第2話 母の調合帳には、破り取られた頁がございます
夜になってから、調合帳を最初の頁から繰った。百四十頁ある。母が半分、わたしが半分。ちょうど真ん中あたりで字が変わるので、どこで母が書けなくなったのかが、指の感触だけで分かる。
母の字は細くて、頁の下まできっちり使う。空きを作らない人だった。処方はいつも三行で書いてある。一行目に相手の名と日付、二行目に配合、三行目に「なぜそうしたか」。この三行目を書く化粧師は、王都にもそう多くないのだと、母は言っていた。
〈クレール夫人・春の三の日。白粉は篩を二度。頬骨が高いので、粉を上へ運ばない。上へ運ぶと、目の下が痩せて見える〉
〈ベルタン子爵夫人・夏の十一の日。雨。紅は水を足さず、油で伸ばす。雨の日に水を足すと、日が落ちるころに色が沈む〉
〈同・秋の二の日。前回の油が重かったとご本人。半分に。ご不満は口に出さない方なので、次は最初から半分で〉
六年経っても、読むと手が動く。わたしの半分は、母ほどきれいではない。字も、配合も。ただ、三行目だけは真似をした。なぜそうしたかを書いておかないと、次に同じ顔をつくるときに、自分が何を考えていたのか分からなくなる。
頁の隅には、母がつけた小さな印がいくつも残っている。角を三角に折った跡、爪で押した窪み、色の違う糸で綴じ直したところ。何の意味なのかは、教わる前に亡くなられたので分からない。分からないまま、わたしも真似をして折っている。意味は無いのかもしれない。それでも、折らないと落ち着かない。
繰っていくと、百十二頁で今日の記述に追いつく。〈晴・乾。水一滴では足りず。次は二滴で試す〉その先に、白紙が二十一頁。
そして、最後。
背表紙の際に、紙の断面が七枚、立っている。
破り取られた頁だ。
六年前からここにある。母が亡くなって、この帳面を受け取ったとき、もう無かった。断面はまっすぐではなく、根元のほうがわずかに斜めに残っている。急いで引いたのではなく、指を入れて、ゆっくり引いた跡だ。
最初の一年は、毎晩ここを触っていた。二年目からは触らなくなった。触っても増えないと分かったからだ。いま、六年ぶりに指を当てている。紙の匂いが、ほかの頁と少し違う。母が亡くなったのは、六年前の秋だった。
流行りの熱で、三日寝込んで、四日目の朝に息をしなくなった。最後の三日は誰も部屋へ入れてもらえなかったので、わたしが最後に見た母の顔は、寝込む前の日の顔だ。台所の窓のところで、貝殻を洗っておられた。
この家は、もとは化粧師の家だった。母の代までは、ヴェルニエといえば王都で顔をつくる家のことだった。母が亡くなって、父が継母を迎えて、それから三年のあいだに、家の看板は静かに下ろされた。いまのヴェルニエ家は、化粧師の家ではない。娘の縁を売る家だ。
それを口に出したことは、一度もない。
廊下で、床が鳴った。
この家の二階の廊下は、階段から数えて七枚目の板だけが鳴る。父の足音だった。父はいつも、その板の上で一度止まる。
「セラフィナ」
扉の外から声がした。
「お入りください」
父は入ってこなかった。扉を半分だけ開けて、廊下に立ったまま話される。この方はいつもそうだ。
「マルグリットから聞いた」
「はい」
「……お前の母が遺したものだ。それは、持って行きなさい」
わたしは帳面を閉じた。
「よろしいのですか」
「よろしいも何も、お前の母のものだろう」
「では、お父さまからマルグリット様にそう仰っていただけますか」
廊下が静かになった。父の靴が、床の同じところで一度だけ鳴った。
「……マルグリットに従いなさい。あれは、この家のことをよく考えている」
「はい」
「宴のあとの行き先は、決まっているのか」
「まだですわ」
「そうか」
それだけ言って、父は行かれた。廊下の灯りが遠ざかっていく。
この方は六年のあいだ、一度もわたしを追い出そうとはなさらなかった。ただ、一度も止めもなさらなかった。どちらも同じ量の何もしなさで、たぶんご本人はそれを優しさだと思っておられる。机の下から布の袋を引き出して、道具を並べてみた。
貝殻が四つ。うち二つは母のもので、縁が薄く欠けている。刷毛が六本。太いのから細いのへ、使う順に紐で束ねてある。篩が二枚、目の粗いのと細いの。乳鉢と乳棒。眉墨の型。小刀。それから、母が使っていた小さな秤。皿が銀で、分銅が七つ。
全部並べても、机の半分に収まった。六年ぶんの仕事の道具が、これで全部だ。持って出るのに、馬車は要らない。行く先は、まだ決めていない。
王都の外れに、母が昔よく話していた通りがある。香油と乾物の店が並んでいて、家賃が安いという話だった。行ったことはない。ただ、母の口ぶりでは、あの通りには「粉の匂いの分かる人」がいるのだそうだ。
階段を上がってくる音がした。今度は止まらずに扉が開いた。
「まだ起きていらしたの」
継母だった。手燭を持っておられる。
「はい」
「ちょうどよかった。ひとつ、確かめておきたいことがあって」
継母は部屋に入ってこられて、机の上をご覧になった。目が、帳面のところで止まる。
「それ」
「母の調合帳です」
「ええ、存じております」継母はほほえまれた。「その帳面は、家財です」
わたしは顔を上げた。
「……家財、でございますか」
「ヴェルニエの家の財産、という意味ですわ。目録に載っております。あなたのお母さまが亡くなられたときに、旦那さまが署名をなさって、この家のものになりました」
継母は手燭を少し上げて、机の上を照らされた。帳面の表紙が、光の輪の中に入る。
「ですから、持ち出されては困りますのよ」
「これは、母がわたくしに遺したものです」
「口約束のことは存じませんわ。書いてあるものが正しいのです」
そう仰る継母の目尻は、やはり動かなかった。
「ひとつ、お伺いしてもよろしいですか」
「なにかしら」
「この帳面の、最後の七頁がございません」
継母は帳面を見たまま、少し黙っておられた。
「破れていたのでしょう」
「破れたのではなく、破り取られております。断面が残っておりますので」
「わたくしは存じません」
「六年前、母の部屋を片づけられたのは、マルグリット様ですわね」
「片づけましたけれど、帳面には触っておりません」
継母は手燭を持ち直された。炎が一度ゆれて、影が壁を上へ滑った。
「セラフィナ。あなた、その七頁に何が書いてあると思っているの」
「存じません。ですから伺っております」
「無いものを気にするのは、時間の無駄ですよ」
そう仰る言い方が、少しだけ速かった。
「三日後の宴には、あの子のいちばんいい顔で出ていただきます。それは、あなたにしかできませんものね」
いま、この方は、できると仰った。
六年のあいだで、はじめて聞いた言い方だった。
「その代わり、宴が済みましたら、そちらは置いていっていただきます。よろしいですね」
わたしは答えなかった。継母は返事を待たずに、手燭を下ろして出て行かれた。扉が閉まる。廊下の光が線になって、細くなって、消えた。机に残った帳面を、もう一度開いた。最後の七枚の断面に、指を当てる。
——お母さま。
この七頁を破ったのは、この方でしょうか。
それとも。
化粧師の帳面は、配合だけを書いても役に立ちません。「なぜそうしたか」を書いておかないと、次に同じ顔をつくるときに、自分の考えたことが再現できないからです。セラフィナの母は、そこを三行目に書く人でした。
次回、宴の日です。彼女はこの家で最後の顔をつくります。




