第三日 小樽・札幌 3/3
背後に位置していた太陽が、徐々に西の空へ吸い寄せられていく。
道の駅を出てからというもの、二人は無数のトンネルに行き合っていた。
「海沿いの長いトンネルを抜けるとトンネルだった。そのトンネルを抜けるとまた、トンネルだった。そのまたトンネルを抜けるとまたまた――」
「別に絶望する必要はないやろ」
「俺トンネル嫌いなんよ」
「ウチも好かんわ。特にトラックとかやかましいバイクがおるトンネルは――」
そのとき計ったように、進行方向の出入口から大型のトラックがトンネル内部に進入してきた。ディーゼルエンジンから放たれる轟音は、トンネル内を反響しつつ広がっていく。この世ならざる者の叫び声にも似たその鳴動に、姉弟の鼓膜はひっきりなしに振動する。渚は唇を曲げたまま前方を睨み、出口に至るのをひたすら待った。
やがてトンネルから脱出し、二人は大音響から解放された。楓は一瞬だけ背後を振り返る。
「暗くて狭くてやかましくて……地獄っていうんはこういうとこなんかもしれんな」
無限のように連なるトンネル群を走破し、道は幾分のどかな様子になった。今夜の寝床も近い。
「姉貴はキャンプ経験どんだけあるん?」
「ビリーズブートキャンプぐらいやな。嘘やけど」
「俺はパワプロのキャンプならやり込んだんやけど」
渚の心の隅の不安が徐々に膨らみだす。
「つまり二人ともキャンプしたことないわけやん。どうしよ」
アウトドアらしいアウトドアといえば、渚は臨海学校でカレーを作り、バンガローに泊まったのが最後だ。そういえば、楓が持って来たというテントをまだ一度も見ていない。
「まあ何とかなるやろ」
「なるんかな……」
懸念を抱えたまま暑寒海浜キャンプ場にたどり着いた。
「これが……」
キャンプ場というものは人里離れた山奥にあるというイメージがあったが、どうもそうとは限らないようだ。
走ってきた国道の脇、海岸の手前の広場に水道とトイレが設けられている。管理者もおらず出入り自由、コンビニまで一キロという無料キャンプ場だ。先客は五、六組で、きっとこれは空いている方なのだろう。
駐車場らしきスペースの隅へカブを停めると、先ほどよりも潮の匂いが強く感じられた。渚はグーグルマップを開き現在地を表示する。
「すごい名前やなこれ」
「北海道の地名って、アイヌ語に適当な漢字を当てたんが多いんやて」
「どういう意図でこの字を選んだんやろ……」
そんなことを考えるより先に設営を済ませるべきだった。
輪郭のはっきりした赤い太陽が、海の向こうを同じ色に染め上げている。
「テントって……」
「これな」
楓が指したのは細長い黒のビニール袋だった。ハンターカブのシートと巨大リアボックスの間、わずかなスペースにロープで固定されている。
「やっとこさ出番やわ」
袋の中からは円筒状の物体が二つ出てきた。
「とりあえずウチがこっち張るから、アンタも同じようにやってみ」
先客に会釈をしつつ、空いているスペースにテントを運ぶ。楓は巾着になっている包みを開け、中身を取り出した。
「とりあえず一番でかいやつを綺麗に広げてみ。ちなみにこっちは二重構造のテントで、アンタのは一枚物やからな」
「ん? こっちの方がグレード下ってこと?」
姉のものを借りている身である以上、ここで文句は言えまい。
「で、次にポールを伸ばす」
幾重にも折りたたまれたそのプラスチックのパーツには、何となく見覚えがあった。
「こういうの何ていうんやっけ……」
「三節棍?」
「それな」
二本のポールを伸ばすと、それぞれが渚の背丈を軽く上回る長さになった。
「テント本体の対角線上にスリーブ付いとるやろ? そこに通す」
「スリーブ?」
何のことかわからなかったが、確かにテントにはポールが通るであろう袖が付いている。
「そうか、これを張ることでテントを支えるんか」
楓を真似て作業をしているうちに徐々に要領を摑めてきた。思っていたよりシンプルな構造だ。
「そう……ここがちょっと厄介なんやけどな」
楓は本体の四隅に付いているピンのひとつにポールの端を差し込み、百八十度移動して逆サイドに回った。ポールを曲げ、もう一方の端もピンへねじ込む。
「おおっ……」
今まで平らだったテントが、ここで初めて立体となった。渚は立ち上がり姉の方へ歩み寄る。楓はもう一本のポールも同様に本体と接合し、小ぶりだが立派なテントが立ち上がった。
「で、こっちの……なんちゃらシートをかぶせて完成」
脇に置いていたシートの四隅を、本体の四隅にフックで固定する。
キャンプ未経験というわりには、終始淀みのない手際だった。
「姉貴きさま この設営やり込んでいるなッ!」
「答える必要はないこともない」
どうやら買ったテントを近所の公園へ持って行き、何度か練習したらしい。設営ができずにキャンプ断念、という最悪の事態はこれで回避できた。
「おろ?」
渚はキラリと光るものが地面に落ちているのに気づいた。
「これはどうするん?」
手に取ってみると、渚のテント一式にも含まれていたL字型の細い金属だった。
「あ、そうや……これで地面に固定せなあかんかった。トンカチは持って来てへんから、そこらに落ちてる石で済ますつもりなんやけど……」
二人して周囲を見回すが、海辺というロケーションのためか手頃な石や岩は落ちていない。
「どうしよ? そこらの人から借りてこよか」
「いやいや、ええわ。今日は風も強ないしだいじょうぶ……多分」
楓はいまひとつ自信なさげなわりに、渚の申し出を即座に却下した。
「あっ……」
ふと海へ目を遣ると、今まさに太陽が沈もうとしているところだった。ほかのキャンパーも砂浜へ降りて、燃えるような夕日を眺めている。
「姉貴、ちょっと写真撮らして」
作業を中断した渚は、波打ち際の方へ吸い寄せられるように足を進めた。楓も水平線へと目を向けあとに続く。凪いだ海面は太陽を映し込み、辺り一面が茜色に染まっている。
気づけばキャンプ場の全員が一様に海へ向かい、沈みゆく太陽を見つめていた。ソロキャンパーはもちろん団体客も言葉少なになり、一種の連帯感に似たものが砂浜を包む。
「旅人になれた気ぃするわ」
「この夕陽はむしろ暖かいけどな」
確かにラーメンを食べ損なったものの、もしどこかで食べていたらこの燃ゆる落日も拝めなかったかもしれない。それどころか、暗くなって設営作業に多大な影響が出ていたことも考えられるのだ。結果オーライというべきなのだろう。
海の向こうへと陽は沈み、辺りは徐々に夕闇が濃くなっていく。
急ぎ足で引き返した渚は、残るテントに取り掛かった。姉がしていたようにポールの一端をピンへはめ、回り込んでもう一方を手に取る。
「あれ? これで合うてる?」
ポールとピンの距離がずいぶん開いていて、差し込むどころか両者が触れ合うことすらない。
「どうなってんのそれ……合うてるはずやけど」
「こっちはテストしてへんの?」
「ああ。構造は同じなんやから、向こうが張れたらこっちもだいじょうぶやろ思て」
そうしている間にも、日没後の大地は分刻みに暗くなっていく。
(ヤバい……真っ暗になる前に何とかせな)
右手にポール、左手に本体の端を握り、どうにか両者を引き合わせようと徐々に力を加えた。それらの間隔は徐々に狭まっていくものの、放物線を描くポールはますますしなり、テント本体はピンと張り詰めて軋んでいる。
「ちょい待ち、いっぺん戻してやり直そ」
「いや、もうちょっとではまりそう……」
姉の制止を無視して、さらに力を込めたその時。
――ベキッ。
「「あっ……」」
プラスチックのポールがあっけなく折れた。
「……ごめん」
視線を落としたまま謝罪の言葉を口にする。
黙って腰を上げた楓はゆっくりとした足取りでカブに向かい、リアボックスから何かを引っ張り出して戻ってきた。
「アタシの母がよく言ってたの。強い意志とガムテープがあれば、この世にできないことなんて何もないって」
持っていたものを投げてよこす。
「それで補強したら使えるんちゃう?」
「……おう」
長めに切ったガムテープを亀裂が入った部分にグルグルと巻いて補強する。
「見た目はあれやけど……」
「実際張ったときに強度がどうなるかやな。とりあえず無事な方でもういっぺんやってみ?」
折れたポールはひとまず置いておき、もう一本のポールを立てにかかる。渚は最前のプロセスを繰り返した。だがやはり、一方をはめてももう一方がうまくいかない。
「どうなってんねん……不良品か?」
ポールが長すぎるのか本体が小さすぎるのかはわからないが、とにかく寸法に誤りがある気がしてならない。
「安物には間違いないけど……んん?」
テント全体を眺めていた楓が足を止め、ポケットから何かを取り出した。
「おっ……」
カチッという音とともに、テントの一部が円く照らし出される。光は白く強烈なもので、テント自体の緑色がもうそれとはわからないほどだ。
「ちょっと明るすぎやな」
「何なんそれ」
「アウトドア用ヘッドライト」
ベルトで頭に装着した楓は、渚の方へと顔を向けた。
「うわ、眩しっ!」
近距離から発せられる白色光線をまともに浴びて、渚は反射的に体を丸めた。
「なるほど、不審者撃退にも使えるかもな」
「俺で試すなや!」
楓はライトをまたテントの方へ向ける。
「やっぱこれやな。ほら、ここでたわんでる」
「え?」
白く切り取られたようなその部分へ顔を近づけ、光で眩んだ目を凝らす。確かに楓の言うとおり、テントの生地がシワになっていた。
「ここで縮こまっとるやつを伸ばしてやれば、ちゃんと張れるんちゃう?」
シワの出ている部分を伸ばし、生地が弛まないようにポールを曲げていく。今度はあっさりとポールの先端がピンに収まった。
「なるほど」
これでポールの一方が張れたわけだが。
「補修した方がどうなるかやな」
祈るような気持ちで、一本目よりもさらに慎重に作業を進める。
「どんな?」
「……一応張れたわ」
折れた箇所が歪な形になっていないこともないが、どうにかテントとしての体裁を保っている。大きく息をついて空を仰ぐと、水平線の一部を除き夜の色が広がっていた。
「よし、買い出し行こか」
テントの中へ荷物を移し、二人は再びカブに跨った。
「うっわ軽っ!」
楓が歓喜の声を上げる。推定十数キロの軽量化が施されたのだ。その差は走行に歴然と現れる。
(でも三日前までは、これが当たり前やったんよな……)
セイコーマートのやたら広い駐車場へカブを停める。
「こんな田舎町やともうコンビニしか電気点いてへんな」
「町というよりむしろ集落……」
地元民の耳に入ると気分を害するだろうか、と付近を見回しながら小声で話す。
「あー、カツ丼ないわ……」
弁当の棚の前で肩を落とす楓。
「でも一個だけ残っとるやん。それ豚丼?」
渚が伸ばした手がそのパッケージに届く前に、楓の両手が豚丼をがっちりホールドしていた。
「アンタ昨日カツ丼食っとったやろ。これはウチがもらう」
「大した食い意地やわ、ほんま」
キャンプ場へ戻ったときには真っ暗で、楓のヘッドライトを頼りにテントまで戻った。楓は荷物の中からランタンを出しスイッチを入れたが、安物なのか十分な明るさとはいえない。ほかのキャンパーの焚き火がやけに眩しく見える。
「焚き火とかせえへんの?」
「んー、したくないわけちゃうけどな」
明らかに百均のものであろう、二十センチ四方の小さな座面のみの折りたたみ椅子に向かい合って座る。
「あれはあれで面倒らしい……風情はあるやろけど」
「ほーん」
「キャンプ飯とかも憧れるけどな……とにかく荷物がドカッと増えるわけやし、旅先で都合よく食材が手に入るか、この季節はそれを腐らせずに保てるかって問題もあるしな」
ガサガサと音を立て、楓は買い物袋から豚丼を取り出した。
「あ、アンタ先食ってええで」
「え?」
「昨日ウチがカツ丼一口もろたやろ? だからアンタも一口」
「……じゃあ遠慮なく」
渚は丼を受け取り蓋を開ける。焼けた豚の油ととろりとしたタレの匂いが立ち上った。豚肉とごはんをまとめて箸で摑み、標準的な一口分をいただく。ごはんを覆う豚のみを限界まで口に詰め込もうかと一瞬考えたが、墓場までの恨みを買いそうなのでやめた。
「あー旨っ……」
「はいそこまで。あとはウチのもん」
それ以上食べるつもりなど毛頭なかったのに、丼をひったくられた渚は鼻の頭に皺を寄せた。
「おお、旨いな……いやはや、これはこれは……」
ダイソンの掃除機のように飯と豚を飲み込んでいく姉の姿に、渚はげんなりして空を仰ぎ――その姿勢のまま硬直した。
「渚、アンタ食わへんの? おっ……」
弟の視線を追った楓もまた、天を見上げたまま言葉を失う。
頭上では無数の星々が輝いていた。雲も多少出ているため、満天の星というには足りない。だが、姉弟の思考を停止させるのには十分なものだった。
二人の実家も楓の住むアパートも、都会というほどではないにせよある程度の街中に位置している。
普段このような光景にはまずお目にかかれない。
「ネットとかでよくあるやんか、カメラをいじったりあとで加工したりしたみたいな……」
「ああ、そういうのとはちゃうよな……」
光の加減の不自然さや、わざとらしい煌びやかさがない。自然の中で、自然な星空に出逢えたことに感謝した。
「あかん、冷めてまう」
楓は残りの豚丼を頬張りながらも、その眼差しはずっと上へ向いている。
「んん? さっきより旨なったわ」
「ほんまかいな」
鼻で笑いながら、渚もベーコンおかかのおにぎりにかじり付いた。
「おっ……マジで旨いな」
意識が星空に向かっているはずなのだが、何故か米や肉の風味を強く感じた。未知の回路が開いたかのように味覚が鋭敏になっている。
そんな奇妙な感覚に浸ったまま、二人は弁当やおにぎりを存分に味わった。
「今までで一番旨いコンビニ飯かもしれん」
楓は感慨深げに呟いた。
「せやな……」
今朝は究極のイクラをいただき、今夜は至高のコンビニ飯にありつけた。
一通りの食料を腹に収めた楓は、ボストンバッグを枕にして地面に寝転んだ。
「最高やなぁ。このまま寝てまおか」
「歯ぁ磨きや」
「んー……」
返事ともつかぬ返事をした楓は、本当にそのまま寝入ってしまうかのように見えた。渚も食事を終え、改めて空を見上げていたところ。
「おぶあぁ!!」
仰向けになっていた楓が、えげつない悲鳴とともに弾かれたように立ち上がった。
「食後の運動?」
「何か……何物かにこめかみかじられた……」
引きつった顔をして目を見開く楓。その瞳にランタンの淡い光が映っている。
「ハブとかサソリとかフェイスハガーやなくてよかったやん」
「……ちょっとトイレ」
ネズミだろうか。渚は周囲の地面を懐中電灯で照らしてみたが、特に何の生きものも見当たらなかった。
トイレの方向から白い光が揺れながら近づいてくる。楓の表情は先ほどよりもさらに険しいものになっていた。
「トイレめっっっちゃくさいわ」
「そんなに?」
「ドラゴンの死骸を一か月放置して鮒ずしと和えたみたいなにおい」
「鮒ずしもったいないやろ」
あれも好きな人は好きだときく。
「先にドラゴンにツッコめや……まあタダなんやしあんま文句は言われへんけど」
最前の生きものを警戒してか、楓は立ったまま再び天を仰ぐ。
「キャンプ椅子みたいなんあればなあ……」
「ああ、あの背もたれ付いてるやつ?」
相応の体積・重量があるだろうし、バイク旅には厳しいだろうか。
「……ちょっと寒なってきたな」
強く吹いているわけではないが、渚の頬を撫でる風はひんやりしている。
「夜中はもっと冷えるんやろか」
日中に山間部を走った際、思いのほか冷たい空気にさらされたことを思い出す。
「んー、すでに結構気温下がっとるしな。まだ冷え込むんちゃう?」
そのとき、ポケットに入れておいたスマホが鳴り出した。
「私だ」
『アンタ何で連絡して来おへんの? だいじょうぶなん?』
母からだった。
「ごめんごめん。いろいろ忙しくて――」
通話を終えた渚に楓は告げる。
「疲れたしもう寝るわ」
「まだ九時やで?」
「そうは言うてもやることないしなあ。もう星空は十分堪能したし」
確かにこの状況では、食べるか星を観るか寝るかしかない。電波は十分入っているが、スマホをいじるのはどうも違う気がする。
「てなわけでおやすみー。あ、ランタン消しとってな」
姉はテントに潜り、間もなくヘッドライトの明かりが消えた。
本当に寝てしまったらしい。
「俺も寝るか……」
そう呟いてみたものの、この星空を前にしてはやはりもったいない気がする。小さく届いてくる波の音に耳を傾けながら、渚は首が痛くなるまで星を眺めていた。




