第16話 剥がれたのではなく、合っていなかっただけです
翌日は晴れた。
通りには昨日の雨で流れた土がそのまま残っていた。歩くと足の裏がざらつく。朝のうちに、店の前へ椅子を二つ出した。ひとつは待つ方のため。もうひとつは干すため。昨日濡れた布と油紙を並べておく。
油紙は日に当てすぎると縮む。だから朝の光のうちに出して、昼前には取り込む。布は逆で、しっかり乾かしたほうがいい。生乾きの布で顔を拭くと、その匂いが白粉に移る。
刷毛も洗った。毛先を下に向けて干す。上に向けると水が根元に溜まって、糊が抜ける。糊の抜けた刷毛は毛が散る。散った毛は、置いた粉に筋を作る。母がそう書いていた。母がそう書いていたので、六年そうしている。
昼前に、ジュリアン様がいらした。馬ではなく、歩いて。外套も着ておられない。
「昨日のことを聞きました」
「はい」
「通りで、あなたが妹御に手を差し出したと」
「差し出しました」
「断られたとも」
わたしは椅子を勧めた。今度は座られた。
◇
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」
ジュリアン様が仰った。
「昨日のあれは、化粧が剥がれたのですね」
「剥がれたのではございません」
「では、なんです」
「合っていなかっただけです」
その方はしばらく黙っておられた。
「同じことに聞こえます」
「違います」
わたしは干していた油紙を一枚取り、日に透かした。
「剥がれる、と申しますと、ちゃんと付いていたものが取れたことになります。昨日のあれは、最初から付いていなかったのです」
「付いていなかった」
「頬骨の下に影が描いてございました。あの子の頬骨の下には、影の出るかたちが無いのです。無いところに描いたものは、肌の上に浮いているだけです。雨が当たれば、浮いているものから先に動きます」
ジュリアン様は油紙を見ておられた。
「では、あなたのつくった顔なら、雨でも」
「崩れます」
「崩れるのですか」
「はい。ただ、崩れ方が違います」
わたしは椅子に座り直した。
「わたくしの置いたものは骨の上に置いてございます。水が当たると薄くなります。薄くはなりますが、置いた場所は動きません。ですので遠くから見ると『少し疲れて見える』くらいで済みます」
「昨日のは」
「動きました。動いた影は頬の下に灰色の帯を残します。あれは疲れて見えるのではなく、別の顔に見えます」
わたしは油紙を膝の上に戻した。
「わたくしは、顔を直しません。合わせるだけです」
「……前にも、聞きました」
「はい。あのときは、店をお貸しいただきたくて申し上げました」
その方はこちらを見られた。
「いまは」
「説明として申し上げております」
◇
ジュリアン様は地面を見ておられた。
「私の母は」
そう仰った。
「顔がきれいな人でした。父はそれで選んだ」
「はい」
「私が八つの年に家を出ました。出た理由は、いまも分かりません」
わたしは何も言わなかった。
「叔母は『あの人は顔だけだった』と言います。父もそう言って死にました。私は十九年そう聞かされて育ちました」
その方は顔を上げられた。
「だから化粧は嘘だと思っていました。顔だけの人間が作る、顔だけのものだと」
「はい」
「昨日、通りで見て思い直しました」
「何をでございますか」
「顔が崩れて、周りが笑うのを見ていて——あれは化粧の話ではないな、と」
その方は、右手を上げた。髪を耳にかけようとして、また止められた。止めた手を、そのまま膝に置かれた。
「私の母は顔だけだったのではないかもしれない。周りが顔だけを見ていたのかもしれない」
◇
わたしは干した布をたたみながら答えた。
「わたくしは、お母上を存じ上げません」
「そうでしょうね」
「ですので、これは化粧師としての話ですが」
布を膝の上に置いた。
「顔だけの人、というのはおりません」
「……」
「顔は、その人の骨と、その日の湿りと、その人が何を気にしているかでできております。気にしていることは顔に出ます。出るものを消そうとする方と、出たままにしておく方がいらして、どちらもその人です」
ジュリアン様はこちらを見ておられた。
「顔だけを見るということは、たぶんできないのです。見ているつもりの人は顔ではなく、自分が見たいものを見ています」
その方はしばらく何も仰らなかった。通りを荷車が二台通った。乾物屋の方が店先に水を撒いて、土のざらつきを流していかれた。
「セラフィナ殿」
「はい」
「一つ、お伝えすることがあって来ました」
「伺います」
「叔母が、あなたの母上を知る人を見つけました」
わたしはたたみかけた布を止めた。
「母を」
「エレーヌ・ヴェルニエ。二十年前、王都の化粧師で、その名を知らない者はいなかった」
「はい」
「叔母の知り合いに、当時その方に顔を頼んでいた人がいます。八十を越えていますが、話はできる」
その方は懐から紙を出された。名と、住まいが書いてある。アニェス・ボレル。王都の東の外れ。八十三歳。
「行かれますか」
「参ります」
「一つだけ、申し上げておきます」
ジュリアン様は紙を渡す手を止められた。
「その方は、あなたの母上のことを『恐ろしい人だった』と言ったそうです」
「恐ろしい」
「叔母がそう聞いたと。悪い意味なのか、そうでないのかは分からないと言っていました」
わたしは紙を受け取った。母のことを恐ろしいと言った人に、わたしはまだ一人も会っていない。器量よしだった、腕がよかった、早くに亡くなった。聞いてきたのはその三つだけだ。六年、それで足りていた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
「その言い方、前もなさいました」
「……そうでしたか」
◇
ジュリアン様が帰られたあと、ノエルが店から出てきた。
「行くの」
「参ります」
「いつ」
「明日か、明後日に」
ノエルは椅子に座り、干してある油紙を裏返した。乾いているほうを上にする裏返し方だった。教えていない。見て覚えたのだろう。
「先生」
「はい」
「昨日の人、妹なんだって?」
「はい」
「先生の顔、あの人の顔と、どこも似てない」
そのとおりだった。血はつながっていない。
「継母の連れ子ですので」
「ふうん」
ノエルは油紙を並べ直しながら、続けた。
「じゃあ、なんで六年もやってたの」
わたしは答えを探した。頼まれたからだ、では足りない。断れなかったからだ、でも足りない。
「……あの子の顔が、面白かったからです」
「面白い?」
「左右で骨のかたちが違うのです。右の頬骨が高くて、左の顎が少しだけ前に出ております。ああいうお顔は王都で十人に一人もおりません」
言ってから、自分で少し驚いた。六年そう思っていた。思っていたのに、一度も口に出したことがなかった。
「言えばよかったのに」
ノエルが油紙を裏返しながら言った。
「面白いって、あの人に」
「申し上げても、たぶん通じません」
「なんで」
「褒め言葉に聞こえませんので」
骨のかたちが左右で違うことを、あの子は欠点だと思うだろう。実際、多くの人はそう思う。だから化粧師はそれを直そうとする。直そうとするから、盛る。直さずに使うと、その人だけの顔になる。
それを六年やってきたのに、わたしは一度も、その面白さをあの子に言わなかった。言わないほうが仕事だと思っていた。気づかせないのが仕事なのだから。いまは、少し違うことを思っている。
「ノエル」
「なに」
「わたくしは、たぶん、六年ぶん黙りすぎました」
夕方、扉が叩かれた。
立っていたのは見たことのない使いの方だった。手に白木の箱を持っている。
「ラウレット夫人より、お詫びの品でございます」
「剥がれた」と「合っていなかった」は、起きた出来事としては同じに見えます。違うのは、直し方です。剥がれたものは貼り直せますが、合っていないものは、貼り直しても同じ場所で外れます。
次回、白木の箱を開けます。ノエルが、開けるより先に匂いを嗅ぎます。




