表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
義妹を「王都一の美姫」にしたのは、わたくしの紅でした 〜出て行けと仰るので、調合帳は一頁も置いてまいりません〜  作者: 紅坂ゆい
第4章 紅は、貸すものではありません

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/25

第19話 こめかみの痕は、母上が出て行かれた夜のもの

 王都の東の外れは、思っていたより遠かった。馬車で一刻半。石畳が切れて土の道になり、家の間隔が広くなって、そのうち畑が見えはじめる。行きのあいだ、ジュリアン様はほとんど話されなかった。窓の外を見ておられる。


 わたしも黙っていた。何を聞くかをまだ決めていなかったからだ。母のことを知っている人に会ったら何を聞くのか、六年考えたことがなかった。会える人がいると思っていなかったからだ。


 ◇


 アニェス・ボレルさんは、畑の脇の小さな家におられた。八十三歳。耳は遠いが、目はしっかりしておられる。椅子から立ち上がることはなさらない。


「エレーヌの娘さん」


 こちらの顔を見て、その方はそう仰った。


「はい」

「似てないねえ」

「よく言われます」

「顔じゃなくてね。座り方が似てる」


 その方は膝の上で手を組まれた。


「あの人もそうやって浅く座った。いつでも立てるように」


 ◇


 アニェスさんは、二十五年前から十年間、母に顔を頼んでおられたそうだ。


「あたしは商家の女房でね。人前に出る用が多かった。年に十回か十五回」

「母は、どのように」

「速かったよ。四半刻もかからない」

「四半刻」

「早いだろう。でも雑じゃないの。座って、顔を見て、それで手が動きはじめる。迷わないんだ」


 その方は笑われた。


「一度聞いたことがある。なんでそんなに速いのって。そしたらね」


〈迷うのは、顔を見ていないからです〉


「そう言われた。ずいぶん厳しいこと言うと思ったよ」


 母の言い方だと思った。


 帳面の三行目に書いてあることを口に出すと、そうなる。


「あたしはね、しみが多かったんだよ。若いころ日に当たりすぎてね」

「はい」

「あの人、しみを消さなかった」

「……はい」

「そのかわり、あたしの目のかたちがいいって言った。しみを見る人には見せておけばいいって。あんたの目を見た人は、もうしみのことを言わないからって」


 その方はしばらく黙っておられた。


「実際、そうだったね」


「アニェス様」

「なんだい」

「母のことを、恐ろしい人だったと仰ったと伺いました」


 その方はこちらを見られた。


「言ったよ」

「どういう意味でございましょう」

「言葉のとおりさ」


 その方は膝の上の手をほどいて、また組み直された。


「あの人はね、自分の顔だけは、誰にも触らせなかった」


 ◇


「十年通って、あたしはあの人の顔をよく見てた。近くにいるからね」


 アニェスさんは続けられた。


「白粉は薄い。紅は控えめ。人にはあれこれやるくせに、自分にはほとんど何もしない人だと思ってた」

「はい」

「一度だけ雨に降られたことがあってね。あの人が店から出てきて、うちの馬車に乗せたんだ」

「……はい」

「顎のところが少し流れてた」


 膝の上の手が動かなかった。


「濃いのが一枚、下に入ってたんだよ。薄い白粉の下にね。あたしが見たのはほんの一瞬。すぐ拭いたから」

「母は、何と」

「何にも。拭いて、それきり」


 その方は首を振られた。


「あたしはね、それから十年、一度も聞かなかった。聞いちゃいけないと思った。——だから恐ろしいって言ったんだ。人の顔を十年触らせてもらっておいて、こっちは何も聞けない。そういう距離をあの人は作れた」


 わたしは、その話を膝の上で受け取った。


 母の顎。左か右か。アニェスさんは覚えておられなかった。


 わたしは十三まで母と暮らした。毎日その顔を見ていた。それなのに、思い出せる母の顔にそういうものは無い。無いということは、見えていなかったということだ。見えなかったのは、母がそうしたからだ。母は、自分の顔を「合わせて」いなかった。


 隠していた。


 ◇


 帰り際に、もう一つだけ伺った。


「アニェス様。母が、組合と何かあったという話をお聞きになったことは」

「組合ねえ」


 その方は天井のあたりを見られた。


「あるよ。二十年くらい前かな。あの人、組合に呼ばれて何度か行ってた」

「何のためにでしょう」

「知らない。ただ、帰ってきた日に一度だけ、こぼしたことがある」


 その方は、そこで少し考えられた。


「『わたくしの顔は、教材ではございません』」

「……」

「そう言ったんだ。何のことか分からなかったから、聞き返さなかった。聞き返せない人だったからね」


 教材。


 わたしは、その言葉を口の中で二度繰り返した。


「もう一つだけ、よろしいですか」

「なんだい」

「母は、その頃、組合から何かを求められておりましたか」

「そこまでは知らないよ。ただねえ」


 その方は、膝の上の手をほどかれた。


「あの人、二度目に呼ばれて帰ってきたときは、しばらく仕事を休んだ」

「休んだ」

「三月くらいかね。それから戻ってきて、また前と同じように来てくれた。何にも変わらなかった」

「変わらなかった」

「顔がね。あの人の顔だけは、前と同じだった」


 帰りの馬車は、来たときより速く感じた。膝の上で、帳面を開いていた。母の書いた頁を、順に見ていく。六十八頁のどこにも、母は自分のことを書いていない。書いてあるのは、客の骨と、その日の湿りと、なぜそうしたか。それだけだ。


 化粧師の帳面とは、そういうものだと思っていた。いまは、少し違うことを思っている。自分のことを書かない人は、書かないと決めた人だ。決めるには、書きたくなった日が一度はあったはずだ。


 日が傾いて、畑の向こうが赤くなっている。ジュリアン様は、窓の外を見ておられた。


「セラフィナ殿」

「はい」

「帰りに、私の話をすると申しました」

「伺います」


 その方は窓から目を離された。


「私の母は十九年前の冬の夜に家を出ました。私は八つでした」

「はい」

「その夜、私は母の部屋にいました。母が荷をまとめているのを扉のところで見ていた」


 馬車が揺れて、その方の膝の上の手が一度だけ動いた。


「行かないでほしいと言えばよかったのでしょうね。言いませんでした。八つの子どもは、そういうときに何を言えばいいのか分からない」

「……はい」

「かわりに、燭台を倒しました」


 わたしは顔を上げた。


「わざとです」

「……」

「そうすれば、母が消しに来ると思った。消しに来れば、その分だけ行くのが遅れる」


 その方は右のこめかみのあたりを、指で軽く触れられた。


「母は消しに来ました。私を抱えて部屋の外へ出した。そのときに、こちらが焼けた」


 馬車の中がしばらく、車輪の音だけになった。


「母は、それでも出て行きました」


 その方は続けられた。


「傷の手当てだけして、その夜のうちに。父は『あれは顔だけの女だ』と言いました。叔母もそう言った。私もそう思うことにしました」

「そう思うことに」

「そう思っておくほうが、簡単でしたので」


 その方は髪を耳にかけようとして——今度は、やめられなかった。髪を耳の後ろへ流された。夕日が、そこに当たった。右のこめかみから耳の上まで。皮膚が引きつれて、光り方が周りと違う。古い火傷だ。ローズさんの頬にあるものと同じ種類の。


「私は十九年、これを隠してきました」

「……はい」

「隠しながら、化粧は嘘だと言っていました」


 その方はこちらを見られた。


「あなたは、これを隠せますか」

 自分の顔を人に触らせない化粧師というのは、たまにいます。理由はたいてい一つで、触らせると分かってしまうからです。

 次回、母が破り取った七頁の話をします。破ったのが誰かは、もうお分かりかもしれません。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ