第一日 出立 2/2
舞鶴港のフェリー乗り場へ到着したのは、太陽が沈んで間もないころだった。
「しっかしなんでわざわざ真夜中に出るんやろ」
北海道行きのフェリーは、あろうことか日付を跨ぐような時間帯に出航する。乗船開始時間も当然深夜なので、それまでフェリー乗り場で待機しなくてはならない。ちなみに航行時間は一日弱、小樽港到着は明日の午後九時ごろの予定だ。
二人は旅行のスケジュールについて話し合った。現地で過ごせるのはちょうど七日間。一週間もあれば道内の観光地を制覇できると思っていた渚は、それが大きな間違いであることに気づかされた。
「おるんよな、そういうやつ。北海道の広大さをまったく理解しとらん」
これだから素人は、と言わんばかりの表情で、楓は片方の口角を吊り上げ腕組みをしてみせる。よくもまあ一度も足を運んだことのない人間がこれほどの態度を取れるものだな、と渚は苛立ちを通り越し呆れ返った。
「実際どんぐらいでかいんよ」
「そうやな……」
首を倒してしばし目を閉じる姉。
「火星の裏側にさ、でっかい湖があるとするやん。偶然にもその湖がちょうど北海道と同じ大きさやとするやん。その湖ぐらいのでかさ」
「なるほど、分かった」
「なんでそれで分かんねん!」
改めて調べてみたところ、衝撃の事実が判明した。
海沿いにぐるりと一周した場合、走行距離は2,500キロほど。札幌を起点とした道のりは、函館まで約250キロ、稚内まで300キロ、根室まで450キロになるらしい。
「一日300キロ走っても一周できへんってことか……」
「せやな。そもそも道内の観光地を一通り周ろう思ったら一か月ぐらいかかるで」
「……これはもう大陸と呼んで差し支えないやんな?」
「禿げ上がるほど同意」
確かに北海道を甘く見ていた。思えばこれまで北海道どころか、北関東より向こう側には足を踏み入れたこともない。二人にとっては半ば異国といってもいいだろう。
「てなわけで、今回はだいたいこんな感じで移動しよ思とんよ」
北海道全域の地図の上で指を滑らせながら、楓は前もって立てていた大まかな旅程を説明した。
「ウチらが着くんがここの小樽。札幌を経由して、海沿いをずーっと北上する。宗谷岬まで行ったら、今度は内陸をベンベン南下して太平洋側へ。苫小牧からフェリー乗って福井県の敦賀へ帰る」
「ほう、こっからもフェリー出とるんやな」
「昔は釧路にも長距離フェリーの航路があってな、武田鉄矢とか乗っとったらしいで」
その後、ビル内を無意味に探索したり、これから乗るフェリーの写真を撮ったりしたのだが、それでもまだ乗船までかなり時間があった。
すっかり夜も更けてきて、疲労感が二人を襲う。
「こんな夜中に船出して誰が得するんやろ……」
「さあ……」
口数もめっきり少なくなったころ、とうとう楓は隣の椅子へと上体を倒し、目元に手ぬぐいを載せて寝入ってしまった。周囲を見回すと、やはり待ちくたびれて疲れた顔をしている人が多い。その中で、家族旅行に来たのであろう子どもが妙に高いテンションを保っていた。
「あっ」
楓がガバッと身を起こした。ウトウトしかけていた渚も微睡みから瞬時に引き戻される。
「何やねんいきなり」
「酔い止め飲むん忘れとった」
枕にしていたショルダーバッグから薬を取り出し、水で飲み下す。成長して少しはマシになったようだが、楓は昔から乗り物酔いをしやすい性質だ。
「フェリーってそんな酔うん?」
ヨットやクルーザーならまだしも、大型船がそれほど揺れるところが想像できなかった。
「まあ念のためな。アンタも飲んどくか?」
「いや、俺はええわ」
それからしばらくして、ようやく乗船開始のアナウンスが流れた。
「あー、長かったわー」
「ほんまに長いんはこれからやけどな」
ビルを出てバイクの待機レーンに向かうと、到着したときの倍以上のバイクがずらりと列をなしていた。どのバイクにもこれでもかというほど荷物が積まれていて、眺めているだけで心が浮き立ってくる。
「ピーク過ぎても結構おるもんやな」
盆休みはどれほどのバイクがここへ集ったのだろう。
「こんばんはー、お二人はカップルですか?」
クロスカブのひとつ後ろに並んでいた大型バイクの主が話しかけてきた。
「あ、いえ……姉弟なんです」
三十代半ばといったところだろうか、がっちりとした体型がカワサキのツアラーとよく合っている。
「いいですねえ、きょうだいでツーリングって。行き先はどちら?」
「初めてなんで、とりあえず宗谷岬へ。そこからはずっと南へ行って、苫小牧から帰りのフェリーに乗る予定です」
こういったときは、大抵の場合渚が応対することになる。楓がいい歳をこいて人見知りをこじらせているためだ。
「えっと……お兄さんは何度か来られてるんですか?」
だが渚もそれほど人付き合いが得意な方ではない。知らない相手に物怖じせず話しかけたり、的確に受け答えしたりできるタイプの人間を心底うらやましく思う。
「うーん……二年ぶり五回目やったかな?」
「甲子園か」
背後から楓のツッコミが小さく聞こえてきたが、それが相手にも届いているかわかりかね、スルーしておいた。
「すごいですね! もうベテランの領域やないですか」
「いやいや、それでもまだ行ってないところがあって……」
そのとき、居並ぶバイク乗りの注意が一点に集中した。
「はーい、今から乗船となります! チケットをお手元に準備してくださーい!」
列の先頭あたりで係員のおっちゃんが声を張り上げている。それを合図に皆が一斉にエンジンを始動させた。多種多様なアイドリング音が重なる中、姉弟は急いでヘルメットをかぶる。
「ではまたあとで」
「はい、また」
お兄さんとの会話を打ち切り、カブに跨りセンタースタンドを上げる。
「ふう……」
目の前に鎮座する巨大な船を改めて眺めていると、またも胸の中に不安が広がってきた。長距離フェリーに乗るのは生まれて初めてなうえ、バイクで乗り込むとなればやはり緊張は募る。
「姉貴!」
「何や?」
楓は上体だけで振り返った。
「こっからどうなるん!?」
「……だいじょうぶ! 路面のオイルの染みを数えてる間に終わるから!」
「アホか」
珍妙なことを口走る余裕はあるようだが、実際姉もよく知らないようだ。
「……ん?」
ジーンズを履いた楓の脚に、やたらと力が入っているように見える。ここへ来るまでの道中、信号待ちで停車しているときはもっとダラリとしていたのではないか。緊張しているのは自分だけではないとわかり、少々気持ちが楽になった。
そのうち先頭のライダーから順に乗船し、間もなく姉弟の番になる。
「はい、ゆっくりお願いしまーす」
おっちゃんの合図でそろそろと走り出し、車両用のランプウェイで船の中へ突入する。オイルの匂いが微かに漂う、天井も壁も剥き出しの金属やコンクリートで構成された空間は、エンジンの音が反響しずいぶんやかましい。
作業服姿の係員さんの誘導に従ってどうにかカブを停める。ヘルメットを外し周囲を見回してみたところ、あまりに見慣れない光景で軽く目眩がした。今が深夜であることも手伝って、夢の中にいるような気にさえなってしまう。
オタオタしているのを見かねたのか、カワサキのお兄さんが声をかけてくれた。
「フェリー初めて? 海に出たらここには戻れんから気ぃつけてな」
「えっ……!?」
「マジすか?」
横にいた楓も目を見開いた。
「どこのフェリーでもそうやと思うけど、航行中の車両甲板は立入禁止になるんよ」
一瞬時が止まる。
「あばばばば……」
姉弟は弾かれたように動き出した。渚は荷台に据え付けている鞄を開ける。この旅のために大枚をはたいて手に入れた、最大容量七十五リットルの大型シートバッグだ。
(何が要るんや? スマホと財布と……着替え。あと歯ブラシとか風呂セットとか?)
背負っていた小ぶりのリュックだけでは足らず、適当な巾着に選んだ荷物を詰め込む。その間にも係員さんたちが、ズラリと並んだバイクに輪止めをかけ車体を固縛していく。「早くして」と声をかけられたわけではないが、黙々と淀みなく作業を進める彼らに、暗に急かされているような気がしてしまう。
「ヘルメットはここに置いとっていいですか……?」
「はい、航行中落ちなければだいじょうぶですよ」
意外にも愛想良く対応してもらえたことに少し安堵し、顎ひもを留めたヘルメットをミラーに掛けた。楓もちょうど荷造りを終えたようだ。
「ほな行きますか」
甲板内には大型のトラックが続々と乗り込んできていたので、大きく迂回するようにして船室に続く階段へと歩いた。何となく後ろ髪を引かれるような感じがして、渚はカブの方を振り返る。それに気づいた楓は「写真撮るん忘れたな」と呑気な声を上げた。
一時は冷や汗をかかされたものの、姉弟はどうにか客室へと到着した。楓が予約していたのは最も安い寝床だったが、雑魚寝ではない。その部屋には無機質だが小綺麗な二段ベッドがいくつか並んでいた。ただそのベッドが少々特殊なもので、下段は左側から、上段は小さな階段を上がって右側からアクセスするようになっている。つまり下段と上段の乗客が鉢合わせしにくい構造なのだ。
「なかなか考えてあるなこれ」
チケットの番号を見るに、楓が上段、渚が下段となっていた。
「風呂開いてるみたいやけどどうする?」
このフェリーには、なかなかに立派な風呂が設えてある。
「えー……絶対激混みやろ、この時間」
「けど相当汗かいたんちゃう?」
「ウチはボディペーパーでごまかして、明日朝一で入るわ」
「……俺もそうしよ」
男女共用の洗面所を見つけ、そこで横並びになって歯を磨いた。
「二十時間後には北海道なんやな……」
「んー……」
今日の昼まで普段どおり家で過ごしていたというのに、一気に非日常の世界へと身を投げたような気分だ。歯を磨いている今も、どこか現実感が希薄に思える。
そのとき大きな汽笛が鳴った。
「出航か」
間もなくその旨を伝えるアナウンスが流れた。
部屋に戻り疲れた体を横たえる。わずかな揺れと浮遊感を背中で感じつつ、渚は徐々に眠りに落ちていった。
・舞鶴……京都府に属する、日本海に面した港町。長距離フェリーのターミナルや海上自衛隊の基地がある。




