第二日 フェリー 1/2
「うおっ」
目を開けると、天井が一メートル足らずの距離に迫っていた。
(ああ、フェリーやったな……)
それ以上何かを考える前に、異様な状況に気づかされた。
ベッドが、床が、部屋が、ゆっくりと傾き、戻っては逆の方向へ傾いている。車や電車のものとはまったく違った、経験したことのない揺れ方だ。
靴を履いて上段のベッドをのぞいてみたが、姉は不在だった。
(どこ行ったんやろ……)
急いで顔を洗って楓を探しに向かう。
質素な客室とは対照的に、華やかな空気が漂うロビーに出た。吹き抜けになっている上階も見渡してみるが、姉の姿はない。スマホを開くがすでに圏外だった。
ロビーの一角に設けられたモニターには、簡素な航路図が映し出されている。そこで点滅している船のアイコンを見るに、今は新潟沖を航行しているようだ。
「こっちか……?」
観音開きのドアを開けて外へ出ると、強い風に煽られた。そこはデッキへの細い通路となっており、蒼く続く海面の向こうに霞んだ陸地が見える。
尋ね人はデッキの片隅のベンチでうずくまっていた。
「姉貴、どうしたん」
「……ああ、お前も生きていたか」
ワンテンポ遅れて反応を示した楓の顔は青白く、目はどこか虚ろだ。体調が悪いのは渚でも即座に分かった。
「また右手が暴れ出しやがった……この辺りの海は因子が濃いようだな……」
「船酔い?」
目を逸らして小さく首を縦に振る姉。暴れているのは三半規管と胃袋だろう。どんな状況でもアホなことを言わずにいられないのは、もはや病気ではなかろうか。
「薬飲んだんやろ? 効かへんの?」
昨夜乗船前に飲んでいた分の効果はさすがに切れているだろうが、薬はまだまだあったはずだ。
「あのー、えっと……カブにな、忘れてしもた……」
「えっ」
言葉を搾り出すようにして告げた姉に、渚は思わず声を荒らげた。
「なんで忘れんねん、そんな大事なもん!」
「……ごめん」
「あ、いや……」
ここでそれを責めたところでどうにもならない。力なく謝罪の言葉を口にする楓を見て、渚は踵を返した。
「ちょっと待っとき」
乗り物酔いの辛さは渚も身をもって知っている。今でこそ人並みの耐性がついたものの、子どものころは遠足や家族旅行を憂鬱に感じるほどだった。
大股で客室へと戻り、ベッドの上の巾着を探る。万一の可能性を期待したが、やはり渚の荷物に酔い止めは入っていない。
「あれっ」
水だけ持って戻ろうとしたとき、ふと視界の端にあるものが映った。
「売店か……」
決して大きくはないその売り場へ足を向ける。もしかしたらと思ったが、レジの前に酔い止めドロップなるものが売られているのを発見した。錠剤ではなくドロップというのが引っかかったものの、今はとにかくこれで凌ぐしかない。すぐに購入し、姉の元へと急いだ。
「姉貴、こんなん売っとったで」
「え……?」
死にかけのバッタのようにうずくまっていた楓は、「すまんな」と言いつつドロップを口に含んだ。
「口ん中で溶かすんやって」
弟の言うとおりにしばらくカラカラと転がしていたが、やがて姉は手を差し出した。
「もう一個くれへん?」
一回につき一個とパッケージには書かれているが、見なかったことにして追加分を掌に載せる。
渚は海へと目を向けた。起き抜けから慌ただしかった状況が少し落ち着き、やっと周りを観察する余裕が出てきた。天気はすこぶる良いが風が強い。ぐおーんぐおーんと低く唸る船体は、ゆっくりとした周期で前後に揺れ続けている。これが夜までずっと続くのかと思うと、渚も胃の底に不快感を覚えた。
顔を伏せている姉に悟られないよう、新たなドロップを手に取り口へ運ぶ。
数百人の乗客を収容できるフェリーと聞いて、文字どおり大船に乗ったつもりでいた。だが船である以上、当然風の影響をもろに受けるのだ。もう少し揺れが激しければ、今ごろこの場所に死にかけのキリギリスが二匹転がっていたのかもしれない。事前に風予報を確認し、念のため自分も酔い止めを持っておくべきだったと渚は反省した。
「どんな? 良うなった?」
生まれては消える白波をぼんやり眺めていた渚は、隣の姉へと視線を戻す。ドロップを二個服用してから三十分、楓は死にかけのバッタから死にかけのコオロギへと変貌を遂げていた。
「いや、気持ち悪すぎて……うぅ、耳から血尿出そう」
「斬新な水芸やな」
青白いを通り越して面白い顔色になっている楓。渚はドロップのパッケージを裏返しながら毒づいた。
「やっぱちゃんとした薬やないと効かへんのちゃうか? あかんなこのドロップ」
「『あくまで……個人の感想であり、はあ……特定の商品を、誹謗・中傷する……ふうう、ものではありません』」
苦しげな呼吸の間を縫うように、楓はどこかで聞いたようなフレーズを口にした。
「何言うとんねん。しんどいんやろ?」
「いや、これ言うとかな……下手したらあとで裁判沙汰に……」
訳のわからないことを宣い、姉は再び糸が切れたように崩れ落ちた。
「トイレ連れてったろか? ほら、旅のゲロは吐き捨てっていうやろ」
そのとき、背後から足音が近づいてきた。
「こんにちは」
「はい?」
振り返ると、昨夜バイクの待機レーンで言葉を交わした、カワサキ乗りのお兄さんが立っていた。乗船してから姉以外と話すのは初めてだな、と思いながら渚は立ち上がる。
「あっ……昨日はどうも、大事なこと教えていただいて」
「いやいや……それより妹さんだいじょうぶ? 船酔い?」
妹という単語が耳に入ったのか、楓の肩がピクリと反応した。そのままゆっくりと顔を上げるかに思われたが、また俯いてしまう。
「ええそうなんです、手違いで大事な薬をバイクに置いてきてしまって……」
「それは難儀やったね。もしよければ僕の分いる?」
「えっ?」
兄さんが鞄から取り出したのは、昨晩姉が持っていたものと同じ薬だった。
「いいんですか!?」
「ええよええよ、二錠あれば保ちそう?」
「十分です! えーっと……千円ぐらいでいいですかね?」
渚は喜んで代金を払おうと財布を出した。
「いやいやいや」
兄さんは胸の前で、太く筋肉質な腕をぶんぶん振る。
「金なんか要らんから」
「いやでも……」
「困ったときはお互いさまやからね。気にせんといて」
恩着せがましさなど微塵も感じられないその顔に、一瞬目を奪われた。二錠分を切り取って渚の手に握らせ、兄さんは背を向ける。
「どうもありがとうございます!」
「ありがとうございますっ」
深々と頭を下げる渚の脇で、楓も精いっぱい声を張る。兄さんが船内へ戻っていくのを見送り、渚は薬と水を手渡しながら言った。
「めっちゃええ人やったな」
「ほんまやわ……でもこれがヨーグレットやったら笑うよな」
「アホか」
さっさと飲まんかい、と促された楓はおぼつかない手つきでアルミを破り、錠剤を飲み下した。
さらに三十分が経過した。
「おっ、元気なコオロギになっとる」
入浴から戻った渚は、背筋を伸ばしてベンチに座っている姉の姿を目にした。
「やっぱ薬らしい薬は効くな」
「あのお兄さんに感謝やわ」
楓の隣に腰を下ろした渚は、スマホで時間を確認する。昨夜の乗船前に菓子をつまんで以降、思えば何も口にしていなかった。
「そろそろ中入らへん?」
「いや無理、まだまだ平常時には遠いから。つーかもうウチに付いとかんでええよ。自由にやって」
「んー」
ここまでの礼がないことに眉根を寄せた渚は、その場を立ち去ろうとした。
「ちょい待ち。この中にシアタールームがあるんよ」
「シアター?」
「小っさいやつやけどな。あとどっかでコンサートあるはずやわ」
「それタダなん?」
「せやで」
どうやら姉なりに下調べをしていたようだ。それでも車両甲板への立入禁止を知らなかったり、薬を忘れたりと抜けているところが楓らしい。
船内へ戻り、ごく軽い食事を済ませた。シアタールームで聞いたこともないようなタイトルの映画を観ながら、三分の一は寝てしまった。
続いてコンサート会場となっているロビーに向かう。てっきり船員さんが片手間にやっているのかと思いきやそうではなく、専門の奏者によるものだとわかり驚いた。依然としてゆっくりと揺れ続けている船上で、有名なクラシックや歌謡曲のアレンジを巧みに奏でている。
「いやあ、まっこと素ん晴らじい演奏でしだ」
曲が終わったとき、いつの間にか横に立っていた人物にエキセントリックな日本語で話しかけられ、渚はそちらへと首を向けた。
「そうですね……あら、おたく僕の身内にクリソツでんな」
「ドッペルゲンガーっでえやづですがねえ」
楓にそっくりだが、顔に血の気が戻っている。
「なんやねんそのクッソ雑なズーズー弁は……東北の人らに謝っとき」
「すまんですタイ」
ドッペルゲンガーは進行方向右に向かって頭を下げた。
「もうだいじょうぶなん? 見た感じ顔色は良くなってるけど」
「もらった薬もう一錠飲んだんよ。万全ではないんやけどあまりに退屈すぎたから」
コンサートが終わり観客が引き上げていく中、楓は撤収作業に入った奏者やスタッフの方を見つめながら言った。
「ごめんな。せっかくのツーリングが、初っ端からこんなつまずいてしもて……」
いつになくしおらしく謝る姉に、渚も同じ方向へ視線を固定したまま話す。
「ええよ。……俺の方こそ、姉貴に誘ってもらわんかったら、北海道なんて夢のまた夢やったし……その、ありがと――」
「あっ、またちょっと気持ち悪うなってきた……デッキに戻るわ」
「……」
胃の辺りを掌でさすりつつ、楓は足早にその場を立ち去った。




