第19話 こめかみの痕は、母上が出て行かれた夜のもの
王都の東の外れは、思っていたより遠かった。馬車で一刻半。石畳が切れて土の道になり、家の間隔が広くなって、そのうち畑が見えはじめる。行きのあいだ、ジュリアン様はほとんど話されなかった。窓の外を見ておられる。
わたしも黙っていた。何を聞くかをまだ決めていなかったからだ。母のことを知っている人に会ったら何を聞くのか、六年考えたことがなかった。会える人がいると思っていなかったからだ。
◇
アニェス・ボレルさんは、畑の脇の小さな家におられた。八十三歳。耳は遠いが、目はしっかりしておられる。椅子から立ち上がることはなさらない。
「エレーヌの娘さん」
こちらの顔を見て、その方はそう仰った。
「はい」
「似てないねえ」
「よく言われます」
「顔じゃなくてね。座り方が似てる」
その方は膝の上で手を組まれた。
「あの人もそうやって浅く座った。いつでも立てるように」
◇
アニェスさんは、二十五年前から十年間、母に顔を頼んでおられたそうだ。
「あたしは商家の女房でね。人前に出る用が多かった。年に十回か十五回」
「母は、どのように」
「速かったよ。四半刻もかからない」
「四半刻」
「早いだろう。でも雑じゃないの。座って、顔を見て、それで手が動きはじめる。迷わないんだ」
その方は笑われた。
「一度聞いたことがある。なんでそんなに速いのって。そしたらね」
〈迷うのは、顔を見ていないからです〉
「そう言われた。ずいぶん厳しいこと言うと思ったよ」
母の言い方だと思った。
帳面の三行目に書いてあることを口に出すと、そうなる。
「あたしはね、しみが多かったんだよ。若いころ日に当たりすぎてね」
「はい」
「あの人、しみを消さなかった」
「……はい」
「そのかわり、あたしの目のかたちがいいって言った。しみを見る人には見せておけばいいって。あんたの目を見た人は、もうしみのことを言わないからって」
その方はしばらく黙っておられた。
「実際、そうだったね」
「アニェス様」
「なんだい」
「母のことを、恐ろしい人だったと仰ったと伺いました」
その方はこちらを見られた。
「言ったよ」
「どういう意味でございましょう」
「言葉のとおりさ」
その方は膝の上の手をほどいて、また組み直された。
「あの人はね、自分の顔だけは、誰にも触らせなかった」
◇
「十年通って、あたしはあの人の顔をよく見てた。近くにいるからね」
アニェスさんは続けられた。
「白粉は薄い。紅は控えめ。人にはあれこれやるくせに、自分にはほとんど何もしない人だと思ってた」
「はい」
「一度だけ雨に降られたことがあってね。あの人が店から出てきて、うちの馬車に乗せたんだ」
「……はい」
「顎のところが少し流れてた」
膝の上の手が動かなかった。
「濃いのが一枚、下に入ってたんだよ。薄い白粉の下にね。あたしが見たのはほんの一瞬。すぐ拭いたから」
「母は、何と」
「何にも。拭いて、それきり」
その方は首を振られた。
「あたしはね、それから十年、一度も聞かなかった。聞いちゃいけないと思った。——だから恐ろしいって言ったんだ。人の顔を十年触らせてもらっておいて、こっちは何も聞けない。そういう距離をあの人は作れた」
わたしは、その話を膝の上で受け取った。
母の顎。左か右か。アニェスさんは覚えておられなかった。
わたしは十三まで母と暮らした。毎日その顔を見ていた。それなのに、思い出せる母の顔にそういうものは無い。無いということは、見えていなかったということだ。見えなかったのは、母がそうしたからだ。母は、自分の顔を「合わせて」いなかった。
隠していた。
◇
帰り際に、もう一つだけ伺った。
「アニェス様。母が、組合と何かあったという話をお聞きになったことは」
「組合ねえ」
その方は天井のあたりを見られた。
「あるよ。二十年くらい前かな。あの人、組合に呼ばれて何度か行ってた」
「何のためにでしょう」
「知らない。ただ、帰ってきた日に一度だけ、こぼしたことがある」
その方は、そこで少し考えられた。
「『わたくしの顔は、教材ではございません』」
「……」
「そう言ったんだ。何のことか分からなかったから、聞き返さなかった。聞き返せない人だったからね」
教材。
わたしは、その言葉を口の中で二度繰り返した。
「もう一つだけ、よろしいですか」
「なんだい」
「母は、その頃、組合から何かを求められておりましたか」
「そこまでは知らないよ。ただねえ」
その方は、膝の上の手をほどかれた。
「あの人、二度目に呼ばれて帰ってきたときは、しばらく仕事を休んだ」
「休んだ」
「三月くらいかね。それから戻ってきて、また前と同じように来てくれた。何にも変わらなかった」
「変わらなかった」
「顔がね。あの人の顔だけは、前と同じだった」
帰りの馬車は、来たときより速く感じた。膝の上で、帳面を開いていた。母の書いた頁を、順に見ていく。六十八頁のどこにも、母は自分のことを書いていない。書いてあるのは、客の骨と、その日の湿りと、なぜそうしたか。それだけだ。
化粧師の帳面とは、そういうものだと思っていた。いまは、少し違うことを思っている。自分のことを書かない人は、書かないと決めた人だ。決めるには、書きたくなった日が一度はあったはずだ。
日が傾いて、畑の向こうが赤くなっている。ジュリアン様は、窓の外を見ておられた。
「セラフィナ殿」
「はい」
「帰りに、私の話をすると申しました」
「伺います」
その方は窓から目を離された。
「私の母は十九年前の冬の夜に家を出ました。私は八つでした」
「はい」
「その夜、私は母の部屋にいました。母が荷をまとめているのを扉のところで見ていた」
馬車が揺れて、その方の膝の上の手が一度だけ動いた。
「行かないでほしいと言えばよかったのでしょうね。言いませんでした。八つの子どもは、そういうときに何を言えばいいのか分からない」
「……はい」
「かわりに、燭台を倒しました」
わたしは顔を上げた。
「わざとです」
「……」
「そうすれば、母が消しに来ると思った。消しに来れば、その分だけ行くのが遅れる」
その方は右のこめかみのあたりを、指で軽く触れられた。
「母は消しに来ました。私を抱えて部屋の外へ出した。そのときに、こちらが焼けた」
馬車の中がしばらく、車輪の音だけになった。
「母は、それでも出て行きました」
その方は続けられた。
「傷の手当てだけして、その夜のうちに。父は『あれは顔だけの女だ』と言いました。叔母もそう言った。私もそう思うことにしました」
「そう思うことに」
「そう思っておくほうが、簡単でしたので」
その方は髪を耳にかけようとして——今度は、やめられなかった。髪を耳の後ろへ流された。夕日が、そこに当たった。右のこめかみから耳の上まで。皮膚が引きつれて、光り方が周りと違う。古い火傷だ。ローズさんの頬にあるものと同じ種類の。
「私は十九年、これを隠してきました」
「……はい」
「隠しながら、化粧は嘘だと言っていました」
その方はこちらを見られた。
「あなたは、これを隠せますか」
自分の顔を人に触らせない化粧師というのは、たまにいます。理由はたいてい一つで、触らせると分かってしまうからです。
次回、母が破り取った七頁の話をします。破ったのが誰かは、もうお分かりかもしれません。




