第八日 美瑛・富良野 4/4
二人は富良野のとある観光農園を訪れ、盛りを過ぎたラベンダーを眺めていた。
「だいぶ遅かったな」
「ラベンダーは七月上旬から中旬が見ごろやて」
「まあ今のウチらにはピッタリかもしれん」
時折強く吹く風に、深い緑色が大半を占めるラベンダーは一斉に倒れ、また起き上がる。その様子を見つめながら、渚は投げやりに言い放った。
「もういっぺん留萌行こか」
「ふふっ……未練タラッタラやんけ」
苦い笑みをこぼす楓に、渚は胸のわだかまりを吐き出した。
「なあ姉貴、冷静に考えたらおかしくない? 何年も一緒にいた友だちとかならともかく、会ったばっかりの人と別れるだけで何でこんな心揺さぶられてまうん? ええ歳こいて」
「何もおかしないやろ。歳こいてようがなかろうが、淋しいもんは淋しいでええやん。そこで変に大人ぶるんは、何か違うんちゃうかな」
ポニーテールを風になびかせる楓は顔だけを渚と逆の方向へ向けており、その表情はうかがえない。
「渚、ちょっとええ?」
「うん?」
「数を数えてくれへんか。一から三まで、声に出して」
「え? 何でよ」
「頼むわ」
依然として姉の顔は見えないままだが、その声色は真剣そのものだった。渚は疑問に思いながらも要望を聞き入れる。
「いち、にい、さん」
「らべんダーーーッ!!!」
高々と右腕を掲げ、限界まで顎を突き出し、力いっぱい声を張る楓。広大な園内すべてに轟くほどの雄叫びに、周囲の客はもちろん渚も肝を抜かれてしまった。
またも南風が吹き抜け、一度止まった時間が動き出す。
「姉貴……」
ようやく渚へと向けられた姉の顔は、小刻みに震えながらも未だに猪木を維持している。
この期に及んでなおふざけている救いようのない姉を、どのような言葉で罵倒すべきか。数々の下劣な単語が喉まで出かかったとき、渚は見開かれた姉の瞳にうっすらと涙が浮かんでいるのに気がついた。
その瞬間、激しい怒りが嘘のように鎮まり、うってかわって抑えがたい情動が迸る。
「らべんダーーーーーッ!!!!!」
楓を凌駕するほどの怒声を上げ、渚もまた渾身の猪木を披露する。
もはやラベンダーやほかの客など、意識に入り込む余地はなかった。
「ふっ……ふふふっ……アンタ、アホちゃうか?」
「ふはっ、ははははっ……姉貴には負けるけどなっ」
「「はははははっ……!」」
ほのかに香る風の中、二人で腹の底から笑い合った。
その後はほとんど言葉を交わさないまま、二人はキャンプ場へと向かっていた。
占冠を抜け日高町へ入り、通りかかった小さな店へ入った。外も中も個人経営のような雰囲気だが、セイコーマートの商品が並んでいる。
「んん?」
セコマに似せた紛い物かとも思ったが、手に取って検めたところ正規品のようだ。店のおっちゃんに訊いてみたかったが、何か後ろめたいものを感じてやめた。
「結局またセコマ飯やんけ」
「西遊記の孫悟空がお釈迦様の手のひらの中から逃げられなかったように、北海道にいる限りセイコーマートからは逃げられん」
「まあ旨いしええけど」
「つーか自炊道具なしにキャンプ場泊まる場合はどうしてもこうならへん? コンビニかスーパーしかないやろ」
沙流川オートキャンプ場は空いていた。「オートキャンプ」というと高そうなイメージがあったが、一人五百円という至ってリーズナブルな価格設定だった。
手早くテントを張り終え、その前で食料を広げる。
「いただきます」
「いただきます」
合掌し小声で呟いた二人は、クリーミーカルボナーラと上海風焼きそばのビニールを剥がす。
「あー、連絡先訊くん忘れとったわー」
「忘れとったんやなくて訊けへんかったんやろ」
間髪入れずに言い当てられ、渚は顔をしかめた。
「そもそも訊いたところで、どうもならんやん。めっちゃ美人やし超がつくほどのお嬢さまやし」
「いや、改めてお礼を要求したら油田のひとつぐらいくれたんちゃうかなって」
「アホか」
小さなランタンに照らされた楓の顔には濃い陰影ができており、向き合っていても表情が読みづらい。
二人の頭上では夏の大三角、デネブ・アルタイル・ベガが一際明るく輝いている。
遥は今ごろどこで何をしているだろうか、と想いを馳せながら、渚は一度閉ざした口を開く。
「まとってる空気がまったくちゃうかったよな……」
「うん、めっちゃええ匂いしてヤバかった」
「変態やんけ」
「変態淑女やからセーフ」
ほかのキャンパーたちの歓声が遠くから聞こえた。
珍奇なことを口走って何とか空気を変えようとするが、センチメンタルに首まで浸かった二人にはまるで効果がなかった。もういっそ寝てしまおうか、と考えたそのとき。
「うわっ……!」
うなだれていた楓は雷に打たれたように顔を上げた。
「何や、脱皮するんか? 超進化か?」
「アンタ免許取って一年経ってへんから、そもそも二人乗りできんやんか」
「あっ……」
完全に頭から抜け落ちていた。確かに教習所で習ったはずなのに。
「あっぶな……。なあ、一年未満の二ケツは罰金12,000円やて」
スマホをスクロールしつつ、楓は低い声で画面を読み上げる。
「もし遥さんも貧乳やったら、危うく俺が後ろに乗せて道交法違反しとったかもしれへんてことやろ? やっぱ大きいことはええことやで」
「今『も』を強調せんかったか? まあ仮にそうやったとしても、肩とか太もものあたりは触れ合うわけやろ。遥さんをアンタと密着させるような真似、ウチは許さへんけどな」
真顔で言い張る楓に、渚は気にかかっていたことを投げかけた。
「……姉貴って女の子が好きなん?」
「は?」
楓は一瞬眉を顰めたが、すぐに頬を緩めて弁明した。
「いやいや、ウチは男が好きやで。ただその『好き』の対象の中に、例外として遥さんが入ってるだけであって……。そう言うアンタはどうなんよ」
「そらまあ……好きは好きやけど、アイドルに憧れる感覚に近い気ぃするな。住む世界違いすぎて」
ぼやけた六等星の自分では、織姫星がごとく婉麗可憐な彼女とはどうしたって釣り合わない。
「よかったわー、三角関係にならずに済んで」
楓は本気とも冗談ともつかぬ口調で言った。
それ以降二人は俯いて口を閉ざし、ランタンの淡い灯りを見つめていた。




