第八日 美瑛・富良野 3/4
「めっちゃええホテルやん……」
一度部屋に戻る、と言い残した彼女を、二人はその建物の前で待っていた。出逢った場所から百メートルも離れていないそのホテルは、姉弟を唖然とさせるのに十分な格調高さを備えていた。
重厚感のある石材をふんだんに使用した左右対称のデザインは、稚内で見た防波堤ドームと近い気品を感じさせる。建物自体は五階建てであるものの、ワンフロアごとの高さが普通のビルとは段違いだ。牧歌的な町並みの中で確かな存在感を示し、一般人には近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
姉弟ともにこのようなホテルに泊まったことはおろか、肉眼で見たこともなかった。
渚は姉に悟られないよう静かに深呼吸を繰り返す。絵画から抜け出してきたような美人を前にしたことで失った平常心を、今のうちにどうにか取り戻したい。
「あのお姉さんいくつなんやろ?」
クロスカブのタンデムステップを展開しながら、楓は不思議そうにこぼした。
「姉貴と同じぐらいちゃう?」
「ウチも最初はそう思ったんやけど、肌ツヤ見んかった? 肌は十代のそれなんよ」
肌年齢がどうこうなどと意識しなかった渚は、そういった点に注意が向く楓を意外に思う。
(姉貴かて腐りきってても女なんやな)
「今めっちゃ失礼なこと考えてへんか?」
「あ? 姉貴は歳のわりに全然垢抜けてへんなって思とっただけや」
「十分失礼やんけ」
「ほんまのことやろ」
「ごめんね、お待たせー」
姉弟は不毛な口論を止めて振り返った。美女の手にはキャップ型のヘルメットが握られている。
「そのヘルメットどうしたんですか?」
「フロントにダメ元で訊いてみたんだけど、一個だけあるって。借りてきちゃった」
「それはそれは……すっかり忘れてました」
そこで初めて、彼女の服装に着目してみる。
穴の空いた茶色のチノパンを履き替え、今はデニムのズボンと淡い青の開襟シャツを着用している。奇抜さとは無縁なありふれた服装だが、良い生地が使われているような気がしなくもない。シンプルなクリーム色のスニーカーには見たこともないロゴが入っていたが、こちらも値が張りそうだ。
かぶっていた帽子は置いてきたようで、わずかにウェーブのかかった髪が風になびく。黒髪は陽光を受けて濡れたように艶めいており、一点の曇りもない肌の白さを際立たせている。
渚の胸に、緊張とはまた違った昂揚がこみ上げた。
「おう、何ジロジロ見とんねんワレ」
またも彼女に見蕩れていたところへ、至近距離に楓の顔が迫る。今日の姉は妙に目ざとい。
「さっき気づいたんだけど、わたしまだ名乗ってなかったよね? 雪風遥っていうの。遥か彼方の遥」
「中村玉緒でございます」
姉も妙なスイッチが入ったのか、初対面の相手と接するときの調子ではない。
「アホか! こいつは若葉楓です。僕は渚といいます」
雑なモノマネを聞いて肩を震わせる遥に、渚は思い切って尋ねてみた。
「僕が二十歳でこいつが十万二十三歳なんですが――」
「どこの聖飢魔Ⅱや」
「――雪風さんおいくつなんです?」
「二十二よ……楓さん歳上だったの? というか敬語使うべきですよね、ごめんなさい」
「いやいや、全然構いませんよ。名前も好きなように呼んだってください」
「なんでアンタが答えんねん」
「なんなら『おーい』でも構いませんよ」
「倦怠期か!」
「あっははは!」
またも笑ってくれた。
「二人とも本当に面白いね! わたしのことは遥でいいよ。あと敬語も苦手だから、フランクに話してくれると助かるな」
「えっと……うん、わかった」
「ほな行こか。渚、先導頼むわ。ゆっくりな」
後ろのクロスカブに二人が跨るのを確認し、渚は静かにアクセルを開けた。緩やかに加速し、時速三十キロになったあたりでミラーを確認する。
「これぐらいでええ?」
「ふおっ……!?」
「姉貴? どうしたん?」
「……あ、いや。これぐらいのスピードで行こ」
「駅近弁当」まではほぼ一本道だったが、たった五キロを走るのに十分もかかってしまった。
(あれ? 五キロを十分ってむしろ早くないか?)
距離と時間の感覚が、いつの間にか北海道仕様へと更新されている。
「わたし先に注文しとくねー」
停車するなり荷台から降りた遥は、軽い足取りで店内へ入っていった。
「こんにちはー! サガリ弁当三つお願いします」
ハリのある声が外まで聞こえてくる。
「お嬢ちゃん別嬪さんだね。どこから来たの?」
「東京ですー」
姿は見えないが、店のおばちゃんと会話しているようだ。
楓はヘルメットも脱がずに、跨った姿勢のまま固まっている。
「どうしたんよ姉貴」
「……めっちゃでかかった」
「は?」
「女でよかったわ。ウチが男やったら間違いなく鼻血ブーで失神して地面にヘディングかましてホスピタル送りやった」
意味不明なことを呟く楓の瞳は半開きで、顔も明らかに紅潮している。
このような表情の姉を見るのは生まれて初めてだった。並々ならぬ気味の悪さを感じながらも、渚はおっかなびっくり問うてみる。
「……惚れてもた?」
「……かもな」
できたての弁当を提げた三人は、ほど近い上富良野駅まで移動する。
「ごめん、おごってもらって」
渚が店に入ったときにはすでに会計を済ませてしまっていて、遥は姉弟が出す金を受け取ろうとはしなかった。
「ううん、もともとわたしがご馳走するって言ってたでしょ? 助けてもらったお礼なんだから……そのうえバイクにも乗せてもらったし」
駅舎へ入ると、一人ベンチに座っていたおじいさんの視線が、三人へと注がれる。明らかに住む世界の異なるであろう一人+二人の登場に、面食らっているのかもしれない。
瞬きを繰り返すじいさんは気にしないことにして、隅のベンチに三人横並びになって座った。太ももの上に弁当を載せ、そっと蓋を開く。
「これがサガリか……」
サガリとは何だったか。あとで調べておこうと思いながら結局できていなかった。
「豚の横隔膜なんだって。さっきこれを買ったとき、おばさんから教えてもらったの」
「そうなんや。味の想像つかへんな……」
渚は箸でサガリを一切れつまみ、口へと運んだ。
「おっ、旨い」
そのとき、遥が胸の前で手を合わせているのに気づいた。「いただきます」という小さな呟きののちに、水平に持った割り箸が上下に割られる。
渚は食べる手を止めてその所作に見入ってしまった。
「あ、見た目よりあっさりしてるね」
彼女は手で口元を隠しつつ目尻を下げた。
「ねえ楓さん……楓さん?」
姉は弁当の蓋すらまだ開けておらず、上の空といった様子だった。
「あ、うん。食べる食べる」
心ゆくまでサガリを満喫した一行は、自販機で買った茶を飲みつつ談笑していた。
「でも楽しかったなー! バイクに乗せてもらったの初めてなんだけど、風を切って走るってまさにあのことね!」
ここまで来るとき、ミラーに映る彼女がはしゃいでいたのを思い出す。
それと同時に、バイクとの邂逅の記憶が蘇ってきた。
渚が初めてバイクに乗ったのは、昨年の教習所でのことだった。四輪の教習に組み込まれている原付講習に参加した際、50ccのスクーターに跨った。道や景色と自らの肉体との間に何の隔たりもなく、空間を滑るように移動する。今までの車の運転では得られなかった感覚だった。
そもそも四輪の免許を取ろうと思ったのは、周りの友人たちが教習所へ通っているから、学生のうちに車の免許を取るのが普通だから、という消極的な理由によるものだった。その後どうにか費用を工面し普通二輪の教習を申し込んだ際は、その動機が「バイクに乗りたいから」という単純だがポジティブなものへと変わっていた。
「渚? どうしたんアンタ」
「ふふっ、今度は渚くんがぼんやりしてる」
「ごめんごめん。初めてバイクに乗ったときのこと思い出して……」
「ああ、ウチもさっき考えとったんよ。教習所で何回も転けたなーとか、初めてカブを買ったときのこととか――」
いつになく饒舌な楓は、自身の経験を遥に語り聞かせ、最後にこう尋ねた。
「バイクに興味湧いた?」
「うん、知らなかった世界が拓けた感じ! ……でも免許を取るとかは無理かな。やっぱり親が……」
「ああ……」
あの厳しそうな母親では無理もないだろう。渚は話題を変えようとして訊いた。
「遥さんはこれからどっちへ行くん?」
「美瑛に寄ってから留萌の方だけど……二人は?」
「富良野でラベンダー見てから南へ向かおうかと」
「そっか……」
しばしの沈黙ののち、遥は静かに腰を上げた。
「そろそろ戻ろっか」
帰りも楓が運転するクロスカブに乗った遥は、ホテルの前で頭を下げた。
「二人とも本当にありがとう。実はこの旅行、昨日まではあんまり楽しくなかったんだけど……今日こうして二人に逢えたから、来てよかったなって思う」
「いやいや、こちらこそ……弁当ごちそうさまでした」
楓はしみじみと礼を述べヘルメットをかぶる。
「……逢えてよかった、ほんまに」
目の奥が熱くなるのを感じながら、渚も別れを告げた。
「どうか気をつけてね……」
「うん、遥さんも元気で……」
「また、どこかで……」
後ろ髪を引かれながらアクセルを開く。これまでにも、立ち去るのが惜しい、もっとこの景色を眺めていたい、と思える場所を幾度も越えてきたが、今感じている心残りはそれらの比ではない。
徐行しながら振り返り、見送る遥へ手を振る。
彼女とは知り合ってからほんの一、二時間しか経っていない。二十歳にもなって何を感傷的になっているのだろう、と心の隅では考えているものの、渚が形容しがたいほどの名残惜しさを覚えているのは否定しようのない事実だった。
遥の姿が見えなくなっても、二人は口を閉ざしたまま延々と時速三十キロで走り続けた。




