第18話 あの子の素顔は、とても良いのです
ラウレット夫人は、半月後に一人で来られた。馬車ではなかった。歩いて来られたらしく、靴の縁に通りの土がついていた。
「お座りください」
「けっこうです」
夫人は店の中を見回された。前に来られたときより、棚の下段が埋まっている。貝殻が七つ。刷毛が十一本。篩が三枚。乳鉢が二つ。
「増えましたね」
「はい」
夫人はそれから、奥の棚を見られた。白木の箱が置いてある。開けたままにしてある。中の瓶は六つとも、蓋を閉じて並べてある。
「使っておられませんね」
「使っておりません」
「なぜ」
「三度洗っても落ちませんでしたので」
夫人は、それだけで分かられたようだった。
「役員が二人替わりました」
「伺いました」
「わたくしは残っております」
「はい」
「謝りには来ておりません」
「存じております」
夫人は椅子の背に手を置かれた。座らないまま、そこに手を置いておられる。
「今日は、伺いに来ました」
◇
「王都の中ほどの化粧師が、三人辞めました」
夫人はそう仰った。
「辞めた、と申しますと」
「ヴェルニエ男爵家の娘御の顔を、です。一人目は花祭の前に。二人目は花祭の翌日に。三人目は、五日もちませんでした」
わたしは黙っていた。
「三人とも、腕は悪くありません。うち二人は、わたくしが札を出した者です」
「はい」
「三人が三人とも、同じことを言いました。『あの顔は、作れない』と」
夫人はこちらを見られた。
「セラフィナ。なぜだと思います」
◇
わたしは、答えるかどうかを少し迷った。答えると、あの子の顔について、この方に説明することになる。
けれど、この方はすでに三人ぶんの報告を持っておられる。持っている人に黙ることは隠すことにならない。ただ、答えを一人で抱えているだけになる。
「盛るからです」
夫人の眉が、動いた。
「盛るから、作れない」
「はい」
「盛るのは、化粧でしょう」
「盛れば作れるお顔と、盛ると壊れるお顔がございます」
わたしは台の上の帳面に手を置いた。
「拝見してもよろしいですか」
夫人が帳面のほうへ目をやられた。
「審査では、お断りいたしました」
「覚えております」
「あのときは、他所様のお顔でしたので」
「今日は」
「今日は、わたくしの妹の顔でございます。妹の顔について、いま王都で三人が困っておられるのでしたら、お見せする理由がございます」
わたしは帳面を開いて、夫人の前へ置いた。夫人は立ったまま読まれた。最初の頁ではなく、後ろのほうから。六年目の記述から遡っていかれる。読み方が速かった。一頁に三つ数えるくらいで指を送っていかれる。読み慣れた人の読み方だった。
三十頁ほど遡ったところで、指が止まった。もう一度、前へ戻られた。今度は遅く。それから、また戻られた。
「……セラフィナ」
「はい」
「これは」
夫人は、頁の上を指で押さえておられた。
「白粉の割合が、どの頁も同じです」
「はい」
「六年、変えていない」
「変える必要がございませんでしたので」
「紅も、水の量が変わるだけですね。中身は同じ」
「はい」
「墨も、細さが変わるだけ」
「はい」
夫人は、指を頁から離された。
「では、あなたは——」
そこで、言葉を切られた。この方はたぶん、口に出す前に自分で確かめておられる。二十六年そうしてこられた人の間だった。
「あなたは、六年間、何も足していない」
◇
「はい」
わたしは答えた。
「一度も足しておりません」
店の中がそれきり音を立てなかった。外で荷車が通る。乾物屋の方が誰かに挨拶をなさっているのが聞こえた。
「置く場所を変えているだけです」
わたしは、頁の一つを指した。
〈リディエンヌ様・秋の七の日。曇。紅は水を二滴。左の顎に粉ひとすじ。眉は右を一分低く。理由——正面から見たときに左右が同じ位置で止まって見えるため〉
「あの子は右の頬骨が高くて、左の顎が少しだけ前に出ております。ですので左に粉をひとすじ流して、右の紅を外へ流します。眉は右を一分低く取ります。それだけです」
「それだけで」
「それだけで、左右が止まって見えます」
夫人は帳面を見ておられた。
「三人の化粧師は、その骨のかたちを『直すもの』と見たのだと思います。高い頬骨を下げて、出た顎を引っ込めて、左右を揃えようとした。揃えるには影を描くしかございません」
「描いた影は」
「光が変われば動きます。花祭の雨で、動きました」
夫人は、帳面から手を離された。それから、はじめて椅子に座られた。
「セラフィナ」
「はい」
「あなたの妹御は、美しいのですか」
わたしはその問いに答えるまでに、少し時間がかかった。六年、一度も声に出したことがなかったからだ。
「あの子の顔は、とても良いのです」
言ってしまうと、あとは早かった。
「骨の左右の差が指の腹で分かるくらいしかございません。頬骨の高さは、あれより高くても低くても光の当たり方が悪くなります。唇は上が薄くて下が厚くて、笑うと右の頬だけにえくぼが出ます。あのえくぼは、わたくしには作れません」
夫人はこちらを見ておられた。
「六年、わたくしがしていたのは、あの子がもともと持っているものをいちばん見えやすい位置に置くことだけです。わたくしがいなくなって困っているのは、あの子の顔が悪いからではございません」
わたしは帳面を閉じた。
「置く場所を、誰も知らないからです」
◇
夫人は、しばらく黙っておられた。それから、ひとつだけ聞かれた。
「本人は、それを知っていますか」
わたしは、答えられなかった。
夫人が帰られたあと、わたしは椅子に座ったまま動かなかった。
あの子は、知らない。
六年、わたしは一度も言わなかった。言わなかった理由を、いまさら考えた。仕事だと思っていたからだ。気づかせないのが化粧師の仕事で、それは本人にも気づかせないということだ。朝、椅子に座る。四半刻して鏡を見る。きれい、と言う。
その繰り返しの中で、あの子は「自分は生まれつき王都一の美姫だ」と思うようになった。そう思わせたのは周りの人だ。
そして、わたしだ。
周りの人は「きれいだ」と言った。わたしは何も言わなかった。何も言わない人間が毎朝顔を触っていれば、その顔は最初からそうだったことになる。
六年かけて、わたしは、あの子から「自分の顔」を取り上げた。
取り上げたつもりは無かった。つもりが無かったから、返す機会も無かった。
「先生」
ノエルが二階から降りてきた。手に、紙を一枚持っている。わたしが書いてやった見本を真似したものだった。〈セラフィナ〉が五つ、並んでいる。三つ目までは形になっていて、四つ目から崩れている。
「三つ目までは、よく書けております」
「四つ目からダメだろ」
「疲れると形が崩れます。三つ書いたら休んでください」
ノエルは紙を台に置いた。
「先生、さっきの人、なんの用だったの」
「妹の顔の話です」
「ふうん」
ノエルは椅子に座って、足をぶらぶらさせた。
「先生、明日はどこ行くの」
「東の外れへ。母を知っておられる方がいらっしゃいます」
「ひとりで?」
「いえ」
夕方に、リヴィエール伯爵家から使いが来ていた。紙には二行しか書いていない。
〈明日の朝、迎えに行きます。道が悪いので、馬車で。ジュリアン・ドラクロワ〉
その下に一行だけ足してあった。
〈帰りに、私の話を少しさせてください〉
三人の化粧師は、腕が悪かったわけではありません。左右の差を「直すもの」と見たか、「使うもの」と見たかの違いです。直すと決めた瞬間から、影を描くしか道がなくなります。
次回、東の外れへ向かいます。行きの馬車では、まだ何も話しません。




