第一日 出立 1/2
大荷物を積載するのにやたらと時間を取られた。結局準備していたすべてを積むことは叶わず、撥水スプレーやパンク修理キットを残していくこととなった。
「忘れ物ないよな……」
部屋の中を見回しながら、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。昨夜からどうにもそわそわして落ち着かず、すぐにでも家を出てしまいたい気分が続いている。
「そろそろ行くわー」
一階へ下り、リビングの母親に声を掛ける。
「ほんまに気ぃつけなあかんよ。事故はもちろんやけど、病気とか事件にも遭わんように」
ここ数日で何度も聞かされたことを、母はまた口にする。
「うん、無理はせえへんよ」
心の中で「多分」と付け加えながら玄関へ向かう。八月の太陽はまだまだ衰えを見せることなく、地上のあらゆるものを焼き尽くさんばかりに照りつけていた。荷造りを終えた時点でかなり汗をかいていた渚は、うんざりしながらジェットタイプのヘルメットをグイとかぶる。
愛車のクロスカブに跨りエンジンをかけた瞬間、果たして自分は五体満足でここへ帰って来られるのだろうか、と急に不安になった。
「向こう着いたら連絡してな。あとお姉ちゃんにも『気ぃつけて』って言うといて」
「うーい、行ってきまーす」
眉を寄せている母に軽く手を挙げ、渚はゆっくりと走り出した。少し離れてからミラーをのぞくと、母はまだ家に入らずこちらをうかがっていた。
「うおっ……!」
最初の交差点を左折しようとしたとき、ビクッと心臓が跳ねた。普段より重心が上がっているせいで、バランスを崩しそうになったのだ。咄嗟に地面を蹴り体勢を立て直す。
考えてみれば、これほど大きな荷物を積んで走るのは初めてだ。クロスカブが納車され二か月あまり、遠出をしたのは片道百キロ足らずの日帰りツーリングくらいで、当然持ち物も少なかった。
「あっつ……」
転倒未遂によりさらに汗が噴き出した。現在の気温は三十五度に届くか否かといったところか。
街の大動脈となっている片側三車線の国道へ出て、十数キロ道なりに走った。交通量は多いものの車の流れは悪くない。この辺りは普段訪れることがなく、道や景色にもあまり見覚えがない。
とうとう旅が始まったという実感が湧くとともに、ずっと付きまとっていた落ち着かなさが薄れていく。渚は尻をわずかに浮かせ深く座り直し、アクセルを余分に開いた。
家を出て二時間ほどが経ったころ、ある道の駅へ到着した。バイク用の駐車場はないものかと見回していると、隅の方に見覚えのある真っ赤なハンターカブが停まっているのに気づいた。
(やっぱそうやな)
近づいてみて、それが姉のものだとわかる。自身のカブをその横に付けヘルメットを脱いでいると、背後からやってきた人物に声をかけられた。
「うーす」
暑苦しいポニーテールを揺らしながら雑な挨拶を口にしたその女こそ、渚の姉、楓だった。猫背気味の姿勢で歩み寄りながら、姉は言葉を継ぐ。
「どうしたんこんなとこで、奇遇やな」
待ち合わせ場所としてこの道の駅を指定したのは楓本人だ。
「何が奇遇や」
「ふひひ」
品のない笑いを口元に浮かべる楓。
「ちょっと休んでから出発しよか」
建物に入ると、ひんやりした空気が二人を包んだ。
エアコンの匂いがするそれを肺の深くまで取り込みながら、渚は自販機で適当な飲み物を買う。空いているベンチに並んで座った。
「今晩は飯どうすんの?」
「適当なとこで食べていこか……まあ京都のどっかでええやろ」
渚は冷えた清涼飲料水を喉に流し込む。家から持って来たペットボトルをすでに二本空けているというのに、買ったばかりのボトルもすでに半分以上飲んでしまった。
「緊張しとる?」
目尻の下がった瞳で弟の顔をのぞき込むように、楓は尋ねた。
「まあ多少はな」
渚は正直に答えた。
「姉貴はどうなん? つーか長期のツーリングは何回かやっとんの?」
「いや、長くて二泊なんよ」
「なんと」
楓が初代の愛車であるスーパーカブを購入したのは学生時代なので、それから何年かバイクに乗っていることになる。癪ではあるが姉からバイク旅のノウハウを学ぼうと思っていた渚だが、それが期待できないというのが今になって判明した。
「まあ……なんとかやっていけるわ、家から遠く離れても」
「……せやな」
根拠のないままとりあえず同意しておく。
「さーて、そろそろ行こか」
「……またあの太陽とアスファルトに灼かれなあかんのか」
「暗くなるまでに港に着いときたいしな。まあすぐに走り出せばダメージも少ないやろ」
手動の引き戸から外へ出て、汗腺が活動を始める前に発進しようと早足でカブへ戻った。手早くヘルメットをかぶりエンジンを掛ける。楓もセルスイッチを押したが、すぐにキーを捻ってエンジンを停めてしまった。
「どうしたん?」
カブに問題でもあったのかと急に不安になる。
「道調べんの忘れとった」
「はあ……」
遠くでツクツクボウシが鳴いていた。
事の発端は盆休み、実家を離れ一人暮らしをする楓が帰省してきたときだった。
「なあ、北海道行きたくない?」
大学の期末試験をどうにか乗り切り、夏休みを怠惰に過ごす渚の部屋へ入ってくるなり、楓はそう言った。
「何なん唐突に」
「行きたいやろ? 行きたいはずやん? いきなり!ステーキ大量閉店?」
支離滅裂なことを並べ立てながら、姉は弟との距離を詰めてくる。
「そら行きたいのはマウンテンマウンテンやけど……」
渚もカブを買って間もないとはいえ、北海道への憧れは人並み以上に持っている。だが免許の取得とバイクの購入で少ない貯金を使い果たしたどころか、後者に至ってはローンを組んでいた。長期ツーリングに充てる金などどうしたって工面できない。結局、YouTubeで誰かのツーリング動画を見てため息をつくのが現状だった。
「今度北海道行くんやけど、連れがおらへんのよ。金あるんなら一緒に行かへん?」
「……金さえあったら俺も行きたいけど」
「ほーう。まあそらそうやろな」
離れて暮らしているとはいえ時々連絡を取り合っているため、互いの経済状況は朧げながら把握できている。にもかかわらずあえてそれを確認してくるあたり、やはり姉は性根が曲がっている。
「実は、ちょっとした臨時収入があってな。フェリー代と宿代出したるから、ともに限界バリバリ北海道ツーリングと洒落込まへんか?」
「なっ……」
話が予想もしなかった方向へ転がりだした。
(姉貴と一緒か……。でも俺が出すんは飯代と……ガス代だけ? それならなんとかなるかも)
なんと気前の良く弟想いの姉を持ったのだろう、と渚は心の中で掌を返した。
「断るんやったら夜中この部屋に忍び込んで、アンタの口にふえるわかめちゃん死ぬほど詰め込んで水一気させるで」
「もとより断るつもりないって……いつ行くん? 期間は?」
弟が身を乗り出したのを見て、楓はわずかに口角を上げた。
「来週ぐらいやな。向こうに滞在するのが一週間ぐらいで、フェリーとか含めると……延べ十日ちょっとの日程で」
「結構急やな」
「九月に入ると場所によっては寒なるらしいし……盆休み明けの来週あたりが狙い目ちゃうかと思て」
急だろうが何だろうが、常に金に困っている貧乏学生が北海道へ行けるチャンスなどそうそうあるものではない。
「ゴチになります」
「うむ、よきにはからえ」
ギラつく太陽の下、想定したよりスムースに国道を走り抜け京都に入った二人は、適当なラーメン屋に立ち寄った。案内されたボックス席に向かい合って腰を下ろす。
「渚、走るときは斜め後ろに着いて」
「えっ?」
「ずっとウチの真後ろ走っとるやろ? それやと急ブレーキかけたときとか危ないから、複数で走るときは斜めに位置取りするんよ。テニスでいうところの雁行陣みたく」
楓は卓上に落とした指をジグザグに動かす。
「大人数のときもこんな感じで並ぶんよ」
「なるほど。そうするわ」
「……金はある程度持ってきとるんよな? フェリーと宿代以外は出さへんで」
「わかっとる。闇金オフクロくんから借りてきた」
「十日五割で?」
「いや、皿洗いとゴミ出し一か月で」
口座に残っている金はわずかなうえに、バイト代の振込はひと月近く先だ。食費とガソリン代のみとはいえ、十日超の日程となるとまとまった額が必要になる。もはや誰かに借りる以外の手段が見つからなかった。
こうして渚は、生まれて初めて母親に土下座することになったのである。
「ほーん。バイトは休めたん?」
それも大きな問題だった。バイト先の店長に対しても地べたに頭を擦りつける覚悟だったが、申し出たところ意外にもあっさりと了承してもらえた。人によっては帰省のためにもっと長く休みを取っているからだとか。
「お待たせしましたー」
注文していたラーメンが運ばれてきた。
「ほーう、これが京都ラーメンか……」
背脂が浮いたスープをレンゲで口へ運んだ。豚骨と醤油の濃厚な味わいが、汗をかいた体に沁みる。
「……盆のとき『臨時収入』って言うとったけど、何なんそれ?」
「んー? あれなあ……」
訊くべきか否か迷っていたがやはり気になる。金の話が出たのでそれに便乗してみたが、楓は言葉を濁したまま麺を啜り続けていた。
念のため注釈みたいなものを書いときます。
・クロスカブ……本田技研工業の原付バイク。スーパーカブをカジュアルにしたようなデザインで、街乗りもツーリングもこなせる。50ccと110ccのものがあるが、渚の愛車は後者。
・ハンターカブ……クロスカブをより頑丈にしたような原付で、少々の悪路ならば難なく走破できる。排気量は125ccで、クロスカブよりもトルクが太くパワフル。




