第17話 その白粉、匂いがおかしゅうございます
白木の箱は、思ったより重かった。台の上に置いて、留め金を外そうとしたところで、ノエルが横から手を出した。
「待って」
箱に鼻を近づける。左目が、いつものように細くなる。一度、二度。三度目は長かった。
「これ、開けないほうがいい」
「なぜですか」
「匂いが、おかしい」
わたしは手を止めた。
「どうおかしいのですか」
「甘い」
「白粉は、甘い匂いがすることもございますが」
「そうじゃなくて。……甘いのに、鼻の奥が痛い」
ノエルは箱から離れて、鼻をこすった。
「南門の三番の倉に、これと同じ匂いのがあった。あれ、なんの荷だったっけな」
◇
わたしは箱を開けた。
開けなければ、確かめようがない。中は、白粉の瓶が六つ。どれも上等な硝子で、蓋には組合の印が捺してある。市中で買えば、ひと瓶で硬貨五枚はする品だ。
それから、紙が一枚。
〈先日は失礼をいたしました。登録を祝して。ラウレット〉
わたしは瓶をひとつ取って、蓋を開けた。匂いを嗅いだ。分からない。わたしの鼻では、上等な白粉の匂いしかしない。指に取って、手の甲に置いた。伸びがいい。粒が細かい。二度伸ばしただけで、手の甲の血の色が消えた。
——消えた。
わたしは手を止めた。
白粉は、血の色を消すものではない。血の色の上に、光を返す層を置くものだ。だから、いい白粉ほど、下の色が薄く透ける。二度で消えるものは、透けていない。
覆っている。
「ノエル」
「なに」
「井戸の水を、桶に一杯持ってきていただけますか」
「手、洗うの」
「洗います」
◇
ノエルが桶を持ってきた。井戸の水は朝より濁っていた。昨日の雨で、底の砂が上がっている。一度目。指の腹をこすった。落ちない。二度目。手の甲を布でこすった。まだ残っている。白い。
三度目でようやく落ちた。落ちたあと、手の甲の皮膚が少しつっぱっていた。わたしはもう一度、桶の水に手を入れた。四度目は、洗うためではなかった。落ちたことを確かめたかっただけだ。
「先生」
「はい」
「顔、真っ白だよ」
「白粉はつけておりません」
「そういう意味じゃなくて」
わたしは母の帳面を開いた。母は、白粉の元について三か所書いている。そのうちの一つ。
〈鉛は使わない。伸びるが、三度洗っても落ちない。落ちないものを毎日置く仕事ではない〉
三度洗っても落ちない。わたしは、洗った手を見た。その日の夕方、南門へ行った。六番の倉の商人に、瓶をひとつ見せた。その方は蓋を開けて、指で取って、舌の先に少しだけ乗せた。それから、すぐに吐き出して、水で口をゆすがれた。
「鉛だ」
「まちがいございませんか」
「甘い。鉛は甘いんだ。だから昔は砂糖の代わりに使った国があった」
その方は瓶を台に置かれた。
「あんた、これをどこから」
「王都の化粧組合から、詫びの品として」
「……そりゃ、ひどいな」
その方は腕を組まれた。
「組合ってのは、鉛を止めるためにあるんじゃなかったのか」
「そう伺いました」
「じゃあ、これは何だ」
わたしは答えなかった。
答えは一つしかない。
わたしがこれを客に使えば、三年で誰かの肌が石のようになる。五年で歯が抜ける。十年で亡くなる。
そのとき、この瓶に捺してある組合の印は、組合が出したという意味にならない。組合の印を持った瓶を、札を持ったばかりの女が使った、という話になる。止めるのが組合の仕事だと、あの方はご自分で仰った。二十六年で七人止めたとも仰った。
あの言葉は嘘ではなかったと思う。あそこだけは、本当のことを話しておられた。本当のことを話す人が、いちばん確実に人を沈める方法を知っている。それを止められる立場の人が、それを送ってきた。
瓶を六つ、順に蓋を開けて、匂いを嗅いだ。全部同じだった。ひと瓶だけ混ぜたのではない。六つとも同じものだ。
嫌がらせなら、ひと瓶で足りる。六つ送るのは、使わせるためだ。
◇
「あんた、どうする」
商人の方が仰った。
「訴えるかい」
「いいえ」
「なんで」
「訴えるには、この瓶が組合から来たことを示す必要がございます。示せるのは、あの紙一枚です。紙には『登録を祝して』としか書いてございません」
「中身のことは書いてないな」
「はい。ですので、瓶を送った覚えはない、と仰れば、それで終わります」
その方は、しばらく黙っていた。それから、ノエルのほうを見られた。
「坊主。お前、匂いで分かったんだって?」
「うん」
「三番の倉にも同じのがあると言ったな」
「あった」
「三番は、南から来た顔料の倉だ。うちの荷じゃない。別の商人のだ」
その方は顎を掻かれた。
「あそこの荷は、王都のいろんなところへ行く。俺は誰に行くかまでは知らんが……まあ、聞くことはできる」
わたしは頭を下げた。
「お手数をおかけします」
「手数じゃない。俺も同じ倉を使ってる」
帰り道は、日が落ちていた。南門から花の広場までは、荷車の通る道を歩いて半刻ほどかかる。ノエルは黙って歩いていた。
「ノエル」
「なに」
「今日は、ありがとうございました」
「別に」
「あなたが止めなければ、わたくしは開けて、そのまま使っておりました」
「使ってたら、どうなってたの」
「三年で、どなたかの肌が石のようになります」
ノエルは足を止めた。
「……先生」
「はい」
「俺、あの店で二年、箱運んでた」
「はい」
「あの箱、何入ってたんだろう」
わたしは答えられなかった。その日に運んだ箱の中身を、この子は匂いで全部覚えている。覚えていて、名前を知らない。名前を知らないものは、思い出しても意味にならない。
「いつか、分かります」
「なんで」
「字が読めるようになりますので」
◇
三日後、噂が戻ってきた。三番の倉の顔料は、月に二度、王都の中ほどへ運ばれる。運び先は挽き屋が二軒。そのうち一軒は、組合の預かりで、そこから先の帳簿は組合が持っている。誰かが、そこから鉛を挽かせて、上等な瓶に詰めていた。
商人の方が言ったのは、それだけだ。名前は言わなかった。言えるだけの証しが無いからだ。ただ、南門の商人が「三番の荷の行き先」を聞いて回ったという話は、その日のうちに王都の中ほどまで届いた。届いた先で、何が起きたのかは知らない。
わたしは何もしていない。ノエルが匂いを言い当てて、商人の方が同じ倉を使っているから聞いた。それだけだ。半月後、組合の会館で役員が二人替わったという話を、ローズさんから聞いた。白粉の瓶六つは、店の奥にしまった。
捨てなかった。捨てると、無くなる。いつか誰かが「そんなものは送っていない」と言ったときに、瓶が六つ手元にあるのと無いのとでは、話が違う。母の帳面に、一行だけ書いた。
〈組合より白粉六瓶。鉛。使わず、保管〉
三行目の理由は、書かなかった。書けることが、まだ無かったからだ。その夜、ノエルが台の前に座って、帳面を指でなぞっていた。今日書いた一行のところを。
「先生」
「はい」
「この字、なんて読むの」
指しているのは、〈鉛〉の一字だった。
鉛は甘い味がします。だから昔は、砂糖の代わりに使った国がありました。白く伸びて、甘くて、安い。悪いものというのは、たいてい最初は良いもののふりをしていません。ほんとうに良いものに見えます。
次回、六年前から一度も口に出さなかったことを、はじめて言葉にします。
ここまでお読みくださって、ありがとうございます。ブックマークをいただけますと、井戸の水があと一杯増えます。




