第四日 オロロンライン 1/4
眩しさと鳩の鳴き声で目が覚めた。スマホを確認すると午前五時を回ったところだった。夏至を過ぎて久しいにもかかわらず、もう十分に明るくなっている。
「そうか……東に来た分日の出は早くなるわな」
枕元に置いていたボトルの水を補給し、渚はテント越しの光から逃れるように顔を伏せた。昨晩は多少冷え込んだが、カイロを使ったこともあり寒さに悩まされることはなかった。本当に必要なのか、と疑いながら荷物に入れたヒートテックやカイロが、これほどありがたい存在になるとは。
息をついて身じろぎをした途端、渚は下腹部に差し迫ったものを感じた。
「うっ……」
だが例のトイレで用を足すのは極力避けたい。というより、一分以上あの空間に留まるのは健康に重大な支障をきたしそうで恐ろしい。
グーグルマップを開き、「公衆トイレ」と打ち込んでみる。
「早よ早よ早よ……おっ」
どうやら川を渡ってすぐのところにあるようだ。貴重品とカブのキーをポケットにテントを出た。
十分後、キャンプ場に戻った渚はテントから這い出てくる楓と顔を合わせた。
「どこ行っとったん、こんな時間から」
「ウンコ」
「は?」
寝起きで前衛的な髪型になっている姉に、この先の公衆トイレまで足を伸ばしたことを伝えた。
「ほーん、わざわざご苦労なこって」
「姉貴はあのにおい平気なん?」
「……ウチも行ってくるわ」
軽く二度寝したのち、昨夜買っておいた菓子パンの封を開けた。
「昨日の朝飯との落差が半端ないな」
「その分昼はええもん食うか」
周囲のキャンパーはテントやタープを畳んで、撤収作業を進めている。すでに陽は高い位置まで上り、それにともない気温も上がってきていた。
「しかしテントってこんだけ光通すんやな。朝方眩しくてしゃーないわ」
タオルを顔に乗せてやり過ごそうとしたが、寝返りを打つとズレてしまうのが気になった。
「ウチはこれしとったから問題なかったけどな」
楓はテントに手を突っ込み、アイマスクを取り出してみせる。
「なるほど……」
やはり姉の方が用意がいいというか、旅慣れているのは否めない。
食べ終わるか終わらないうちに撤収作業に移行し、渚はハンターカブを見て言った。
「姉貴のカブは荷台以外にもいろいろ載せれるんやな」
クロスカブはシートバッグのみだが、ハンターはハンドルの前やシートの前にも小型のバッグが付いている。
「おう、積めるとこは全部積んだろ思て。結構便利やし、荷重も分散させれるしな」
「なるほど……」
そのうち自分もやってみよう。
(いや、ローンとおかんからの借金を完済する方が先か……)
過酷な現実を思い出しそうになったため、咳払いをして手を動かした。
キャンプ場を発って少し行くと、ある程度の規模の街へと入った。
留萌というようだが、字面にも響きにも愛嬌が感じられる。
「ちょっと寄り道してもええ?」
どのみち決定権は姉にあるので、黙ってあとについて行く。国道231号を外れて数百メートル走ると、うらびれた建物が見えてきた。
「留萌駅……?」
「何年か前廃線になったらしいんよ」
近年地方の鉄道が相次いで廃止されているが、北海道は特にその傾向が強い、とどこかで聞いたのを思い出した。
駐車場、もとい空き地へ適当にカブを停め、「構内進入禁止」という傾いた看板の前まで歩み寄った。鉄パイプを組んで作られた無骨な柵の向こう、役目を終えた線路やホームのそこかしこから、様々な草が青々と伸びている。
「こんなふうに電車潰して車ばっか乗っとったら、ますます温暖化進むんちゃう?」
「北海道はもうちょい暖かくなったほうがええとか?」
「どうやろ……」
留萌市街を抜けた二人は、232号に入りなおも北上を続ける。
「天気保つやろか」
朝方晴れていた空は次第に雲が増え、風も少なからず出てきた。天気予報を見たところ、午後の降水確率は三十パーセントとなっている。
「どっちにせよ早めに向こう着いた方がええかもな」
先ほど荷造りをしつつ今日の行程について話し合い、稚内に泊まることと相成った。雨が降らなければ無料のキャンプ場、降れば宿を探すつもりだ。
「ちょっとここ寄るで」
楓は道の駅の駐車場へカブを乗り入れた。
「早よ行くんちゃうの?」
「トイレやトイレ」
「おびら鰊番屋」の建物に足を踏み入れるなり、二人は目を見張った。
「おお、これが……」
「でっか……」
ヒグマの親子の剥製が一角に鎮座していた。ツキノワグマの剥製はどこかの郷土資料館だか道の駅だかで目にしたことがあるが、ヒグマのものは初めてだ。
目の前まで近づくと、遠目にも明らかだったその巨体がさらに強調される。およそくびれといったものが見られないその身体は豊かな毛で覆われており、その佇まいは弱点や死角のなさを感じさせる。
「ほらこの爪、ヤバすぎやろ」
楓が指で示す先を目で追う。奴さんの前足に備わった黒々と光るそれらは、もはや爪というより恐竜の牙のようだった。
「とりあえず写真撮ってや」
その言葉で、ヒグマへと埋没しかけていた意識が引き戻される。ヒグマと並んだ楓は、これでもかというほどのドヤ顔で腕組みをしてみせた。
「なんで自分が獲ったみたいな顔するん?」
文句を言いながらもシャッターを押し、交代して自分も撮ってもらう。
「いやー、ええもん見れたなあ」
至極満足げな様子で建物を出た楓は、カブのキーを取り出した途端ふと歩みを止めた。
「トイレ行くん忘れとったわ」
道の駅を出てしばらく走った二人は国道から脇道へ入ると、一転して南下し始めた。かといって道を間違えたわけでも、ガスの元栓が気になって引き返しているわけでもない。
「なんで戻らなあかんねん!」
「俺に聞かれても」
次なる目的地は「三毛別ヒグマ事件復元現場」である。
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○三毛別ヒグマ事件
大正時代、一頭のヒグマが苫前村(現在の苫前町)の集落を複数回襲撃し、十名もの人間を殺傷せしめた。
これは日本の獣害事件で史上最悪の被害であり、百年以上経った今でもなお語り継がれている。
事件をもとにした小説や映画も作られた。
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復元現場は、先ほどの道の駅のほぼ真東にある。だがその二点を結ぶ道路が存在せず、北上↑東進→南下↓と回り込まなければアクセスできないのだ。
「RPGの洞窟みたいな道やな」
「道の形状はそうかもしれんけど……宝箱落ちてへんやん」
「宝箱はないけどモンスターも出てこんやろ?」
「うーん……」
今のところは無事だが、ここにはモンスター並み――あるいはそれ以上の戦闘力を有する種族が棲息している。確率は低いとはいえ、連中といつエンカウントするか分からない状況だ。
海沿いの国道を折れて道道1049号――通称ベアーロードに入ってからは、淡々とした行軍が続いている。景色が良いわけでもなく、ぽつぽつと点在する民家を除けば、本当に何もない田舎道だ。
「ちょっと停まるで」
前を行く楓がウィンカーを出し、ゆっくりと路肩へ停まった。
そこは無人の神社だった。白く無機質な鳥居の奥の突き当たりに、拝殿らしき小さな建物が見える。道道に面したところ以外は、三方を木立に囲まれ見通しが悪い。今にも出没しそうな雰囲気だ。
だが何よりも姉弟の注意を引いたのは、鳥居の右手にある「熊害慰霊碑」だった。周囲の茂みに気を配りつつ、その碑へゆっくりと歩を進める。
「うっ……」
そこにはこの事件で命を落とした七名の氏名が刻まれている。二人は目をきつくつむり、胸の前で手を合わせた。
「なあ、あそこもお参りした方がええんちゃう?」
楓は奥の拝殿を指差して言った。
「えっ、あこまで行くん?」
「そら一応、神社に来たわけやし」
「ここに寄ろう言うたん姉貴やろ、自分だけ行けばええやん」
「えー……ちょっと怖いやん、一人であそこまで行くんは」
「俺は遠慮しとく」
「……じゃあウチもやめるわ」
「っ……!」
姉の逃げ腰に何故か無性に腹が立った。
「わかったわ、俺が行く」
「えっ?」
「サッと済ませてパッと戻ってくるわ。そこで待っとき」
「いや、そんならウチが行くわ」
「は? 俺が行くからええって」
「でも言いだしっぺなんやし、やっぱウチが行くべきやろ」
「とにかく俺が行くから、俺が!」
「いやいやウチが行くわ、ウチが!」
「……」
「……」
「ここで熊が出て『拙者が参ろう』とか言うてくれたら『どうぞどうぞ』で綺麗にオチるんやけど」
「熊に逢いたいんか遭いたくないんかどっちなんよ」
結局二人で向かうことになり、競歩並みのスピードで拝殿まで往復した。カブに戻りヘルメットを装着していると、茂みの中から何物かの気配を感じた。
ハッとして顔を上げる。心臓が大きく跳ねた。
「姉貴っ!」
「出たか!?」
声は出たものの体は動かず、二人は両足を地面に縫い留められたように固まったまま、茂みの奥へと目を凝らす。
草をかき分け姿を現したその正体は、やつれた一頭のキツネだった。
「「はあああー……」」
深い深い安堵のため息を同時につき、体からカクンと力が抜ける。
当のキツネはどこ吹く風といった調子で、徐々に距離を詰めてくる。人には馴れているようだ。
「キツネってこんなでかかったっけ?」
「キタキツネやろ。本州のやつよりでかいんよ」
「思い出した。ベルクマンの法則やろ」
「ちなみにサルやイノシシは北海道にいない」
「ブラキストン線!」
どうでもいい会話をしているうちに、キツネは一メートル先にまで迫ってきていた。
「触ったらあかんで」
「さすがに触らんわ。エキノコックスやろ?」
だが手を触れなければセーフというのなら、大した支障もないだろう。地元の農家にとっては害獣なのかもしれないが。
「こいつらのせいで道内の湧き水って基本飲めへんのよ」
「えっ? ああ、エキノが混入してるかもしれへんってこと?」
前言を撤回しよう。やはり支障はある。
気を取り直し道道を南下すると、民家はさらに少なく、山は徐々に深くなってきた。
「さっきのがもし熊やったら、カブに跨ってアクセル全開で逃げるんが正解なんやろか?」
だが連中には逃げるものを追いかける習性があると聞く。
「ウチとしては、アンタのカブを蹴倒して囮にして逃げんのがベストかなと」
「……そういう場合はやっぱ俺の方を襲うんやろか?」
「さあな……渚、ブレーキッ」
楓の左手がハンドルから離れたかと思うと、その掌が後方へと突き出された。姉に合わせて減速していると、そのサインの理由が分かった。
そこで舗装路が終わっていたのだ。道路脇の看板には「三渓羆事件 現場まで約200m」とある。
「……っ」
渚は生唾を飲み込んだ。
ダートに入って間もなく、その現場とやらに到着した。周囲は木立に囲まれ、鳥や虫の声が重なり響いている。ヘルメットをゆっくり脱いでいると、楓が一度停めたカブを動かそうとしているのが目に入った。
「何してんの?」
「いや、熊が出たときすぐに逃げられるように」
そう言って走ってきた道の方向へと百八十度回頭させ、改めてスタンドを下ろした。
「そこまでする必要ある?」
「そうはいうても……ほら」
楓は神妙な面持ちで辺りを見回す。
建物といえば当時の家屋を再現した粗末な小屋のみ。いざというとき熊の襲撃を躱せるような建物は何もない。完全に連中の本拠地である。何を大げさな、と笑い飛ばそうとした渚も、一瞬背筋がぞくりとするのを感じた。
そんな弟の様子を見て、楓は背中を丸めて囁くように言う。
「怖いなー怖いなーと思いながらも復元現場に行くわけですね。すると向こうの藪の中からガサガサッ、ガサガサッと音が聞こえるんです」
「おいやめろ」
姉にならってカブの向きを変える。
「キーも差しっぱでええか」
「せやな……メットもかぶっといたほうがええんちゃう?」
「確かに」
いつでも発進できるよう手はずを整えたところで、先ほどから視界の端に映っていたヒグマ像――もといオブジェに歩み寄る。巨大なヒグマが小屋に向かい、今にも爪牙を振るおうとしているところだ。
「なあ渚」
「ん?」
「ちょっとでかすぎるよな、これ」
「熊ってヤヅァ怒ると倍はふくれで見える」
「なるほど、人間側の心理的な要素も加味しとるってことか」
まじまじと眺めたところで、近くの案内板へと移る。そこには事件の経過、間取り図等の詳細が記されていた。壁を破り小屋に討ち入ったヒグマが、次々と村人に襲いかかる……。
臨場感のある描写に、肌が粟立つのを感じた。
「冬眠できずに凶暴化しとったんやな……」
「丈2.7メートル、体重340キロやて」
「ふーん……っ!」
ハッと我に返った渚は周囲を見回す。獣の気配は感じられなかった。
「上か!?」
警戒態勢の弟の隣で、エアサブマシンガンの銃口を真上に向ける姉。
「アホなことしとらんと――」
そのとき、二人の背後から一台のセダンが近づいてきた。車から降りた夫婦らしき初老の男女は、いたってのどかな表情を浮かべている。姉弟に比べずいぶんとラフな格好のその二人は、こちらを見てわずかに眉を上げた。
「こんにちは」
「あ……こんにちは」
思いがけず声を掛けられ、渚は面食らいながらも挨拶を返した。横目で楓をうかがうと、首の後ろに手を当て頭を下げている。
「渚、あの看板見てみいや」
姉の指差す先に目を移すと、「ハチに注意!」とある。
「熊はええんかい熊は」
熊オブジェを前にした夫婦が大きなリアクションで驚いている一方、楓の声はいささかトーンダウンしていた。
「あっ」
そのとき渚は、夫婦がこちらの様子を遠巻きにうかがっていることに気づいた。旦那さんの手にはデジカメらしきものが握られている。
「あのー、よかったら撮りましょうか?」
「ああ、すいませんどうも」
(カメラ触るん久々やな……)
渚は緊張しながらもシャッターを切り、デジカメを旦那さんへと返した。
「彼氏彼女でツーリング? 素敵ねえ」
品の良さそうな奥さんが、首に巻いたスカーフに触れながら言う。
「いやいや、姉弟です姉弟」
胸の前で手を左右に振り否定した渚は、姉の方を振り返る。少し距離を置いてそのやり取りを見ていた楓が、ぎこちない笑みを浮かべて近づいてきた。
「どうもどうも。何というか……雰囲気のあるところですな」
「えーと、いつ本物の熊が出てもおかしくない環境ですよね」
言葉足らずな姉をフォローするように、渚は夫婦に投げかける。
「そうだよね。まあでも滅多に出るもんじゃないし、出たからといって必ず襲ってくるわけでもないからね」
身長は姉弟とさほど変わらないものの、えらくガタイのいい旦那さんは鷹揚に答えた。
「ふふふ。旦那ね、昔ヒグマと出くわしたことがあって……」
「「ええっ!?」」
姉弟の口から同時に驚嘆の声が飛び出す。その反応にも慣れているのであろう、旦那さんは得意げに語りだした。
休日に一人で登山をしていたとき、登山道の脇からヒグマが姿を現した。距離は七、八メートルぐらい。向こうも驚いているようでしばし睨み合っていたが、自分は脚を広げて仁王立ちになり、肩をいからせ、ゆっくりと両手を広げた。絶対に目を逸らすまいと睨み続けていると、やがてヒグマの方が去っていった。
「背を向けなかったのがよかったんだろうね、きっと」
「逃げずに対峙するって、めちゃくちゃ肝が据わってますよね。わかってても逃げてまいますよ、普通は」
「いや、単に脚がすくんで動けなかっただけだよ」
旦那さんが両膝を揺すると、その場の全員が同時に吹き出した。
「そもそもこうして賑やかにしてると、熊の方から逃げていくからね。どちらかといえばスズメバチの方が恐いよ。ハチは音に反応するから」
「ああ、向こうの看板にも書いてありましたね」
談笑もそこそこに、姉弟はその場をあとにした。来た道を今度は北向きに走る。
「もしもな、もしもの話、あの場所で襲われとったら……カブで逃げきれるんやろか?」
楓は神妙な口調で呟いた。例の夫妻の登場によりそれまでの警戒心がプツリと途切れ、すっかり話に夢中になってしまっていた。
再びカブに跨ったことで、それまでの緊張感が蘇ってくる。
「どうやろな……」
ヒグマの走る速さは五十ないし六十キロに達するらしい。十馬力にも満たない、しかも大荷物を積んだカブの機動力など知れている。トップスピードならこちらに分があるとしても、そこへ達するまでにやすやすと捕まってしまうのではないか。
「連中が本気で襲ってきたらまあ無理やろな」
渚は自分なりの結論を口にした。
「本気って?」
「単に威嚇してるだけなんか、それとも俺らの命を取りに来てるんかってこと」
「やっぱそうやんな。いかにウチの運転技術をもってしても、こんな小っちゃいエンジンやったら」
「……姉貴ってそんなにバリバリ伝説やったっけ?」
「フルバンク停車なら二、三回やらかしたで」
「は? フル……?」
「次の休憩んとき調べてみ」




