第20話 破られた頁に書いてあったのは、隠す化粧でした
ラウレット夫人の店は、王都の中ほどの大通りにあった。三階建てで、一階が売り場、二階が仕事場、三階が住まいだという。窓が大きい。北向きの窓が四つ並んでいて、どの窓にも同じ厚さの布が下がっている。光の量をそろえるためだ。
わたしは店の前で少し立っていた。それから、扉を押した。
◇
二階へ通された。
仕事場は広かった。椅子が六つ。鏡が六つ。棚が壁の三面を埋めていて、下の段には乳鉢が十二、篩が二十枚。ノエルが言っていた匂いは、確かにここからしていた。蜜蝋と、白粉と、南の香油と、それから薬草の匂い。
「よく来ましたね」
夫人はいちばん奥の椅子におられた。
「伺いたいことがございます」
「分かっております」
「……」
「アニェス・ボレルのところへ行かれたのでしょう。あの方が、わたくしの店へ使いを寄越しました。エレーヌの娘が来たと」
夫人は椅子から立たれて、棚の前へ歩かれた。
「教材、という言葉を聞かれましたね」
「伺いました」
「それが、わたくしがあなたのお母さまに二度断られたものです」
夫人は棚の引き出しを開けて、古い綴じ紙を出された。表紙に、〈組合教本 改訂第三版〉と書いてある。
「組合は、二十年ごとに教本を作り直します。札を出す者に読ませるためです」
夫人は綴じ紙を台に置かれた。
「二十年前の改訂で、わたくしは一章を足そうとしました。『覆う化粧』という章です」
「覆う」
「痣、火傷、手術の痕。合わせて済むものと、済まないものがございます。済まないものを、どうやって覆うか」
夫人はこちらを見られた。
「あなたのお母さまに、その章を書いていただきたいと申し上げました」
「……母に」
「あの人が、王都でいちばんうまかったからです。理由は、いまのあなたならお分かりでしょう」
わたしは頷いた。
自分の顎の痣を、十年通った客に一度しか見せなかった人だ。
「一度目に断られました。二度目は、二年後に伺いました。今度は、ご自分の顎を実例に使わせていただきたいと申し上げました」
夫人はそこで少し言葉を切られた。
「それで、二度目も断られました。三月ほど、仕事を休まれた」
「母は、なんと」
「『わたくしの顔は、教材ではございません』と」
わたしは綴じ紙の表紙を見ていた。
「なぜ、母だけに」
「ほかに書ける者がおりませんでした」
「ですが、書ける方をお探しになるより、母のご事情を——」
「セラフィナ」
夫人はこちらを向かれた。そして、右手を台の上に置かれた。手の甲の染みが、北の窓の光の中に入った。三つ。ひとつは親指の付け根に、二つは中指の下に。
「これは何だと思われます」
「……染料でしょうか」
「鉛です」
わたしは息を止めた。
「十七から二十二まで、わたくしは鉛の白粉を使っておりました。安くて、よく伸びて、その日のうちに人が変わったように見えます。当時は誰も止めませんでした」
「はい」
「わたくしの手は、客に触ります。触る手が、こうなっております」
夫人は手を裏返された。手のひらのほうは、きれいだった。
「二十六年、わたくしは鉛を止める側におります。止める側の人間の手に、鉛の痕がございます」
「教本の章は、わたくしのためでもありました」
夫人は手を下ろされた。
「隠せるようになりたかったのです。自分の手を」
わたしは何も言えなかった。
「そして、それをお母さまに求めました。ご自分の顎を隠しておられる方に、隠し方を書けと申し上げた。二度」
夫人は椅子に戻られた。
「断られて当然です。わたくしは、あの人に『あなたも隠しているでしょう』と言ったのと同じことをしたのですから」
「では、母が破り取った七頁は」
わたしはそう伺った。
「わたくしは見ておりません」
夫人は答えられた。
「ただ、想像はつきます。あの人は書ける人です。断ったのは、書けないからではありません。書いたものが教本になることを断った」
「では、七頁には」
「ご自分のための処方が書いてあったのでしょう。顎を覆う手順が」
わたしは母の帳面を膝の上で開いた。最後の七枚の断面に、指を当てた。
「なぜ、破ったのでしょう」
夫人はしばらく答えられなかった。それから、静かに仰った。
「あなたに読ませないためだと思います」
「あの人は、あなたに『合わせる』ほうを教えました」
夫人は続けられた。
「盛らない。隠さない。もともと有るものを、いちばん見えやすい位置に置く。——それを六年ぶん教えて、ご自分の分だけは反対のことをしておられた」
「……はい」
「その反対のことの手順が、帳面の最後に書いてあったわけです」
わたしは断面を見ていた。
「あなたはいつか、それを読みます。読めば、使えるようになります」
「……」
「そして、いつか、ご自分の顔に使う日が来る」
夫人はそこで一度、息を吸われた。
「あの人は、それが嫌だったのだと思いますよ」
◇
店を出たのは、日が落ちてからだった。大通りは、まだ人が歩いていた。灯りが順につけられていく。わたしは帳面を胸のところで抱えていた。
母は自分の顔を隠して生きた。隠すのがうまかった。うまかったから、組合に求められた。求められて、二度断って、三月休んで、それから戻ってきて、何も変わらないふりをして十年やった。そして、死ぬ前に七頁を破った。
六年、わたしはその断面を見て、継母が奪ったのだと思っていた。継母が奪ったのなら、いつか取り返せる。取り返せば、母の何かが分かる。
そう思っていた。
破ったのは母だった。
取り返せるものは、はじめから無かった。
母はわたしに何も言わなかった。言わずに、書いたものを消した。消したことも言わなかった。わたしは、その母のやり方を、そっくり六年やった。あの子に何も言わずに、毎朝顔を触った。
やり方は、教わらなくても伝わる。
通りの端で、一度足を止めた。母の顎の痣を、わたしは見たことがない。見せてもらったことがない。見せてもらえていたら、何かが違っただろうか。たぶん、何も違わない。わたしは十三で、母は説明のできる人ではなかった。
ただ、一度でいい。
合わせてさしあげたかった。
顎の前に出ているぶんだけ、粉をひとすじ流す。痣の上には何も置かない。痣の外側、顎の線に沿って、外へ。三度で止める。手順は、たぶんそれで足りた。六年やってきたことと、同じことだ。
母は、それを娘に頼まなかった。頼めば、娘が知ることになるからだ。母は最後まで、自分の顔を仕事にしなかった。わたしは通りの端で、そのことを一度だけ、きちんと考えた。
◇
店に戻ると、扉に紙が挟んであった。封蝋が捺してある。ヴェルニエ家の紋だった。ノエルが二階から降りてきた。
「それ、昼に来た」
「どなたが」
「馬車の人。渡すだけって」
わたしは封を切らずに、台の上に置いた。継母からの書状だ。中身の想像はつく。帳面を返せということだろう。返さなければどうする、まで書いてあるかもしれない。いずれにせよ、お金の話だ。この家の書状は、六年ずっとそうだった。
わたしは湯を沸かして、ノエルに茶を出した。書状は、明日読むことにした。
組合の教本には「覆う化粧」という章がありません。二十年前の改訂で入るはずだったものが、入らないまま今日まで来ています。書ける人がひとりだけいて、その人が二度断ったからです。
次回、封を切ります。中身は、お金の話ではありませんでした。




