第21話 家財目録の日付は、母の亡くなる前日でした
書状は、訴えの通知だった。ヴェルニエ男爵家が、王都の商事裁定所に申し立てをした。家財目録に載っている物品一点の返還を求める、という内容だった。物品の名は〈化粧調合帳 一冊〉。
裁定の日は、十日後。
ジュリアン様は書状を読んで、すぐに人を手配すると仰った。
「代理人を立てましょう。商事の裁定に慣れた者を知っています」
「お断りいたします」
「なぜです」
「代理人を立てますと、費用がかかります」
「私が出します」
「そうしていただくと、この帳面がリヴィエール伯爵家に借りのあるものになります」
その方は口を閉じられた。
「それに」
わたしは書状をたたんだ。
「わたくしは、何も主張することがございません」
「返還を拒むのでしょう」
「拒みます。ですが、拒む理由を並べ立てるつもりはございません」
ジュリアン様はしばらく黙っておられた。
「……勝つ気があるのですか」
「勝ち負けの話ではございませんので」
◇
裁定所は、王宮の南にある石造りの建物だった。当日の朝、店を閉めた。ノエルが一緒に行くと言ったので、連れて行った。ローズさんも来られた。乾物屋の方まで来ておられた。一年は口を利かないと仰っていた方だ。
「見に来ただけだよ」
その方はそう仰った。
裁定人は五十くらいの男の方だった。机の上に書類を積んで、順に目を通しておられる。ヴェルニエ家からは、継母と父が来ていた。継母はいつもの外套を着ておられた。目尻は動いていなかった。
「申し立ての要旨を」
裁定人が仰った。
継母が立たれた。
「わたくしどもの家財目録に記載のございます化粧調合帳一冊を、当家の長女セラフィナが持ち出しました。返還を求めます」
「目録の写しは」
「こちらに」
継母が書類を出された。裁定人が受け取って、めくられた。
「セラフィナ殿。反論は」
わたしは立った。
「ございません」
部屋の後ろで、ローズさんが小さく声を出されたのが聞こえた。
「ございません、と申しますと」
「その目録に、わたくしの持っております帳面が載っていることは、そのとおりでございます。争いません」
「では、返還に応じられますか」
「応じません」
「理由は」
「母のものだからです」
裁定人は書類から顔を上げられた。
「それは、目録より弱い主張です」
「存じております」
「ほかに、申し立てられることは」
「ございません」
わたしは座った。
継母がこちらを見ておられた。この方は、たぶん、わたしが何かを持ってくると思っておられた。母の遺言だとか、証人だとか、書付だとか。持ってこられたものを一つずつ潰す用意をしてこられた。
用意したものを使う機会が来ないというのは、たぶん、想像しておられなかった。裁定人は目録の写しを読んでおられた。その方の指が、一行目のあたりで止まった。
「ヴェルニエ男爵」
父が立たれた。
「はい」
「この目録の作成日は」
「……そこに、記載のとおりでございます」
「読み上げていただけますか」
父は書類を見た。
しばらく、口を開かれなかった。
「オーギュスト・ヴェルニエ男爵」
「……六年前の、秋の十四の日でございます」
裁定人は机の上の別の書類を引き寄せられた。
「戸籍の写しによりますと、前夫人エレーヌ・ヴェルニエ殿の死亡は、六年前の秋の十五の日」
部屋が、音を立てなかった。
「一日前ですね」
「奥方」
裁定人は継母のほうを向かれた。
「はい」
「家財目録というものは、家の財を数え上げる書類です。故人の遺品を家財に繰り入れる場合、通例は死亡の後に作成します」
「……」
「この目録は、前夫人がご存命のうちに作成され、当主が署名しておられる」
「病でしたので」
「病でしたので、なんでしょう」
継母は答えられなかった。
「もう一点、伺います。この〈化粧調合帳〉は、前夫人が営んでおられた化粧師としての仕事の道具ですね」
「はい」
「ヴェルニエ家は、当時、化粧師の看板をお出しになっていましたか」
「……出しておりました」
「では、これは家業の帳簿にあたります。家業の帳簿を家財として目録に入れ、なおかつ当人の存命中に当主が署名した。——これは、どういう手続きでしょうか」
裁定人は父のほうを見られた。
「男爵。ご説明を」
父は立ったままだった。わたしはその顔を見ていた。この方は、六年前のあの秋に、何を考えて署名なさったのだろう。母は三日寝込んで、四日目の朝に亡くなった。署名は、三日目だ。三日目に、この家では、母の道具を数え上げる紙が回っていた。
父は何も仰らなかった。
◇
裁定は、その日のうちに出た。
申し立ては退けられた。目録の記載そのものが、作成の経緯に疑いがあるとされた。帳面の所有については、あらためて相続の手続きで確定させるようにと言い渡された。わたしは何も主張しなかった。裁定人が、自分で日付を読んだだけだ。
裁定所を出るとき、継母とすれ違った。この方は、立ち止まられた。
「セラフィナ」
「はい」
「あなた、知っていたのですか」
「何をでございましょう」
「日付です」
わたしは首を振った。
「存じませんでした」
本当に知らなかった。目録を見たことが一度も無かったからだ。継母は、こちらをしばらく見ておられた。
目尻が、動いた。
六年で、はじめて見た。
「……そう」
それだけ仰って、行かれた。裁定所の外は、よく晴れていた。ローズさんが「あんた、何もしゃべってないじゃないか」と仰って、乾物屋の方が「そこがいいんだよ」と仰った。ノエルは階段の下で待っていた。
ジュリアン様は、柱のところに立っておられた。
「終わりました」
「見ていました」
その方は、階段を上がってこられた。
「一つだけ、言ってもよろしいですか」
「はい」
「あなたは、勝ちに来ていなかった」
「はい」
「勝ちに来ていない人間の言うことを、あの裁定人は信じたのだと思います」
わたしは頭を下げた。
◇
その日の夕方、リヴィエール伯爵家で小さな集まりがあった。叔母上のマチルド様の誕生の日だという。前から呼ばれていて、行くと答えてあった。わたしは支度のために早く着いた。マチルド様の顔をつくって、それから帰るつもりだった。
仕上がったところで、ジュリアン様が部屋へ入ってこられた。
「セラフィナ殿」
「はい」
「私の顔も、お願いできますか」
わたしは、手を止めた。マチルド様が鏡の中で眉を上げられた。
「あなた、何を言い出すの」
「叔母上は黙っていてください」
その方を椅子に座らせて、髪を耳の後ろへ流した。右のこめかみから耳の上まで。皮膚が引きつれて、その部分だけ光り方が違う。周りより白くて、少しつやがある。わたしは、香油を米粒ほど手のひらで温めた。
「隠しません」
「……はい」
「痕の上には、何も置きません。置くと、そこだけ厚くなって、笑ったときに割れます」
痕の外側。こめかみの、少し前。頬骨の稜線に沿って、白粉を薄く一本。二度。それから、その帯の外側だけをぼかす。内側はぼかさない。
こうすると、人の目はまず頬骨の帯へ行く。帯を追って外へ抜けて、それから痕へ戻ってくるまでに一拍かかる。その一拍のあいだに、この方の顔全体が先に見えている。顔全体が先に見えると、痕は「顔の一部」になる。
「終わりました」
その方は、鏡を見た。
それから、髪に手をやろうとして——
手を、下ろされた。
髪は、耳の後ろに流したままだった。
◇
集まりには、二十人ほどが来ていた。ジュリアン様は、そのまま広間へ出て行かれた。わたしは廊下の柱の陰にいた。化粧師は、宴の場には出ない。誰かが、その方の右のこめかみを見た。見て、目を逸らして、それからもう一度見た。
二度目に見たとき、その人は目を逸らさなかった。三刻のあいだ、その方は一度も髪に触れなかった。
◇
店へ戻ったのは、夜だった。ノエルはもう二階で寝ていた。台の上に、今日ぶんの手習いの紙が置いてある。〈セラフィナ〉が十二。今日は九つ目まで形になっていた。わたしは灯りをひとつ入れて、帳面を開いた。今日の頁に、二行書いた。
〈リヴィエール伯爵ジュリアン様・晴。右こめかみの痕。覆わず、頬骨の稜線へ白粉を一本、外側だけぼかす。理由——痕の上に置くと、笑ったときに割れるため〉
三行目まで書いて、筆を置いた。三日ぶりに、静かな夜だった。そのとき、戸が叩かれた。二度。それから、少し間があって、もう一度。この時刻に人が来ることは、めったにない。わたしは灯りを持って、戸を開けた。
立っていたのは、リディエンヌだった。
目録の日付は、六年前から書いてありました。誰も読まなかっただけです。読む理由が無かったからで、読む理由を作ったのは、返せと言った側でした。
次回、部の終わりです。店の戸が叩かれます。




