第22話 素顔のまま、あの子は名乗りました
リディエンヌは素顔だった。白粉も、紅も、墨も、何もない。髪だけ結ってある。結い方が慣れていない。自分で結ったのだろう。外套の裾が濡れていた。歩いてきたらしい。ヴェルニエの家から花の広場まで、一刻。
「……こんばんは」
声が小さかった。
「こんばんは」
わたしは戸を大きく開けた。
「お入りください。冷えます」
リディエンヌは店の中を見回して、それから椅子の前で止まった。
座らなかった。
「あの」
「はい」
「これ」
手を出した。紙が一枚、握られている。折り目が四つついていて、端が少し湿っていた。わたしは受け取らずに、その手を見た。
「置いていくつもりでいらしたのですか」
「……うん」
「戸の隙間に」
「うん」
この子はうつむいた。
「入れて、帰ろうと思ったの。でも、灯りがついてたから」
わたしは紙を受け取った。開かなかった。台の上に置いて、灯りをもうひとつ入れた。
「お座りください」
「でも」
「立っておられると、こちらが首を上げねばなりませんので」
リディエンヌは座った。鏡の前の椅子だ。この店で、六年ぶりに、この子がその椅子に座った。わたしはその顔を見た。
白粉のない顔を見るのは、六年ぶりだった。朝、支度の前に見ていたはずだが、あのころは「これから作るもの」として見ていた。作るものとして見る顔と、そのままの顔は、同じ顔でも違って見える。
右の頬骨が高い。左の顎が、ほんの少し前に出ている。肌は荒れていた。この二月ほど、盛る化粧をされ続けたせいだ。頬の内側に、細かい粉の跡が残っている。目の下が、少しくぼんでいる。眠れていない。
それでも。
「リディエンヌ」
「はい」
「お顔を、見せていただいてもよろしいですか」
この子は身を固くした。
「……見えてるでしょ」
「近くで、という意味です」
わたしは灯りを近づけて、正面から、それから左右から見た。三度、角度を変えて。六年、毎朝していたことだ。手順は変わらない。
「よく眠っておられませんね」
「うん」
「頬の内側が荒れております。今日から三日、白粉をお使いにならないでください」
「……」
「香油だけ、夜に米粒ほど。それで戻ります」
リディエンヌはうつむいたまま聞いていた。それから、顔を上げずに言った。
「お姉さま」
「はい」
「わたし、きれいじゃないでしょう」
わたしは灯りを台に戻した。六年、この問いを一度も受け取らなかった。受け取る機会が無かったのではない。わたしが作らなかったのだ。
毎朝、四半刻。座って、顔を作って、きれいと言われて、終わる。そのあいだに、この子がわたしに何かを聞ける間は、一度も無かった。
「リディエンヌ」
「なに」
「あなたのお顔は、とても良いのです」
この子は顔を上げた。
「……なぐさめ?」
「いいえ。仕事の話です」
わたしは椅子をもうひとつ引いて、正面に座った。
「あなたは、右の頬骨が高くて、左の顎が少しだけ前に出ておられます。左右で違うのです」
「……それ、悪いってことでしょう」
「いいえ」
首を振った。
「王都で、あの差が指の腹で分かるくらいで収まっている方は、十人に一人もおられません。たいていは、もっと大きく違います」
「でも」
「頬骨の高さも、あれより高くても低くても、光の当たり方が悪くなります。ちょうどよいのです。それから、笑ったときに右の頬だけにえくぼが出ます。あれは、わたくしには作れません」
リディエンヌは口を開けたまま、何も言わなかった。
「六年、わたくしがしていたのは、あなたがもともとお持ちのものを、いちばん見えやすい位置に置くことだけです」
「……足してないの」
「一度も足しておりません」
この子は、わたしの手を見た。爪のふちに、紅の染みが残っている。石鹸ではもう落ちない。
「わたくしは、顔を直しません」
わたしはその手を膝の上に置いた。
「合わせるだけです。六年、ずっとそうしておりました」
この子はしばらく動かなかった。それから、両手で顔を覆った。声は出さない。肩も動かない。ただ、指のあいだから息が漏れる音がした。わたしは何もしなかった。手を伸ばすと、また断られるかもしれない。花祭の日に一度、断られている。
だから、黙って座っていた。
二十数えるくらい。
この子は手を下ろした。目のまわりが赤くなっていた。素顔なので、それが全部見えた。
「……お姉さま、なんで言ってくれなかったの」
「申し訳ございませんでした」
わたしは頭を下げた。
「六年、一度も申し上げませんでした。気づかせないのが仕事だと思っておりました」
「……」
「気づかせないというのは、お客さまに手順を気づかせないという意味です。ご本人に、ご自分の顔を気づかせないという意味ではございません」
顔を上げた。
「間違えました。六年ぶんです」
リディエンヌはまた下を向いた。それから、小さい声で言った。
「わたしも、なんにも聞かなかった」
「はい」
「毎朝、座ってただけ」
「はい」
「……ごめんなさい」
◇
台の上の紙を、この子は目で示した。
「それ、読まないで」
「よろしいのですか」
「もう、しゃべっちゃったから」
わたしは紙を、封も開けずに帳面のあいだへ挟んだ。いつか読むかもしれない。読まないかもしれない。
「リディエンヌ」
「はい」
「お顔をお作りしましょうか」
この子は首を振った。
「今日はいい」
「では、いつでも」
「……うん」
立ち上がって、扉のところまで歩いて、それから振り返った。
「あの」
「はい」
「わたし、お客としてでも、いい?」
「もちろんでございます」
わたしは椅子を戻して、台の帳面を開いた。新しい頁を出して、いちばん上に日付を書いた。それから、顔を上げて申し上げた。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
この子はこちらを見た。少し笑った。右の頬だけに、えくぼが出た。
「リディエンヌです」
家名は、言わなかった。
わたしも書かなかった。
◇
三日後の朝、ジュリアン様がいらした。馬でも馬車でもなく、歩いて。髪は耳の後ろへ流したままだった。この三日、ずっとそうしておられるらしい。
「セラフィナ殿」
「はい」
「お伝えすることがあります」
その方は店の入口に立っておられた。入ってこられなかった。
「裁定の日に、あなたは勝ちに来ていなかったと申しました」
「伺いました」
「あれから考えて、言い直したくなりました」
「はい」
「あなたは、勝ちに来ていなかったのではなく——争いに来ていなかった」
わたしは手を止めた。
「争いに来ない人と、これから先も一緒にいたいと思っています」
その方はそこで一度、言葉を切られた。
「これは、そういう申し出です」
わたしは乳鉢を置いた。それから、東の窓のほうを見た。朝の光が入っている。向かいの壁が土色なので、この店の光は少し黄色い。六年、わたしは人の顔を見て、その人が何を気にしているかを読んできた。自分の顔は、あまり見ていない。
いま、たぶん、ずいぶんひどい顔をしている。
「お受けいたします」
そう申し上げた。
「ただ、二つだけ」
「伺います」
「店は続けます」
「当然です」
「それから、髪は、そのままになさってください」
その方は耳の後ろに手をやって、それから下ろされた。
「……そのつもりです」
◇
その日の昼、扉が叩かれた。立っていたのは、見たことのない方だった。年のころが分からない。四十にも六十にも見える。手袋をしておられた。屋内でも外さない類の手袋だった。
「セラフィナ殿でいらっしゃいますか」
「はい」
「ベルナールと申します。王宮の者でございます」
わたしは道具を置いた。
「王宮」
「はい。来年、王妃陛下の戴冠から十年になります」
その方は、懐から折った紙を出された。開かずに、手のひらに乗せたままで。
「十年祭には、古い決まりがございましてね。王妃陛下のお顔を作る化粧師を、王都から一人だけお召しになります」
ノエルが、階段のところで足を止めたのが見えた。
「一人だけ」
「一人だけでございます。組合ではなく、王宮がお選びになります」
その方は、紙をこちらへ差し出された。わたしは受け取らずに、伺った。
「なぜ、わたくしのところへ」
「それは」
その方は、はじめて表情を動かされた。
「二十年前にお選びした方の、娘御でいらっしゃいますので」
第一部は、ここまでです。
六年ぶん貸していたものを引き上げただけで、借りていた側が崩れていく——という話を書きたくて始めました。書いているうちに、貸していた側にも返さなければならないものがあったことに気づきました。「あなたの顔は、とても良いのです」という一言を、彼女は六年、言わずにいました。それを言うのが第一部の最後になったのは、たぶん正しかったのだと思います。
母の破った七頁は、もう戻りません。戻らないものの上に、新しい頁が積まれていきます。百四十頁のうち、いま埋まっているのは百三十頁ほどです。
——ところで、二十年前に王宮へ召された化粧師が、いったい誰の顔を作ったのか。それだけは、この帳面のどこにも書いてありません。
王宮のお召しを、受けるのか。断れるのか。第二部・第23話『王宮のお召しは、断れるのでしょうか』へ続きます。
ブックマークと評価をいただけますと、第二部の帳面が綴じられます。




