第15話 花祭の雨
王都の花祭は、年に一度、春の終わりにある。この日は花の広場に市が立って、王都じゅうから人が集まる。広場の中央に台が組まれて、その年に婚礼を控えた娘たちが花冠を受け取る。ただそれだけの行事なのだが、王都じゅうの家が娘を出す。
台に上がるのは十二人。誰が上がるかは、家の格で決まる。その十二人の名を、ローズさんが前の晩に教えてくださった。十一人目に、ヴェルニエ家の名があった。
◇
朝から曇っていた。
わたしは店を開けなかった。花祭の日は、通りじゅうに人が入る。人の流れの中で椅子を出しても、落ち着いて顔をつくることはできない。かわりに、店の前に台を出して、直しだけを受けることにした。
朝のうちに五人。昼までに九人。花冠を受け取る娘の付き添いの方や、市に出ている店の方が、崩れたところだけ直しに来られる。ノエルは、朝から広場のほうへ行っていた。
「戻ってきたら、雨だと思う」
昼過ぎに帰ってきて、そう言った。
「空を見ましたか」
「見てない。匂い」
「匂いで分かりますか」
「石畳が、雨の前の匂いになってる」
わたしは空を見上げた。雲は厚いが、まだ落ちていない。
「あと、どのくらいでしょう」
「一刻もない」
◇
台に人が集まりはじめたのは、その半刻あとだった。わたしは店の前から動かなかった。行く理由がなかったからだ。声だけが、広場のほうから届いた。名前が読み上げられて、そのたびに拍手が起きる。三人目。五人目。八人目。
十一人目のところで、拍手が少し大きくなった。王都一の美姫、という声が、どこかから聞こえた。
そして、雨が来た。
◇
春の終わりの雨は、はじめが強い。軒下へ人が押し寄せて、通りが一度に詰まった。花冠を持った娘たちが、頭から布をかぶって走ってくる。市の店が慌てて品物に油紙をかける。わたしは店の戸を開けて、入れる人を入れた。八人ほど入った。
そのうちの一人が、白粉の流れた顔をしていた。
「直します。お座りください」
「いいの? お代」
「今日は結構です」
「そんなわけには」
「濡れた顔をそのままにしておくと、あとで肌が荒れますので。荒れると、次にいらしたときにこちらが困ります」
その方は少し笑って、座られた。油紙で押さえて、水を吸わせて、白粉を置き直す。雨に濡れた顔に粉をのせるときは、乾かしてからでは間に合わない。濡れたままでも乗る細かい粉を、少しずつ。
「ノエル、篩の細かいほうを」
「はい」
「油紙、あと何枚ありますか」
「六枚」
「三枚は取っておいてください」
二人目。三人目。
「先生、外まだ降ってる」
「そうですね」
「入れる? もう七人待ってる」
「二人ずつなら」
狭い店だ。八人入ると、椅子の前に立つ場所がなくなる。ノエルが棚の前の荷を片づけて、隅に寄せた。四人目を直しているとき、外で声がした。
「あの子、どうしたの」
顔を上げた。
開いたままの戸の向こう、通りの真ん中に人が立っていた。傘も布も持っていない。走ってもいない。ただ立っている。
リディエンヌだった。
雨が、その顔を流していた。最初に切れたのは、口の端だった。紅が、右の端から線になって落ちている。湿りの足りない紅は、水に当たると内側から切れる。切れたところが筋になって、顎まで流れる。それから、頬骨の下の影が流れた。
描いた影は、水に弱い。描いてある以上、上から水が当たれば、描いたとおりの形のまま下へ動く。動いた影は、頬の下に灰色の帯を残す。白粉が浮いた。厚く置いた白粉は、下の油ごと持ち上がる。通りの人が、見ていた。
誰も何も言わなかった。言わないまま、少しずつ人が寄っていくのが分かった。
「あれ、ヴェルニエんとこの」
「さっき台に上がってた子だろ」
◇
わたしは、四人目の方に「少しお待ちください」と申し上げて、外へ出た。雨の中を、通りの真ん中まで歩いた。リディエンヌは動かなかった。わたしが正面に立っても、目を上げなかった。
この子は、自分の顔がいまどうなっているかを知らない。鏡を持っていないからだ。ただ、周りの人が自分を見ていることは分かっている。
「リディエンヌ」
わたしは布を出した。油紙ではなく、乾いた木綿の布を。
「顔を拭きます。店に入ってください」
この子は、顔を上げた。目のまわりの墨も流れていた。流れた墨が、目の下で二本の線になっている。
「……お姉さま」
「入ってください」
わたしは手を差し出した。この子は、その手を見た。見て、それから、一歩下がった。
「触らないで」
声が、震えていなかった。震えていないぶん、はっきり聞こえた。
「触らないで。お姉さまには、触られたくない」
差し出した手が、雨に濡れていた。わたしは、その手をどうしていいのか分からなかった。引っ込めるのも違う気がして、出したままでいた。
「お姉さまは、いま、うれしいんでしょう」
「いいえ」
「うそ」
「うそではありません」
この子は首を振った。
「だって、わたしがこうなるって、知ってたでしょう」
知っていた。
昼過ぎに、ノエルが雨だと言った時点で知っていた。あの紅は湿りが足りない。あの影は描いてある。雨が来れば、こうなる。知っていて、店の前から動かなかった。
「知っておりました」
「ほら」
「ですが、うれしくはございません」
この子は、笑おうとして失敗したような顔をした。
「……お姉さまの、そういうところが」
言いかけて、やめた。
そして、走っていった。通りの人のあいだを抜けて、雨の中を、広場とは反対のほうへ。わたしは、しばらくそこに立っていた。
手を下ろした。
雨は、まだ強かった。
通りの人が、ひとりずつ軒下へ戻っていった。誰かが「かわいそうにねえ」と言った。別の誰かが「あれで王都一かい」と言った。二つ目の声のほうが、はっきり聞こえた。
わたしは、その声のした方を見た。市に出ていた花売りの、若い男の方だった。悪意はなかった。ただ、思ったことを言っただけだ。
言い返せることは、いくつもあった。
あの子の骨のかたちは、王都で十人に一人もいない。左右の差は指の腹で分かるほどしかない。頬骨の高さは、あれ以上高くても低くても、光の当たり方が悪くなる。六年見てきた。だから知っている。
けれど、それを通りで言い返す人間になったら、わたしはあの子の顔を、六年ぶんの仕事ごと、この通りの噂の中に置くことになる。
言わなかった。
店の中から、ノエルが顔を出した。
「先生。四人目の人、待ってる」
「はい。いま行きます」
戻って、椅子の前に座って、油紙を取った。手が、少し冷えていた。冷えた指で粉を置くと、粒の乗り方が変わる。手のひらを二度こすり合わせてから、取りかかった。
「濡れましたね」
四人目の方が、そう仰った。
「はい」
「拭いたら」
「あとで拭きます」
「いま拭きな。手が冷えてるだろ」
「……はい」
ノエルが二階から乾いた布を持ってきた。顔を拭いて、手のひらを二度こすり合わせた。
「あの子、知り合いかい」
「妹でございます」
「そうかい」
「はい」
「追いかけなくていいのかい」
「行き先が分かりませんので」
「そう」
その方は鏡のほうを向かれた。
「あのねえ。ああいうのはね、追いかけられるのが嫌で走るんだよ」
「はい」
「でも、追いかけてこないと、それはそれで一生忘れないからね」
「……」
「まあ、あたしが言うことじゃないけどさ」
その方は、それ以上は仰らなかった。
描いた影は、雨に当たると描いたかたちのまま下へ動きます。もともと無いものを描くと、水はそれを正直に運びます。骨の上に置いたものだけが、動きません。
次回、雨は上がっています。店の前に椅子が二つ出ています。




