第三日 小樽・札幌 1/3
目が覚める少し前から、手足に違和感があった。やんわりとではあるが全身を拘束されているような感覚だ。
「んんっ……」
呻きながら首だけを起こすと、自分の体が寝袋にすっぽり収まっているのが見える。
「おう、おはよう」
楓はすでに起きていて、マットの上に寝そべり旅行ガイドを開いていた。
「おはよ」
慣れない手つきで寝袋の内側からチャックを滑らせ、外へと這い出す。
「めっちゃ腹減ってるんよ、はよ支度して飯行こ」
一晩眠ったことで全快したらしい。出航の夜以降まともな食事を摂っていなかった楓は、腹に手を当てながら体を伸ばしたり縮めたりしている。
「胃が空っぽすぎて面白い音するわ」
渚はそこまで空腹を感じていなかったが、姉に急かされて手早く準備を済ませた。
「つーかこんな朝早ようからやってる店ないやろ」
まだ七時にもなっていない。
「いや、この店は朝四時から開いとるらしいで」
「四時!?」
楓が掲げる冊子に顔を寄せると、確かにそう記されている。
「市場の中にある店なんか」
「海鮮を食うときは市場の食堂がコスパ最高ってどっかで聞いたんよ」
二人は荷物をまとめてスーパー銭湯を出た。
「うわ、降っとるやん」
窓から垣間見ただけではわからなかったが、白一色の空からは細かい水滴が舞い落ちている。
「でもこれぐらいやったらカッパ要らんやろ、近いし」
出発し倉庫が立ち並ぶ中をまっすぐ走っていると、途中から道に沿って運河が流れていた。
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○小樽
札幌からほど近い海沿いの港町。
かつては北海道随一の商都として栄え、日銀通りや色内大通りは「北のウォール街」と呼ばれていた。
大正末期に完成した小樽運河の周辺には、ノスタルジックな倉庫が立ち並ぶ。
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運河の終点まで進み、目的の市場に到着した。賑わう場内を通り抜けて食堂の戸を叩き、運良く二つ並んで空いていたカウンターに座る。注文を通したのち、渚は湯呑みの茶を啜った。
「思ってたより濡れたな」
「そやなー、カッパ着るべきやったかも」
そう言っている間にも、楓はすでに割り箸を割って右手に構えていた。姉はもともと落ち着きのあるタイプではないが、それにしてもそわそわしすぎではなかろうか。
「お待たせしましたー」
あまり待たないうちに、二人の前に鮭おやこ丼が並んだ。
「おおう……」
宝石のように輝く大粒のイクラがごはんを覆いつくし、その上に鮭の切り身が数切れ載っている。このような見事な海鮮丼をいただくのは、もしかすると初めてかもしれない。
鼻息を荒くした渚がスマホで写真を撮る横で、楓はすでに一口目を頬張っていた。その体勢で一瞬固まったかと思うと、ゆっくりと箸を置き、手で半面を覆う。
「うんんんまっ……!」
深く感嘆の息を漏らしたかと思うと、今度はすごい勢いで丼をかっ込みだす。グルメ漫画のようなリアクションに、渚は危うくスマホを取り落とすところだった。
「姉貴、もうちょい落ち着いて食わな」
「んー! んんー!」
姉はハイペースで咀嚼しながら、ジェスチャーで「早よ食え」と伝える。
「お、おう」
渚は丼の端に箸先を埋め、イクラとごはんを口へ運ぶ。
「……んん!?」
味の良し悪しに先んじて、まずイクラの歯応えに驚かされた。普段口にするイクラと弾力感がまったく違う。上下の歯が当たるだけでは足りず、きちんと噛んで初めて粒が弾ける。一粒一粒がこれでもかというほどの存在感を主張しているのだ。弾けたイクラはゼリー状となって口の中に広がり、味の濃厚さでもまた舌を楽しませてくれる。
(これが……これが本物のイクラか)
イクラという食材それ自体への認識を改めざるを得なかった。
「良い……」
あまりの衝撃に頭が回らず、うまく言葉にすることができない。ふと横を見ると、楓の丼はすでに空になっていた。ひとつの米粒も残さず平らげ、胸の前で合掌している。
目を細めて丼の底を見つめる姉に、渚は小声で訴えた。
「めっちゃ美味いやんこれ」
楓は口を閉ざしたまま、感極まったかのような表情で深く深くうなずいた。渚も一度も丼を置かないまま完食し、姉と同様に掌を合わせる。
「あとで写真送って。撮るん忘れた」
二人してゆっくりと茶を啜り、店を出た。
「今日のルートどうしよか」
楓は満足げに息をついて言った。
「えっ? 札幌行くんちゃうの」
「それはそうやけど、海沿いの道と山ん中とどっち走ろかなって」
適当なベンチでツーリングマップルを確認する。
「運河と倉庫をちょろっと見てから移動しよ思うんやけど、まっすぐ国道5号を行くか、それとも山ん中の道道1号を行くか」
「うーん……道道は何か曲がりくねっててめんどそうやな……」
「けどバイク乗りとしてはそっちの方が面白いやろ?」
「えっ?」
「ん?」
楓は目を見開いた。どうやらこれは、国道で時間を節約するか、道道で走る楽しさを優先するか、という選択だったらしい。
「よし、道道に決定。異論は認めん」
二人は来た道を戻り、再び運河に沿って走った。適当なところでカブを停め、カッパを着たまま辺りを散策する。
「夜はライトアップされてもっとええ感じになるらしいけどな」
「けど小雨に煙る倉庫群ってのも……哀愁? があって悪ないやん」
「なるほど……」
時折立ち止まって写真を撮りつつ倉庫街をぐるりと周り、カブへと戻った。ヘルメットをかぶりつつ、楓は冗談交じりに言う。
「やっぱ帰りのフェリーも小樽からにしよか」
「イクラ目当てで?」
確かにあのイクラは、是非とももう一度食べてみたい。
「んー……まだ苫小牧から出る便の予約は取ってへんの?」
「いや、もう取っとる」
「そうか……」
やはり幾ばくかのキャンセル料がかかるのだろうか。そのうえ、大まかにとはいえ一度決めた旅程を変更するのも抵抗がある。
楓は再度マップルを開いた。
「今気づいたんやけど、道道を行った方がモアイにはアクセスしやすいと思うんよ」
「モアイ? ああ、墓地に立っとるとかいうあれか」
いつだったか、YouTubeで見かけたことがある。
「そんなら断然道道やな」
空はなおも雲に覆われているものの、雨はほとんど止んでいた。
国道5号で小樽の市街地を出て、道道1号へ入る。高速のインターを過ぎると一気に人工物が減り、次第に標高も上がってきた。
「しかしウチらみたいなツーリンガー多いよな」
「ガーって変やろそれ」
確かに上陸して以降、長期ツーリングらしきバイクを頻繁に見かける。家から舞鶴までの道中、大荷物を積んだ二人はかなり目立つ存在だったが、そのときのアウェイ感は今朝から消え失せていた。
「ちょっと寒なってきたわ」
今朝から着用している薄手のウィンドブレーカーは、まだ雨が乾いていない。そこへ冷涼な風を正面から受け、急に寒さを覚えた。
「ウチも。どっか適当なとこで停まろか」
間もなくループ橋が見えてきた。その手前の広くなっている路肩に停車し、写真を撮るついでに荷物の中からヒートテックと長袖のシャツを取り出す。一度ウィンドブレーカーを脱ぎ、それらをTシャツの上に着込んだ。
数日前、防寒具と雨具は絶対忘れないようにと姉から受けた忠告が、早くも役に立っている。
「姉貴のそれはバイク用のジャケットなん?」
同じように着替えている楓の上着を指差す。
「いや、普通の。ワークマンで買うた」
「ほーん」
「ちなみにカッパもワークマンな。実用性高いのに値段は安くて最高やわ」
「回し者か」
下がりかけた体温も徐々に正常に戻り、引き続き山の中を行く。
「なあ姉貴」
「あん?」
「北海道の山ってアレが出るんよな」
「大泉洋?」
「そうやなくて……ほら看板出とるやん」
もう何個目になるかわからない、道路脇の立て看板。
『 熊 出 没 注 意 』
リアルな顔のアップや、デフォルメされた全身像などバリエーションはあるものの、そこに描かれているものは……ヒグマだ。国内に棲息する陸上生物のうち、最大にして最強の連中。
アーバンベアの問題が取り沙汰されて久しい昨今、二人が今走っている山中では、いつどこで飛び出してきても不思議ではない。
「さっき路肩で停まったんも相当危なかったんちゃう?」
「……かもな」
道の左右に広がる茂みのどこに潜んでいるのかわからないのだ。いや、路上を闊歩している可能性も十分にある。
「そう考えると命懸けやな」
それから十キロくらい走っただろうか、すれ違うソロのライダーが手を振って挨拶してきた。
「おっ」
前を行く楓も手を挙げて応える。
「おろっ」
渚の思考は一瞬停止したが、姉にならい左手を肩口まで挙げた。
「北海道初ヤエーいただいたな」
「……これがヤエーか」
「アンタは初めてなん?」
「山ん中走ってるときにいっぺんだけされたことあるけど……咄嗟のことでまともに返せへんかったんよ」
「ああ、わかるわ」
「でも全員がするわけちゃうんやな」
街中なら当然だろうが、郊外でも普通にすれ違うだけのバイクの方が多いようだ。
「そらコーナーとかでやったら危ないしな。前になんちゃらスカイラインみたいな道走ってて、車線変更の最中にもらったことあるわ」
「それは怖いな」
無数のコーナーを抜けダムを過ぎ国道230号へ出て、またしばらく走る。
真駒内霊園に到着するころには、晴れ間が出て気温も上がっていた。
「姉貴、なんで北海道にモアイがあるん?」
「さあ……でも宮崎とか兵庫にもあるらしいわ」
「兵庫に? 姉貴の近所やん」
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○真駒内滝野霊園
甲子園球場二十四個分の広大な敷地内に、多数のモアイ像や大仏像、ラベンダー畑、さらにはストーンヘンジまで有する「観光霊園」。
安藤忠雄が設計した頭大仏殿は、外からは大仏様の頭のみが見えるようになっている。
入園は無料だが、駐車場と頭大仏殿は有料。
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西洋風の重厚な門をくぐると、車道に沿って横一列に並んだモアイ像が出迎えてくれた。
「でかっ……!」
想像していたよりも二回りは大きい。意識だけでなく、視線もそちらに向いてしまいそうなのを堪える。
「早よ写真撮ろ……つーかどこに停めればええんこれ」
いったんモアイに背を向け、徐行しつつ少し進むと先客のバイク乗りがいた。やけに荷物が少ないと思ったら、ナンバープレートに「札幌」の文字が入っている。キョロキョロと辺りを見回す楓をよそに、渚はその横へ付けて声をかける。
「こんにちは。バイクはここに停めればいいんですか?」
「あ、どうも。ちょっと僕もわからなくて、とりあえずここ置いてたんですよ」
周囲を見渡しながら、人の良さそうな兄さんは答えた。今着いたところかと思ったが、もう一通り見終えていたようだ。
「ではこれで」
「あ、はい。お気をつけて」
軽快にターンを決めて走り去るヤマハのオフロードを見送った。
「ここでええって?」
「いや、あの兄さんもわからんって」
「うーん……停めよか」
「でもあとで怒られるん嫌やで」
そのとき係員のおっちゃんが現れ、駐車場へと誘導してくれた。車もバイクも一律五百円とのこと。
「たっか……」
「……まあここ入るの自体はタダなんやし」
渋い顔でモアイの元へ戻り、とりあえずパシャパシャとスマホで撮影する。十数体のモアイをよく見ると、微妙に顔の輪郭や表情も異なっていて、うなじの部分にはナンバリングが施されているのがわかった。だがそれ以上の発見はなく、ものの数分で眺めるのにも飽きてしまった。
「なあ、あんなんあるで」
モアイの背後、姉の指さす先に、スケボーの練習場らしきものがある。「モアイスケートパーク」という看板がかかっていた。
どうにも節操のなさを感じる。
「渚、大仏殿はどうしよ?」
「え? どうしよって……」
「こっちも五百円かかるんよ」
視線の先には、なだらかな丘のような堂の上から、頭がひょっこり出ている大仏さん。
「……別にええやろ」
「せやな」
最後にストーンヘンジなるものを流し見て立ち去ろうとしたところ、妙なものを発見した。六体ほど並んだ狛犬らしき像が、それぞれ何か得体の知れない生きものに噛み付いたり、のしかかって押さえ付けたりしている。辺りには説明書きもなく、そこはかとなく不気味な雰囲気を醸し出していた。
一生分のモアイを見物した二人は霊園をあとにした。札幌市街へと向かう国道453号は交通量も多い。
「渚、昼はどこのラーメン食べる?」
「え? なんでラーメン確定なん」
「何や? ラーメン以外に食いたいもんあんの」
出発前、本屋で立ち読みしていた旅行ガイドを思い出す。
「そらスープカレーやろ」
「スープカレーなあ……」
「嫌いなん?」
「だってあれ、カレー作ったあとの鍋に水入れてかき回したやつやろ?」
「アホか!」
意図せず今日一番の声が出た。
「いや、それはさすがに言い過ぎやけど……家の近所でいっぺん食ったやつがすごい期待外れやったんよ、高かったくせに」
「じゃあその苦い……いや、辛い思い出を上書きするためにも行こうや」
やはり発祥の地である、札幌のスープカレーを食べてみたい。
「でもなあ……」
「……なんなら姉貴の分も俺が出すから」
「えっ、ほんまに? じゃあ行こか」
拍子抜けするほどあっさり折れた姉に、渚は軽はずみな申し出をしたことを後悔した。
・ヤエー……道ですれ違うバイク乗り同士が交わす挨拶。ピースサインが最も多いが、手を挙げたり振ったり親指を立てたり敬礼したりと個性的なヤエーを飛ばす者もいる。「Yeah!」の表記ミス「Yaeh!」が由来だとか。




