました。
ブックマークと評価をいただけますと、王宮までの馬車賃が浮きます。歩いても行けますけれど。




