第二日 フェリー 2/2
『本船は間もなく小樽港へ入港いたします。長らくの航海、大変お疲れさまでした――』
待ちに待ったアナウンスを聞きながら荷物をまとめた二人は、車両甲板へと下りていく。この狭い階段を上ったのが、ずいぶん前のことのように思えた。
「薬分けていただいて、ありがとうございました!」
「おかげさまでほんまに助かりました!」
先にバイクへ戻っていた件の兄さんに、改めて頭を下げる。
「いやいや。妹さんも元気になったんやね、よかった」
辺りを見回した兄さんは下船までまだ時間があると読んだようで、ヘルメットを脇に抱えたまま語りだす。
「僕が初めて北海道に来たときのことなんやけど……七月も近いっていう時期やのにえらい気温低くてね。道北とか道東を走ってたらもう手指の感覚がなくなるぐらい寒かったんよ。そのころ出逢ったとあるライダーからカイロを分けてもろて。カイロ数枚貼っただけでどうにかなる寒さちゃうんやけど、そんときのありがたみと言うたら……」
遠い目で回想する兄さんの話に、姉弟は瞬きも忘れて聞き入っていた。
「まあ君らも僕に恩とか感じんでええから。その分ほかの誰か……困ってる人がおったら、その人を助けたげて」
「……はいっ」
「肝に銘じます」
そのとき係員のホイッスルが鳴り響き、バイクの下船が始まった。三名は急いでヘルメットをかぶる。
「そんなら、気ぃつけてね」
「ほんまにありがとうございました。失礼しますっ」
「ありがとうございましたっ」
兄さんの背を見送った二人は、長いランプウェイをゆっくり下り、ついに北の大地を踏んだ。そこから走ることわずか一分、二十四時間営業のスーパー銭湯へカブを停めた。
「やっぱ涼しいな」
「確かに」
気温のみならず湿度も違うのだろうか。そよぐ風は爽やかで、ここは本当に八月の日本なのかと疑ってみたくなる。
「まあツーリングは明日からやし。今は食って休も」
楓は意気揚々と建物へ向かっていく。今夜の寝床となるスーパー銭湯はその二階で、一階にはハトのマークのコンビニが入っていた。
「おお……これがセイコーマートか」
ネットでも事あるごとに目にするローカルコンビニ、セイコーマート。北海道全域で見られるものの、道外では関東の一部にしか展開していない。もちろん二人とも訪れるのは初めてだ。
「あー腹減ったわ」
「ウチはまだ船酔いのダメージが……」
円を描くように胃の辺りをさすりながら、楓はおにぎりひとつを手に先にレジへ向かった。渚は弁当コーナーに並ぶ商品すべてにざっと目を走らせ、直感に訴えかけるものをいくつか見繕った。
「えらい買うたな」
「まあ余ったら明日の朝飯にすればええやん」
戦利品を引っ提げ二階のスーパー銭湯へ入る。今晩の寝床は銭湯の休憩室だとフェリーの中で知らされたときは驚いたものの、全国的にホテルが値上がりしているのを鑑みれば、やむをえないことなのかもしれない。どちらにせよ姉に金を出してもらう渚には、その点に関して何も言えないわけだが。
「じゃあまた」
「ん」
渚は空腹を持て余したまま入浴を済ませ、休憩室へ移動する。そこには和室用の座卓が壁に沿って並んでいて、船の中で見かけたような気がする人物の姿もあった。
適当な卓に着き買ってきた食料をレンジで温めていると、顔を紅潮させた楓が現れた。
その頭にはターバン状にしたタオルが巻かれている。
「何かまだ揺れてる感じせえへん?」
使い古しの座布団にあぐらをかいた楓は、崩れるように座卓へ上半身を預けた。
「するする。時々地面傾いてるわ」
「いつまで続くんやろこれ」
そこでレンジの電子音が鳴り、渚は立ち上がって取りに行った。
「しっかし上陸して最初に食うんがコンビニ飯やとはな……」
「けどある意味で道民のソウルフード筆頭やで、セコマの飯は」
「……なるほど」
むしろ初の北海道メシには相応しいのかもしれない。
プラスチックの蓋を取ると、食欲をそそるダシと卵の香りが湯気とともにふわりと広がる。卓に突っ伏していた楓は音もなく体を起こした。
渚がメインに選んだのはカツ丼だった。セコマの商品の中でも特に人気が高いらしい。買ったときには気づかなかったが、セパレートタイプの容器になっていて、カツの煮汁がごはんに染み込まないよう工夫されている。
渚はカツ煮部分を艶めくごはんへ投下した。その作業をする数秒間は、船の後遺症を忘れ、より強い食欲を呼び覚ますのに十分な時間だった。
急き立てられるようにカツを口へ運ぶ。
「おっ……」
見た目もさることながら、味はさらにその上を行くものだった。さすがに衣の部分は多少しんなりしているものの、肉の柔らかさや卵のまろやかさは、コンビニ弁当の水準を軽く凌駕している。
「どう?」
「旨い」
身を乗り出す楓に、渚はごく簡潔に答える。一口目が胃に到達して、自分が相当な空腹状態だったことをはっきりと認識した。そのままガツガツとかき込み、豚と卵とダシのハーモニーを楽しむ。
「なあ、ウチにもちょっと分けてや」
「えー……」
「一口だけ、一口だけ。ほら、割り箸もあんで」
買ったのはおにぎり一個のみだったはずだが、強引に付けてもらったのだろうか。不承不承といった表情で、渚は丼を差し出す。嫌な予感はしていたが、楓はカツ一切れとそれに見合うごはん、卵を口いっぱいに頬張った。
「旨っ! これがコンビニ弁当のクオリティか?」
「一口がでかすぎんねん姉貴は」
「畿内のサッチモと呼ばれたウチを甘く見なや」
残りすべてを食べられるよりはマシか、と思った渚は、今度はフライドチキンをレンジにぶち込む。
「うわー、またええ匂いさせとるやんけ」
一個くれ、と手を差し出す楓。
「姉貴もおにぎり買うとったやろ? それ食えばええやん」
「もう食った」
「早っ!」
よく見ると、姉の手元には丸まったビニールが転がっていた。
「船酔いが治りきってないとか言うてなかったか? つーか自分で買うてきたらええやろ」
「風呂入ったらめっちゃ回復したんよ。……そうやってあんまり聞き分けないこと言うてたら、ここの料金割り勘にしてもらおかなー?」
「ちょこざいなっ……!」
それを引き合いに出されては、従う以外の選択肢が渚にはない。唇をへの字にしながら、チキンの一ピースをその掌に載せてやる。
「うわあ、これも旨いわ」
渚も爪楊枝で一ピースを口へと運んだ。
「おお……これはこれは」
大手のコンビニの揚げ物も旨いと思っていたが、これはさらにその上を行っているのではないか。
「このホットシェフっつうシリーズは、セントラルキッチンやなくて店内調理なんよ。作って間もない弁当や惣菜を――運が良かったらできたてを買えるからな。その分旨いんやて」
「ほーん。いい仕事してますねぇ」
「あとロゴマークの鳥はハトやなくてフェニックスな」
「えっ? 全然見えへんかったけど」
「せやんな」
渚は手近にあったパッケージをしげしげと見つめる。
「ちなみにこいつは牛でええの?」
「……大穴でキリンかもしれん」
さらに集られるかと思ったが楓の食事は終わったらしく、卓にツーリングマップルを広げている。
「そういうたら、あの兄さんずっとウチが妹やと勘違いしとったな」
若く見られて嬉しいということなのか、垂れ目を細めながら楓は回想する。
兄と妹だと見知らぬ人から誤解されることは、過去にも何度かあった。色気も化粧っ気もなく垢抜けていないからそう見られるだけでは、と渚はそのときから思っていたが、思い違いをして調子に乗る姉が滑稽なので、指摘しないまま今に至っている。
「自惚れたらあかんで。姉貴が若く見えたんやなくて俺が老けて見えただけやからな」
大仰に胸を張ってみせる。
「何でそんな自慢げやの……?」
カツ丼とチキンに加えデザートの菓子パンも平らげたところで、寝支度に入った。
「あ、毛布借りてこなあかんやん」
先ほど見かけた館内の張り紙に、宿泊者のために毛布と枕を貸し出しているとあった。少々の追加料金が要るものの、この際仕方ないだろう。
「いや、要らんでそれ。ちゃんと持って来とるから」
「えっ?」
ちょい待っとき、と言い残して楓は姿を消した。
(持って来とるってどういうこと? さすがに入らんやろ)
楓のハンターカブには、ちょうど郵便屋さんが使っているような特大のリアボックスが据え付けられている。最大容量148リットルとか自慢していたけれども、さすがに寝具を収納できるような大きさではないと思うのだが。
「お待たー」
間の抜けた声とともに楓が戻ってきた。両腕に抱えた大きな荷物を、ストンと床に下ろす。
「何やこれ」
俵型の巾着袋と、ウレタンのような蛇腹状のものが二つずつ。
「見てのとおり、寝袋とマットやん」
「ああ、桑田の――」
「続いとったキャンプブームが下火になってきたやろ? 良さげな中古品が安く手に入るんよ」
確かにキャンプ用品は基本的にどれも高価だと聞く。
「こっちがアンタの分な。荷物の容量厳しいようならウチの方に積んどってええから」
楓はマットを広げ、自分の巾着から寝袋を引っ張り出している。
「なあ姉貴」
「ん?」
「もしかしてテントも……」
「ああ、もちろんあるで」
渚はぎゅっと目をつぶり天井を仰いだ。これからの道中は、主にキャンプ場に泊まることになるのだろう。
(そうよな……自分の懐を痛めずホテルで快適に寝るとかないわな……)
「あ、雨降ったら宿に泊まるで? ウチだけ」
「えっ」
「ガハハ」
姉は鞄の中をごそごそとかき回している。
「臨時収入言うても、別に油田掘り当てたわけちゃうからな。削れるとこは削っていかんと、すぐ金なくなってまう……お、あったあった」
歯ブラシと歯磨き粉を手に立ち上がった。
「そろそろ寝よか」
楓の姿が見えなくなるまで、渚は座ったままの姿勢で固まっていた。
二人は並べて敷いた寝袋に潜り込んだ。貴重品をどうするか悩んだ末、寝間着代わりのジャージのポケットへ入れることにした。
「でもめっちゃ快適やんここ」
「そう?」
清潔感はあるとはいえ、見ず知らずの人間もいる大部屋に雑魚寝というのはやはり抵抗がないわけではない。
「床が水平で揺れることがないって時点で、百二十点付けてもええ」
「……なるほどな」
「ほなおやすみ、良い夢を」
「おやすみ」
それっきり楓は口を開かなかった。船酔いでかなり消耗していたのだろう、間もなく規則的な寝息が聞こえてきた。
渚は馴染みのない匂いを放つ寝袋へと顔を埋め、これからの旅路に想いを馳せる。慣れない環境と寝具だったが、意識が途切れるまで長くはかからなかった。
・ツーリングマップル……バイク旅に特化した地図帳。情報量が豊富で、多くのライダーのツーリングの供を務めている。




