第1話 義妹の支度は、朝の光が要ります
貝殻の底で、紅を練る。
今日の分は、いつもより水を一滴だけ多くした。義妹の頬は朝のうちだけ乾くから、先方のご家族をお迎えする四刻を保たせるには、これくらいがいい。指の腹で三度、外へ向けて伸ばす。練りすぎると色が死ぬ。粉が指に吸いつく手前で止めて、東の窓へかざす。
朝の光は、白粉の粒をいちばん正直に見せてくれる。
六年、同じことをしている。
母の調合帳を膝に置いて、昨日の頁の下に今日の分を書き足した。日付。天気。湿り。使った紅の割合。リディエンヌの頬の乾き具合を、乾・並・湿の三段で。それだけの記録が、百四十頁のうち百十二頁まで埋まっている。
最初の一頁は、わたしが十三のときのものだ。字が下手で、いま読むと笑ってしまう。
ヴェルニエの家に、朝の物音はもうあまりない。台所に女が一人と、庭と馬を見る男が一人。それだけになったのが三年前で、それからは、朝の水も花もわたしが運んでいる。父は朝が遅い。継母は早い。だからこの時刻の一階は、たいてい継母のいる音だけがしている。
わたしの部屋は北向きなので、支度は隣の空き部屋を使う。東向きで、朝のあいだだけ光がまっすぐ入る。母が使っていた部屋だ。家具はもう何もない。鏡台と椅子だけを運び込んで、六年、ここで義妹の顔をつくっている。
「セラフィナお姉さま」
廊下を走る音が近づいてきて、止まらないまま扉が開いた。義妹が入ってくる。寝間着のまま、髪も結わずに。
「おはようございます、リディエンヌ様。お座りください」
「お姉さま、決まったのよ。ご返事が来たの。今朝いちばんに」
リディエンヌは鏡台の椅子に飛び乗るように座って、それから思い出したように背筋を伸ばした。十七歳の背中の伸ばし方だった。
「侯爵家から?」
「ええ。三日後に、披露の宴をなさるって。お母さまが、王都じゅうを呼ぶって仰って」
わたしは布で義妹の額を拭いた。眠っていたぶんの脂が、生え際に少し浮いている。
義妹の顔は、右と左で骨のかたちが違う。右の頬骨がわずかに高くて、左の顎がほんの少しだけ前に出ている。誰も気づかない。気づかせないように、六年ずっと、左に薄く白粉を置いて、右の紅を外へ流してきた。
「よかったですね」
「お姉さまのおかげよ」
言われて、手が一度だけ止まった。リディエンヌは悪気なくそう言う。この子はいつもそう言う。ただ、この子が言う「おかげ」は、朝に顔を洗う水を汲んでもらったのと同じ種類の「おかげ」なのだと、わたしは六年かけて理解した。
「わたくしは何もしておりませんわ」
「またそうやって仰る」
順番は、六年変わっていない。
まず香油を米粒ほど、手のひらで温めてから頬に置く。乾いた肌にそのまま粉をのせると、昼までに粉が浮いて筋になる。次に白粉。篩にかけて、刷毛を三度払う。粉を落としすぎるとむらが出るし、残しすぎると午後に浮く。この加減は帳面には書けない。母も書いていない。だから六年ぶん、指で覚えた。
左の頬から置いていく。輪郭に沿わせず、骨のかたちに沿わせる。義妹の目尻へ向かって、外へ、外へ。左の顎の前に出ているぶんだけ、粉をひとすじ余分に流す。そうすると、正面から見たときに左右が同じ位置で止まって見える。
眉は、右を一分だけ低く取る。左右を揃えて描くと、かえって顔が傾いて見えるからだ。
「お姉さま、今日はいつもより明るい色ね」
「先方のご母堂は、赤みの強い織物をお召しになるそうですから。お顔が負けてしまいます」
「よく知ってるのね、そんなこと」
仕立屋のマルタ夫人に先週伺った。誰が何を着るのかを先に知っておかないと、色が喧嘩する。そういうことを聞いて回るのも、六年のあいだに仕事のうちになった。
紅を指に取る。義妹の下唇のまんなかに置いて、外へ二度。上唇は、山を作らずに薄く。この子の唇は上が薄くて下が厚いので、上に色を足すと口が重く見える。置いた瞬間に、指の腹が伝えてきた。
——湿りが足りない。
今朝の分は、水を一滴多くしたのに。紅が唇の上で、わずかに引っかかっている。粘りが強いと、笑ったときに口の端で切れる。切れた紅は、そこから乾いていく。
窓の外を見た。よく晴れている。晴れすぎている。庭の芝の色が、昨日より白い。この乾き方だと、四刻はもたないかもしれない。昼にもう一度、直しに入ったほうがいい。
帳面を開いて、今日の頁の余白に短く書き足した。〈晴・乾。水一滴では足りず。次は二滴で試す〉
「終わりましたわ」
「ありがとう、お姉さま」
リディエンヌは鏡を覗き込んで、右の頬だけにえくぼを出して笑った。そのえくぼは、この子が生まれつき持っているものだ。わたしが作れるものではない。この子は、自分の顔がどうやってこの顔になっているのかを、たぶん一度も考えたことがない。
「セラフィナ」
階下から声がした。継母のマルグリット様だった。
「はい、ただいま」
わたしは調合帳を閉じて、脇に抱えた。この帳面を部屋に置いていくことは、六年、一度もしていない。母がそうしていたからだ。理由を聞く前に母は亡くなったので、いまでは理由のほうを、わたしが勝手に持っている。
階段を下りると、継母は玄関の広間に立っておられた。外套を腕にかけたままだ。朝のうちに一度お出かけになって、戻ってこられたところらしい。この方は宴の前になると、招く相手の家を先に一軒ずつ回られる。誰を上座にするか、誰と誰を離すか。そういうことを、この方は一度も間違えない。
窓を背にして、こちらを見ておられる。
「リディエンヌの支度は」
「済ませました。昼にもう一度、直しに入ります」
「そう」
継母はほほえまれた。この方は笑うとき、口元だけが動く。目尻はいつも同じ位置にある。六年見ていて、動いたところを一度も見ていない。
「三日後の宴のことで、話があります」
わたしは背筋を伸ばした。
「支度でしたら、いつもどおりに」
「ええ、支度はしていただきます。あの子のいちばんいい顔で。——そのあとの話です」
継母は窓の外へ目をやった。庭の芝が、朝のうちからもう白く乾き始めている。
「宴が済んだら、あなたには出ていっていただきます」
言葉の意味を取るのに、たぶん二つ数えるくらいかかった。
「……お聞きしてもよろしいですか。理由を」
「理由が要りますか」継母は不思議そうな顔をなさった。「あの子の縁が調ったのですから。あなたにしていただくことは、もうありませんでしょう」
そうですね、とは言わなかった。言葉のかわりに、指先を見た。爪のふちに、紅がわずかに残っている。落とし忘れではなくて、六年ぶんの染みだ。石鹸では、もう落ちない。
「承知いたしました」
「あら」継母は少し目を見開かれた。「もう少し、何か仰るかと思っていましたけれど」
「宴の支度は、いつもどおりにいたします」
わたしは頭を下げて、階段へ戻った。三段目まで上がったところで、思い出したことがある。
昼にもう一度、リディエンヌの紅を直しに行かなければならない。今朝の湿りでは、四刻はもたない。それだけは、宴の日までにきちんと調整しておく必要がある。三日後の宴が、この家で顔をつくる最後の日になるのだから。
この国では、令嬢の顔は化粧師がつくります。骨のかたちも、その日の湿りも、その日に誰が何を着てくるかも、全部ひっくるめて一つの顔にする仕事です。だから化粧師は、自分がつくった顔を帳面に書いて残します。次に同じ顔をつくるために。
次回、母が遺した調合帳の話をします。百四十頁のうち、最後の七頁だけがありません。
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