第四日 オロロンライン 2/4
海沿いの国道へ復帰したときにはもう昼時になっていたので、羽幌の食堂「西のどんぶり屋さん」へ立ち寄った。派手な看板の直売所が併設されている、海鮮を扱う店だ。
「しかしこのフルバンク停車て……なかなかのネーミングセンスよな」
二人そろって海鮮丼を頼み、スマホを開いた渚は肩を震わせている。
「バイク乗りやったら当然知ってるもんやと思てたわ……お、さっきのドでかい鳥、オロロン鳥てゆうんやと」
食堂の手前に巨大な鳥の像があり、二人して写真に収めていた。
「オロロン?」
「ウミガラスのことらしいわ。オロロンラインってこっから来とるんやな」
「ペンギンちゃうかったんか」
脈絡も中身もない会話を交わしていると、注文した品が運ばれてきた。
「うおぅ……」
「これはこれは……」
そうそうたる光景だった。手前に殻付きの海老が鎮座し、その奥にはマグロやウニ、イクラといった豪華な顔ぶれが控えている。鮮烈な輝きを目で味わいながら、渚は割り箸を割った。
かけすぎないよう気をつけながら醤油を垂らし、まずはマグロをいただいた。舌に載せただけでも旨味と甘味がほどけるように広がり、身を噛み締めることでそれが幾重にも増幅される。
「うっま……どうしたん姉貴、まだワサビ食われへんの?」
「ええやろ別に」
楓は弟の視線から逃れるように、目を閉じて紙コップの水を煽る。渚は昨日少食だとからかわれたのを若干根に持っていたが、ワサビについてそれ以上掘り下げるのは控えることにした。
「あっ」
紙コップを盆へと戻した姉は唐突に無防備な声を上げた。席が埋まっているわりには静かな店内で、周りの客の目が楓に集中する。
「何や、宇宙電波でも受信したか」
渚のボケも無視してスマホを取り出した楓は、しきりに何かを操作し画面を注視している。妙なところで生真面目な姉は、普段から食事中にはスマホを触らないようにしているはずだが。
「姉貴……?」
不穏な気配を感じた渚に、楓は唇を歪めて言った。
「さっきのとこで写真撮るん忘れとった……」
「えっ? あっ……」
サイズの誇張されたヒグマ像と、初老の夫婦との交流。それらに気を取られ、二人とも自分たちが写真を撮るのを失念していた。
「やってもたな……」
「はぁー……」
深いため息をつく楓。時間的にも心理的にも、ここで引き返すという選択はさすがにないだろう。
楓はスマホをしまい箸を手に取ったものの、まだ食事を再開するには至っていない。姉のショックが思いのほか大きかったと見て、渚は芝居がかった口調で告げる。
「まあほら、思い出は心の中にあるし……」
「……せやな」
またため息をついてから、楓はハマチと酢飯を口に運んだ。目を閉じ、ゆっくりと咀嚼したのちに呟いた。
「心が沈もうとも飯は美味い」
自分に言い聞かせているかのようなその言葉が、何故か渚の耳の奥に残った。
店を出た二人は同時に空を見上げた。
厚い雲が垂れ込め、風も心なしか冷たくなっている。
「このあと寄るとこあったっけ?」
「ガス入れなあかんわ。そっちもそろそろちゃう?」
手近なガソリンスタンドに入った。北海道はなまら広く、場所によっては百キロ以上スタンドがないこともあるし、日祝は休業という店も多い。カブは燃費の良さには定評があるものの、ハンターのタンク容量は五リットル少々、クロスは四リットルほどだ。北海道ツーリングでは、常にガソリンの残量と航続距離を頭に入れておく必要がある。
舞鶴港でフェリーの乗船開始を待っている間、楓がふんぞり返って講釈を垂れていたのを思い出した。
「またひたすら北やな」
胃袋もタンクも満タンになり、引き続き国道をまっすぐ走った。海に沿ったり離れたりしながら、片側一車線の道が延々と続いていく。
石狩市街を抜けてからか、留萌を出てからか――道を行く車の平均速度が上がったように感じられる。あたかも高速道路であるかのように飛ばしている車も珍しくない。二人もいつもより余分にアクセルを回しているが、それでも背後からやってくる車には毎度軽く抜き去られている。
このような速度域で走り続けるなど、渚はもちろん楓にとっても初めてのことだろう。いつもより前傾気味の姿勢を取ってはいるが、それでも両肩を後方へ引っ張られるような力が絶えずかかっている。
「これはこれで疲れるな」
「ウチらもそうやけど、エンジンはだいじょうぶなんやろか」
二台のカブは先ほどから、いつもより高いトーンで唸り続けていた。小排気量車はオーバーヒートしやすい、といつか見たネットの記事に書かれていた。
「まあイカレるとしても、アンタのカブが先やろけどな」
「なんで?」
「排気量が15cc小さい分、負担も大きくなるやん」
「……姉貴、バイク交換せえへん?」
「また今度な」
道の駅「てしお」で休息を取り、凝り固まった体をほぐす。
「北行きのルートはここで国道と道道に分かれるんよ」
「どっち行くん?」
「もち道道」
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○道道106号
小樽と稚内を結ぶオロロンラインのハイライト。
民家どころか電柱すらないまっすぐな道が、数十キロにわたり続いている。
この道を走らずして北海道ツーリングは語れない。
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106号に入って間もなく、一粒の水滴がヘルメットのシールドを打った。
「うわ、来よったか」
それは瞬く間に雨となり、ウィンドブレーカーに斑の染みを作っていく。
「どうせなら道の駅おったときに降ればええのに」
愚痴をこぼしつつ路肩にカブを停め、渚はカッパとシートバッグ用のレインカバーを取り出した。数年買い替えていない黒一色のカッパは、かなりくたびれている。
「そうか、シートバッグにもカバーかけなあかんねんな」
「ああ……それが昨日言うてたワークマンか」
楓が着ているのは上が深い青、下が黒。縫製もしっかりしているようで、カッパよりも「レインスーツ」といった印象だ。
「なかなかええ感じやん」
「ふふん。上下セットで4,900円やで」
「結構高ない?」
「いやいや、バイク用品メーカーが出してるようなやつは平気で倍以上するから! 超お買い得」
「やっぱ回し者やんけ」
再び走りだすと、雨に濡れて強くなった草の匂いがヘルメットに流れ込んできた。勢いよく息を吐くとシールドが曇ってしまい、一瞬ヒヤリとさせられる。
道道と国道の分岐からそう遠くないところで、雨に煙る行く手に白い柱のようなものが見えてきた。近づいてみると、高さ十メートルを越えるような風力発電機だった。しかもそれはひとつではなく、道に沿って二十か三十ほどが等間隔に並んでいる。
「おおう、すげえ……」
海風を受けて尖ったプロペラを回すそれらを前に、楓はウィンカーを出した。草の茂る路肩にカブを停め、少し引いたところからスマホを構える。渚もまた、まっすぐ続く道、立ち並ぶ風車、二台のカブをスマホの画面に収める。
「アンタのスマホも防水なん?」
「一応そうやけど……あんまり濡らすんは怖いんよな」
気休めにしかならないだろうが、USBの端子やイヤホンのジャックを指の腹で塞ぐ。数回シャッターを切り、素早くスマホをしまった。
そこから数分、今度は左手に銀色のオブジェが見えた。アルファベットの「Z」が横倒しになっているかと思いきや、これは「N」のようだ。
「ここが北緯四十五度なんやって」
「あれ、そんなら……」
楓はリアボックスの蓋を半分開き、首を突っ込んでツーリングマップルを確認する。
「晴れてたらあの辺りに利尻島が見えるはずなんやけどな……」
楓は沖に向け伸ばした手を、円を描くように動かす。灰色の分厚い雲と、その色を写し取ったような海の間を見遣った。
「利尻昆布の利尻?」
「そ。あと白い恋人のパッケージに採用された山とかな」
「ほーん……なあ、さっきからちょっと寒ない?」
「ああ、昼前より気温下がっとる気ぃするな」
先ほどカッパを引っ張り出したときに、ヒートテックも着込んでおくべきだった。かといって、小雨の降る中でヘルメットもカッパも脱ぎ、改めて着込むのも億劫だ。
さらに進むと、今度は電柱と電線が消えた。
視界に入る人工物は、アスファルトの道路のみ。
「厳密にいえば道路脇のあれ……反射材付けたポールみたいなんあるけどな」
「車も案外走っとるし」
天塩の分岐でほとんどの車は国道を行くかと思っていたが、道道もそれなりの交通量だ。
「あらっ」
そのとき、渚の目の焦点が前を走るハンターカブからその背景へと移った。シールドを上げて目元を拭う。
「あれって……」
「どうしたん?」
「ちょっと停まろ」
どこまでも続くと思われた片側一車線の道。
中央線と両端の白線がまっすぐに延び、その交点で空と同化している。
地平線だ。
「おお、これが……」
水平線ならまだしも、肉眼で地平線を拝むのは初めてだ。二人ともしばし言葉を失い、じっと進行方向を見つめていた。
「さすが北海道……つーかウチ全然気づかんかったわ」
「地球は、丸かった……」
雨の中佇む二人の横を、猛スピードでトラックが走り抜けていった。
雨と走行風で体が冷えたせいか、地平線を見て気分が高揚したのもあるのか、またしても下腹部に緊張が走った。
(クソ、さっき道の駅では何ともなかったのに……)
気のせいであってくれと願いながらシートに座り直すが、便意は収まるどころかさらに強くなった。前方を確認するも、トイレはおろかアスファルトと原野以外のものが目に入らない。
「姉貴、もしもな? もしもの話なんやけど……」
「んー?」
「俺の肛門が決壊寸前って言うたらどないする?」
「五百マイル離れる」
「ディスタンス広すぎへんか?」
会話することで少しは気が紛れるかと思ったが、そうでもなかった。腸は盛んに収縮を繰り返し、事態が差し迫っていることを脳へ伝達する。
「そこらへんでしてまえば?」
「でもここでやったら公然わいせつ罪にならへん? 厳密には」
「そのまま漏らしたところで迷惑防止条例違反やろうし同じちゃう?」
冷たくあしらおうとする姉に、渚はニヤリと笑って告げる。
「いいこと思いついた」
「ウホッ?」
「姉貴が路肩で全裸になってる隙に逆サイドでウンコしたら、俺は見られへんし捕まらへんのちゃう?」
「……雨も止まへんしもっと安全運転で行こか、ゆっっっくりと」
「おいィィィィ!」
「もうそのまま漏らしてから、肥溜めに突っ込んだら? これ以上ないカモフラージュになるで」
「天才か」
アホな会話を繰り広げているうちにも、便意は刻一刻と高まっていく。
(やっぱそこらへんで済ませるしかないんか……?)
チラリとミラーを確認するが、後方に車が迫っている。括約筋の方もかなり限界に近づいていた。自分の呼吸する音が妙に大きく聞こえ、頭に昇っていたはずの血が引いていく感覚に襲われた。
「あっ」
「何や」
「あれトイレちゃう?」
左前方にそれっぽい建物が見えた。さらに近づくことで、それがトイレだと認識できた。
渚はアクセルを開き姉を追い越す。トイレの目の前へカブを滑り込ませたまではよかったが、雨で濡れたグローブがなかなか外せない。
「うおああああ……!」
どうにかこうにか手から引き剥がし、ヘルメットをかぶったまま中に駆け込んだ。
憑き物が落ちたような顔で渚はトイレから出た。
楓は建物の軒を借りてスマホを開いている。
「まだしばらく原野続くみたいやわ。このトイレがなかったら肥溜め一直線やったな」
「そんときは刺し違えてでも姉貴を道連れにするわ」
トイレに入って気づいたが、渚の衣服はかなり湿っていた。特に腰周りは、絞れば水滴が出そうなほど濡れている。着ているカッパの経年劣化のせいか、防水性能が下がっているようだ。
「ごめん、ちょっと待って」
渚は一度カッパを脱ぎ、ヒートテックを中に着込む。すでにシャツもウィンドブレーカーも水気を吸っているのでどこまで効果があるかわからないが、少しでも体温の低下を防ぎたかった。
「だいじょうぶなん? そんな寒い?」
「カッパがボロでな……中の服ちょっと濡れとるんよ」
「ほんまか」
軒下から出た楓はリアボックスを開け、中をごそごそ探っている。
「あったわ。これ貼っとき」
差し出されたのは三枚のカイロだった。
「昨夜の残り」
「全部使ってええん?」
「ええよ。明日から数日は気温高めらしいし」
「ありがと、助かる」
「礼ならアンタの括約筋に言うとき」
三十分後、永遠に続くかと思われた直線道路もついに終わりを迎え、這う這うの体でノシャップ岬にたどり着いた。
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○ノシャップ岬
稚内市街からほど近い、最北端かと思いきやそうではない岬。
だがここの水族館は日本最北のものである。
最東端である根室のノサップ岬と混同しやすい。
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「さっぶぶぶぶぶぶぶ」
「スマホのバイブ強すぎへん? 魔改造したんか?」
「寒いんじゃ!」
渚はブルブル震えつつ、噛み付かんばかりのツッコミを入れる。姉からもらったカイロを貼っているものの、止まない雨とノンストップの走行風の前では焼け石に水――もといブリザードにマッチだった。かつて経験したことのないほどの寒さを味わい、ついには歯の根も合わなくなった。
「うん、特に何もないな」
渚はカッパを着たままで、突端の広場を異様な早歩きで横切る。顔の筋肉も冷え切って口がうまく動かない。
「真横に水族館あるやんけ」
「えっ? 全然見えへん」
バイク乗りの憧れとされる道を走りきったものの、渚はもちろん、楓の顔にも満足感より疲労の色が強く出ている。
「今日はもう宿に泊まろ」
「えっ、宿?」
家を出てから四日目、ようやくまともな環境で睡眠を取れる。何よりもまず、熱い風呂にゆっくり浸かって、この冷え切った体を温められる……。
そう渚が安堵したのも束の間だった。
「宿っつーかライダーハウスやけどな。稚内はホテルが少ないからなんか、今から予約取るんは相当厳しいんよ」
「ごめん、ライダーハウスって何?」
「バイク乗り向けで基本素泊まりの安宿よ。まあだいたいのところはライダーやなくても泊めてくれると思うけど」
「そっちは予約取れるん?」
「大部屋で雑魚寝みたいなとこが多いからだいじょうぶやろ。知らんけど」
「知らんのかい」
「電話してみるわ」
楓が手にするスマホには、「さつき湯」というスポットの情報が表示されていた。トイレの入口で電話を架ける姉。当日、しかも直前の連絡で、本当に泊めてもらえるのだろうか。
「空きあるって。一人二千円」
「安っ」
駐車場へ戻り、無数の水滴に覆われたカブに跨る。
「運転には支障ないん? 宿まで数キロやけど」
「ああ、それぐらいやったら」
「寒さがマジに限界に達したときって、何でか服脱いでまうんやて。まだそこまでなってへんし、だいじょうぶやな」
「なってたまるかい。つーかそれ八甲田山やろ、裸で発狂して死ぬやつ」
真冬の雪山ならまだしも、八月の平地でこれほど寒い思いをするとは予想だにしなかった。
「姉貴もライダーハウス初めてなん?」
「まあな……けどフェリーで寝るよりはマシやろ、多分」




