第四日 オロロンライン 4/4
午後九時。
照明が落とされた一階のリビングでは、天井と卓上ふたつのミラーボールがくるくると回転し、壁や家具を色とりどりの光で円く切り取っている。
「はい、皆さんお集まりのようですしそろそろ始めたいと思います。このさつき湯は日本最北のライダーハウスです。営業は毎年ゴールデンウィークから九月いっぱいという短い期間なんですが、多くのライダーさんに泊まっていただき、今年で三十五周年を迎えました。このあとみんなで集合写真を撮るのですが、その写真も三十五年間、欠かすことなく続けています。過去には殴り合いの喧嘩が起こったり、高価なカメラが失くなったりして警察のご厄介になることもありましたが、おおむね仲良く楽しくやってきています――」
ハンドマイクのおばちゃんは声を弾ませしゃべりまくる。
この日の宿泊者は姉弟を含め十一名。ミラーボールに照らされるそれぞれの顔にも、唐突に始まったこの宴に対する興奮と緊張が表れている。
「はい、じゃあ自己紹介タイムと行きましょう。最初は……あなたでいい?」
おばちゃんから最も近い椅子に掛けていた、渚と同年代の男子が指名され、マイクを受け取った。
「どうも、渡辺です。夏休み中の学生で、埼玉から来ました。えー……北海道は初めてなんですが、案外寒くて驚いています」
「はいみなさん拍手ー。じゃあ時計回りに行きましょうか」
「長野から来た柳沢です。北海道はもう四回目か五回目なんですが――」
二番手は渚の右隣に座るおっちゃんだった。つまり次は渚の番となる。
(うわ、やべえ……)
先ほど考えていたはずの台詞が頭から霧散していく。
「大阪から来た若葉といいます。えーっと、僕が弟でこっちが姉です。泊まりがけのツーリングは初めてで、慣れないことばかりですが北海道を楽しんでます」
少し予定とは違ったもののそれっぽい言葉を並べた渚は、ささやかな拍手を受けながらマイクを楓に手渡す。
「えっと、若葉の姉の方です……。弟がいつもお世話になっとります」
卓を囲むうちの数名が吹き出したのに続いて、軽いツッコミが入る。
「何の挨拶だよ」
「初対面初対面!」
「えー……小樽から札幌に寄って、オロロンラインを走ってきたんですが……途中熊にビビリっぱなしでした。それで……そう、明日は宗谷岬へ行く予定です」
無事自分のターンをやり過ごしたかに見えた楓は、左隣の人に渡すマイクを派手に落っことした。
「うわっ、すいません!」
それによりまた小さな笑いが起きる。楓は慌ててマイクを拾い上げ、隣とおばちゃんに向かい頭を下げた。
「さっきのあれ何やねん」
「ウケたやろ?」
未だ硬い表情のまま口だけで笑う楓。
「まあウケたんは確かやけど……もし俺らの並びが逆で、姉貴が先やったら何て言うつもりやったん?」
気にかかったことをぶつけると、楓は渚を指差し言った。
「こいつは弟兼サイクロン号です。水をかぶると変身します」
その後は滞りなくマイクが一周し、自己紹介は終わった。
「はい、ではみんなで歌を歌います!」
おばちゃんはそう宣言し、ステレオのスイッチを入れた。全員起立し、一か所に固まるよう指示される。チェックイン時の説明でも歌については触れていたが、皆で歌うということ以外は何も聞かされていない。狼狽している間にも、おばちゃんは歌詞を書いた模造紙を壁に張り、ステレオからイントロが流れ出した。
松山千春の「大空と大地の中で」。あとで調べたところによると、半世紀も前の曲らしい。
「口パク一択やな」
渋い顔をしているところを見るに、姉も知らないようだ。
伸びやかなブラスパートのあとに歌が始まったものの、人数に比してどうも声が小さい。そもそもここにいる人間の過半数は二十代のようだ。この曲を知っている方が少ないだろう。
(口パクもやむをえんな、これは……)
だがそれは早合点だった。カラオケ版ではなくオリジナルのボーカルが入っている音源を流しており、シンプルでゆったりしたメロディは耳に優しく馴染む。初めて聞いたであろう者も、その気になれば十分歌えそうだった。
即席の合唱隊の中では誰がどのように歌っているのかなどほとんどわからない――というより気にする必要もない。渚も気が大きくなり、途中から徐々に歌唱に参加していった。歌が終わるころには、全員の歌声は始めより何倍も大きくなっていた。
最後のロングトーンがフェードアウトしていくとともに、誰からともなく拍手が起こる。すかさずおばちゃんがカメラを構えた。
「えー、みなさんそのまま! 写真を撮りますからね、その良い笑顔のまま……はい、チーズ!」
姉弟はぎこちない笑顔でポラロイド写真に収まった。
「はーい大変お疲れさまでした! ここからはもうご自由に、しゃべる人はここで、寝る人は二階へ、食事や入浴は隣でどうぞ。消灯は十一時ですのでお忘れなく」
(ふう、終わった……)
これで解散になるのかと思ったが、ほとんどの宿泊者は元の席に戻った。自分たちはどうしようかとまごついているうちに、いったん二階へ上がった人が引き返してきた。
「さあさ皆の衆、飲も飲も」
その手に提げられたビニール袋には、酒らしき缶やビンが入っているようだ。
ほどなくして様々な飲み物やつまみ、人数分のグラスが卓上へと並べられた。
「ほら、そこの姉弟も」
あれよあれよという間に二人も元の椅子へと誘導された。
「弟くん、ビールでいい?」
右隣のおっちゃんが缶ビールを構える。
「あーすいません、どうもどうも」
考えるより先に体が動き、グラスを手に酌をしてもらった。テーブルに置かれた缶を手に取り、おっちゃんのグラスへと注ぐ。
「おーありがと……では乾杯」
「かんぱーい」
おっちゃんの右隣の兄さんともついでにグラスを合わせたのち、一息で三分の二ほどを飲み干した。
先月二十歳を迎えたばかりの渚だが、アルコールに対して人並みには免疫がある、と自分では思っている。
左側が妙に静かだったのでそちらの様子をうかがうと、背筋を曲げ不安の色を滲ませた楓と目が合った。
「なあ、その代金とかどうなっとんの?」
「ん? ああ、どうなんやろ」
姉は広げられた飲食物には触れず、卓の上で組んだ手をもぞもぞと動かしている。
「あとで適当な金額払えばええんちゃう?」
まさかビール一本につき千円取られるとかいうことはないだろう。
そのとき、テーブルを挟んで向かい側に座っていた人物が立ち上がった。明るい茶髪をシニヨンにしたお姉さんで、女子はおばちゃんを除きこの人と楓しかいない。楓の左隣の兄さんに歩み寄り話しかけているが、喧騒のせいで内容までは聞き取れない。間もなくその兄さんが立ち上がり、お姉さんは空いた席へと腰を下ろした。どうやら席を代わってもらったようだ。
お姉さんは座るなり卓のチューハイを開け、楓へ笑いかけた。
「どうもー、飲んでますか?」
「ひゅい!?」
予想だにしなかった展開に驚く渚の横で、楓はどこから出たのかわからない掠れた声を上げる。
「ふふ、おしゃべりしたくて隣の人に無理言っちゃった。ほら、女子のバイク乗りってやっぱり少ないでしょ? えーと、若葉さんだっけ?」
「あ……はい、はい。若葉は私です」
あからさまに取り乱して不自然な受け答えをする楓。その目が右へ左へと泳いでいる様が、背後の渚にも容易に想像できた。
「アタシ松上。よろしくー」
彼女はそう言いながらチューハイの缶を差し出す。慌てた楓はそれを制するように両手を胸の前へ掲げた。
「あ、ウチ――私は酒はちょっと……」
「ウチ!? 確か大阪だっけ? 自分のことウチっていうの?」
目を見開いて大げさなリアクションを取る。すでにそこそこの量を飲んでいるらしく、素振りは酔っぱらいのそれと同じだ。
「えーと、その……あんまり人前では言わんようにしてるんですけど……」
「関西ではわりと使うんですよ、ウチって」
姉をフォローしてやろうというのが半分、たまには女子と話したいのが半分という動機で、渚は横から口を挟んだ。
「あ、そうなんだ! 弟くんもウチとか言うの?」
「いや、男は言いませんけど」
彼女もすでに入浴を済ませているようで、スッピンの顔には眉毛がほとんど生えていない。髪の色や話し方からして、普段は濃い化粧をしてそうだな、と不躾な想像をした。
楓が黙ってしまったので、渚は続けて質問する。
「えっと……松上さんはどちらからでしたっけ?」
「アタシ? アタシは名古屋から。フェリーが大変なんだよ、船の中で二泊しなきゃいけないの」
「二泊!?」
渚の大声に、楓が肩越しに振り返る。音量の調節が甘くなっているあたり、自分もすでに酔っているのかもしれない。
「そう、国内の航路で一番時間かかるの! もう自走した方が早いんじゃないかってぐらいでね! でもそっちはそっちでしんどそうで」
「へえ、姉貴知っとった?」
「いや、航路があんのは聞いたことあるけど……」
ほんのり赤みのさした顔で上機嫌に話す彼女とは対照的に、楓の反応は鈍く、声は小さくなっていく。
「あっ、飲み物忘れてた! アルコールダメならお茶で乾杯しよ?」
彼女がペットボトルに手を伸ばしたとき、楓はおもむろに立ち上がった。
「すいません、私かなり疲れてて……もう休みます」
「あ、うん……お疲れさま」
スッと頭を下げて階段へ向かう楓。それに気づいた二、三名が「もう寝るの?」「お疲れー」と声をかける。
楓は一度向き直って目を伏せたまま軽く腰を折り、二階へ引っ込んだ。
「お姉さんだいじょうぶかな? アタシ何かまずかった?」
心配そうな眼差しを向けられた渚は、首を横に振って答えた。
「いやいや、単に眠いだけだと思いますよ。今日も雨の中走ったし……家を出て四日目で、そろそろ疲れも溜まっとるんでしょう」
口ではそう言ったものの、この場を離脱した理由が言葉どおり疲労によるものか、あるいはこの宴席から逃れたかったからなのか、判断がつきかねた。
「楽しんどるかな、ご両人」
いつの間に回り込んでいたのか、背後から声を掛けられた。坊主頭に近いスキンヘッドのおっちゃんが、顔をくしゃくしゃにして二人に笑いかけていた。
「あ、どうも! お陰さまで」
「楽しんでますーいい気分ですぅ」
そこで渚は、そのおっちゃんが先ほど酒やつまみを二階から持ってきた人物だと気づいた。
「このお代ってどうなるんですか? あとで集金とかですか?」
「まあ多少もらったりもらわなかったり……。お兄さんは学生さん?」
「はい」
「じゃあタダでいいよ。そっちのお姉さんは?」
「社会人ですー」
「なら千円ね」
「えーっ? じゃあアタシも学生。ねえ、アタシまだまだ学生で通用するっしょ?」
「千円ぐらい払いんさい」
そのやり取りに小さく笑いながら、渚は二人のグラスに酒を注いだ。だが間髪入れず渚のグラスにも注がれてしまい、その中身を飲み干す。
「学生さん、つまみもどんどん食いなよ。残したところで明日泊まる人らに食べられちゃうから」
「あ、はい……ご馳走になります」
その後も取り留めのない会話が続いていたが、渚は適当なところで切り上げて席を立った。おぼつかない足取りで階段を上がり、自分のベッドへと戻る。控えめにしようとは思っていたものの、周りから勧められるままにグラスを空け、気づけば結構な量を飲んでしまっていた。
「ふーい」
渚は隣のベッドに転がる姉を一瞥し、自分も体を横たえた。
「もうお開きなん?」
「起きとったんか。先に抜けてきた」
「もっとしゃべって来たら? ウチに構わず」
「いや、姉貴に構うつもりあらへんから。俺も疲れたんよ」
「ほーん」
楓は目を閉じたまま笑みをこぼす。
「姉貴、さっきのあれ、もうちょい何とかならんかったん?」
「……あれって?」
「松上さんとのやり取り、あまりに塩対応やったやん。自分が何か悪いことしたかな、ってちょっと気にしてはったで?」
姉は結局、つまみどころか飲み物にも一切手をつけなかった。
「……それは申し訳ない」
「長い距離走って疲れとるんはわかるけどな……」
楓は枕に敷いていたタオルの端を折り返し、それを目元と額へ掛けた。
「何というかな……初対面の奴らが集まって歌ったり騒いだりっていうノリに、もうついていけんくて……。あと自己紹介のとき、何か面白いこと言うたろかって仕込んだ小ネタがちょっとウケて、それで満足してもたっていうか……」
これ以上追及すべきか否か渚は一瞬迷ったが、気づけば口が動いていた。
「姉貴ってさ……そこまで人と話せへんかったっけ?」
「……」
渚自身も人付き合いが苦手だという自覚はある。姉弟そろって内弁慶な傾向があるのは確かだ。
だが今夜の――この旅での姉の様子を見ていると、どうにも違和感が抑えきれなくなった。
「俺相手やったらいつもどおりやのに、ほかの人としゃべる場面になるとやたら尻込みするやん?」
フェリーで世話になったバイク乗りや、ヒグマ事件現場での初老の夫婦との会話でもそうだったが、姉が他人との接触を敬遠しているのは明らかだ。渚といるときは頭に浮かんだ言葉を一切のフィルターも通さず話しているかのようだが、各地で出逢った人と接する段になると一歩か二歩後ろへ引き、その会話を弟任せにしてしまっている。初対面の人とやり取りするのが面倒なだけかと当初は思っていたが、事情はそう単純な話でもないようだ。
長い沈黙のあと、楓は観念したかのように口を開いた。
「アンタの言いたいことはだいたいわかるし、それが正しいと思う。でもな、ウチ自身にもどうしようもないんよ」
「……どうしようもないとは?」
「見ず知らずの人と話さなあかんとき、やたらと緊張してまうっつーか、その場から逃げたくなるっつーか……気心の知れた相手やったらわりとだいじょうぶなんやけどな」
「昔から姉貴も俺もそんなに社交的な方やないけど、それで支障が出るようなこともなかったやろ? 軽く挨拶とか世間話するぐらいやったら……」
「それは昔の話やろ。ウチが実家を離れて……もう五年以上か? その間、渚は普段のウチがどんなんか知らんわけやん?」
「普段っつうのは、帰省してきたとき以外のこと?」
「そう、大学とか会社でのウチのこと」
楓は神戸の大学に進学するタイミングで実家を出て、それ以降一人暮らしを継続している。
「そらひどいもんやで。気にすればするほど言葉が出てこんようなって、ちょっとしたミスを長いこと引きずって――あああ、トラウマが」
脳裏に浮かんだ悪しき記憶を消し去ろうとするように、楓は頭を左右に振った。顔に被せていたタオルがずれて目元が露出したが、姉は顔も目も真上に向けたまま振り絞るように言う。
「だから……これでも結構がんばっとるんやで?」
楓は顔全体をタオルで覆った。
「……」
渚はかける言葉が見つからず、何故自分は姉にこのようなことを言わせているのかわからなくなった。仰向けになり上段の床板を見つめていると、階段の下から数人が上がってくる音が聞こえた。
中綿がへたりきった布団を胸元まで上げて目を閉じる。落ち着いて考えを整理したいところだったが、疲労と酔いにより間もなく眠りに落ちてしまった。




