第四日 オロロンライン 3/4
街の中心部から少し離れた、ごく普通の住宅街にさつき湯はあった。暗いガレージにはすでに、道外のナンバーが付いたバイクが数台並んでいる。なるべく隅の方にカブを停めて建物へ入った。
「こんにちはー」
「はーい」
眼鏡をかけたおばちゃんが顔を出したのと同時に、タバコのにおいが鼻をついた。おばちゃんは実にリラックスした雰囲気で、建物の調度もあまり宿泊施設のものには見えない。赤の他人の自宅へいきなり踏み込んでしまったような奇妙な感覚に、渚は一瞬たじろいだ。
「だいじょうぶ?」
おばちゃんに怪訝そうな視線を向けられ、歩み寄りながら話を進めようとした。
「どうも、先ほどお電話した者ですけど――」
「ちょっとちょっと、靴脱いでもらえる? 土足禁止だから」
「えっ?」
おばちゃんが指差す足元を見ると、床のタイルの色が途中で変わっている。三和土のような段差が一切ないのだが、どうやらそこが内と外を隔てる境界らしい。
(なるほど、バリアフリーか)
適当に解釈した渚は、言われたとおりスリッパに履き替える。宿帳らしき大学ノートに氏名や連絡先を書き料金を支払ったのち、このライダーハウスについての簡単な説明を受けた。
建物の一階にはリビングや台所、ランドリーがあり、二階が二段ベッドの並ぶ大部屋になっている。ベッドの上段は使わないように、また飲食は一階で済ませること。隣の建物には飲み屋と銭湯があり、わりと遅い時間まで開いている。ここの特別なルールとして、夜九時に宿泊者全員が一階へ集まり会合を開く、というものがある。それぞれ自己紹介をしてから歌を歌い、集合写真を撮ったのち、それぞれのペースで飲み食いしたり眠ったりするとのこと。
一通り話し終えたおばちゃんは未だ小刻みに震えている渚を見て、労わるように付け加えた。
「とりあえずお風呂入ってきなさいな。うちのは結構熱いからね、温まるよ」
一度荷物を置くために、軋む階段で二階へ上がる。そこには二段ベッドがずらりと並んでおり、七、八名の宿泊客が思い思いに過ごしていた。それほど混んでいないことに安堵する。
「あ、どうもこんにちは」
「こんにちは」
どこに陣取ろうかと見回しつつ、彼らと軽く挨拶を交わす。使うベッドを指定されたわけではないので、隅の適当なところに荷物を下ろした。
「しかし屋根のあるとこで寝れんのはありがたいな」
渚はベッドの下段に身を滑り込ませ、そこに置かれた枕に後頭部を預けた。それにより寝床に気流が発生し、馴染みのないにおいが渚の鼻先を掠める。
少し上体をよじり、そっと枕を嗅いでみた。
「んっふ」
その様子を見ていた楓が、「どうなん?」と目で問いかける。渚はその回答として、顎をしゃくらせ猪木の顔真似を返した。
「何やそれ」
楓もまた枕のにおいを確認する。顔をしかめた姉も同じく猪木の顔になった。
隣の銭湯でおばちゃんの言葉どおりの熱い湯に浸かると、全身の鳥肌と震えがようやく止まった。体が温まるまでゆったり入浴したのち、洗濯物をまとめる。少しして戻ってきた楓のものと併せて、一階のランドリーへ持ち込んだ。
「なあ、飯食いに行かん?」
洗濯機へ百円玉を投入するなり楓は言う。
「今から?」
「かなり小降りになっとんよ。おばちゃんが言うてた飲み屋に行くんもアレやし、外で食べた方がええんちゃう? 腹減ったやろ?」
「んー……」
温まった消化器も本来の機能を取り戻したのか、渚は急に空腹を覚えた。思えば昼に海鮮丼を食べて以降、ほとんど走りっぱなしだった。確かに飲み屋よりも定食屋だ。
「店の目星はついとるん?」
「おうよ。こっからカブで五分」
小雨の中カブに跨り、その「はがね亭」という店に向かう。店の外観からはどういった系統なのか分かりづらかったが、ウニやタコといった海鮮がメインのようだ。
「姉貴、これちょっと高すぎへん?」
メニューをめくっていると、バフンウニやらムラサキウニなどといった高級品が目につく。
「いや、わりと手頃なもんもあるで。これとか」
楓が開いたところには、ホッキ貝なるものを使った料理がいくつか並んでいる。
「ホッキ貝って?」
「……さあ?」
検索したところ、アサリを十倍ほど大きくしたような二枚貝らしい。
「ウチはこのホッキフライで」
「俺もそれにするわ」
提供されたそれは、一瞬トンカツと見間違えるようなものだった。ホッキ貝はカツ用のロース肉ほどの大きさがあり、揚げてから四つか五つにカットされていた。
「あ、旨いわ。旨いんやけど……何やろこの違和感は」
「ああ……貝味のトンカツ食っとるみたい」
味も歯応えも貝のそれだが、どうしても見た目に引っ張られてしまう。
そこで渚はふと思った。
「そういやさ、カツとフライって何が違うん?」
「肉の場合はカツ、魚介類や野菜はフライっていうだけやろ?」
「ほんまに!? 全然知らなんだわ」
「違いはなかったはずやで。両方ともパン粉付けて揚げるやろ」
ホッキを平らげた二人が外へ出ると、今日一番というほどの雨がざんざん降っていた。
「まだ降るんかい!」
店先でしばらく待ったが止む気配はなく、カッパを着込んで宿へ直帰した。
洗濯の終わった服を片した二人は、自分たちのベッドの前で明日以降のルートについて検討していた。楓は自らのポニーテールの毛先を手でいじりながら問いかける。
「なあ、食いもん持ってへん?」
「プリングルスがちょっとだけ残っとるけど。そっちは?」
「落花飴が五個ぐらい」
渚も寝るまでにもう少し何か入れたい気分だったが、これだけではいささか足りないだろう。
「……さっき一階で弁当みたいなん売ってへんかった?」
「ああ、パックに入ったやつやろ?」
惣菜が詰められたプラスチックのパックが、リビングのテーブルにいくつか並んでいた。
「ちょっと見てみようや」
連れ立って一階へ降り、おばちゃんに声をかけた。
「ああ、それ? 二百円だけど食べる?」
腹にはまだホッキのフライが残っているため、一人一個というのはさすがに多い。
「じゃあ一個いただきます」
パックにはハンバーグやスパゲッティ、餃子といったおかずのみが詰められ、値段の書かれたシールが貼られていた。楓が二百円を払い、適当な椅子へ腰を下ろした。長いテーブルはごく一般的なものなのに、その周りを囲む椅子はスエード調で、深い紅色をしている。渚も姉の隣に座り、卓上の割り箸を手に取った。
「先にハンバーグ割るで」
容器を開けた楓は、一個のハンバーグを箸で二つに分け、その一方を口へ運んだ。
「あっ、意外といけるわ」
渚はテーブルの下で姉の脇腹を小突く。少し離れた事務机に座り、テレビを眺めていたおばちゃんが一瞥をよこした。楓は二つある餃子の一つを口に放り込み、パックを渚の方へ滑らせる。
「もうええわ。あとアンタが食べ」
「おう……」
満腹なのか実は不味かったのか、はたまた弟想いなのかは分からなかったが、渚もハンバーグにかじり付いた。非常に美味しいということはないものの、決して不味くはない。これで二百円なら安いもんだな、と思いつつ餃子にも箸を伸ばす。餃子もスパゲッティも完食し、良い具合に腹が満たされた。
「あんたたち、姉弟にしちゃ仲良いのね?」
それまで静観していたおばちゃんが唐突に口を開いた。
「あ、いえ……あれ、姉弟って言いましたっけ?」
「これでも長いこと客商売してるからね」
カラーレンズの奥の目を細めるおばちゃん。
「そもそも、さっき宿帳書いてもらったじゃない? 苗字が同じだけど夫婦っていう雰囲気でもない。あと言葉のイントネーションとか箸の持ち方も同じなんだから、姉弟しかないでしょ」
(このおばちゃん、できる……!)
そのとき、玄関のドアが開く音がした。
「どうもー、遅くなりまして」
「はいいらっしゃい」
新たな宿泊客のようだ。渚は自分と同じミスをしないかと注意を向けたが、玄関の兄さんはきちんとスリッパに履き替えて室内に入ってきた。
「あ、どうもこんばんはー」
「こんばんは」
独特なイントネーションの兄さんと目が合い、渚は軽く頭を下げる。
「さ、上戻ろか」
姉に促され、渚は二階の定位置へと引き返した。




