第八日 美瑛・富良野 2/4
峠を越え町に入ったところで、前を行く楓が珍しく緊迫した声色になった。
「渚、ちょっと停まるで」
ウィンカーもろくに出さないまま、楓はカブを路肩へ寄せる。何事かと思いきや、道端で一台の自転車が横倒しになっていた。その脇にはうずくまっている女性が見える。どうやら車道と歩道の段差にタイヤを取られ転んだようだ。
「だいじょうぶですか!?」
楓はカブを停めて駆け寄った。ズボンの膝の部分が破れ、そこから鮮やかな紅色がのぞいている。
「あ、はい……」
「立てますか? もしよければ肩を――」
つばの広い帽子をかぶった女性の正面に回り込んだ楓は、そこで急に固まってしまった。二人が向かい合ったまま、しばし時が止まる。
「あの……」
「はいぃ!」
女性から声をかけられたことで我に返ったのか、楓は縁石のところまで彼女を誘導し、そこへ座らせた。小走りでハンターカブまで戻り、リアボックスから水とティッシュを取り出す。
「渚、この鞄に絆創膏入っとるはずやから探して」
「お、おう」
突然の出来事にただ傍観するだけだった渚は、そこでようやく動き出した。
「うわ汚っ」
楓が示したボストンバッグを開けると、そこには様々な小物がごちゃごちゃと詰め込まれていた。昔から姉の辞書には整理整頓という言葉がなかったが、未だに改訂されていないようだ。
どうにか絆創膏を探し当てたとき、楓は湿らせたティッシュで彼女の傷口を拭いているところだった。
「あったで絆創膏」
「助かる」
楓は受け取った絆創膏を慎重に貼り付ける。
「ど、どんなです? あ……あ、歩けそうですか?」
姉の様子が明らかにおかしい。持ち前の人見知りを発揮する場合、沈んだような声で、口数も少なくなるはずだ。
だが今の楓はどもりつつも早口で、かつところどころ声が上ずっている。針が逆へ振れているのだ。
「ええ、そんなにスピード出てなかったから。ほんとにありがとう」
もう痛みもほとんどないようで、彼女はスッと立ち上がり深々と腰を折る。
「あなたも、ありがとう」
渚にも向き直って礼を言った。かぶっている帽子に隠れて渚からはほとんど顔が見えておらず、そこで初めて対面したわけだが。
(な、なんと……!)
心の中でも絶句してしまうほどの美人だった。
年の頃は楓と同じくらいだろうか。だが性別と年齢を除けば、姉と共通する点は何ひとつ見当たらなかった。
長いまつ毛に彩られた大きな瞳はあどけなさを残しているが、その奥には暖かな光が灯っている。すっと通った立体的な鼻からは、知性と折り目正しい様がうかがえる。微笑みをたたえた口元も、溌溂としていながら決して品格を損なっていない。
それらが透き通るような白い肌の上で、わずかな過不足もなく調和しまとまっている。優れた芸術作品のようなご尊顔に加え、これでもかとシャツを押し上げている豊かな胸も印象的だった。
「っ……!」
しばしの間、彼女以外のすべてのものが渚の意識から消失した。姉もカブも町並みも白く塗りつぶされ、美女を食い入るように見つめてしまう。
「……だいじょうぶか?」
「うおっ」
木から落っこちて顔から地面に突っ込んだような姉の形相が間近に迫るまで、完全に心を奪われ魂まで抜けかけていた。
「お二人はバイクで旅行してるの?」
「ああ……はい、はい。そんなところです」
電池が切れかけたような渚を置いて、半ば錯乱したままの楓が答える。
「へえ、すごいのね! こんなにたくさん荷物積んで、大変でしょう?」
若干のオーバーリアクションを交え、彼女は興味深げに耳を傾ける。
「そんなことは……いや、まあ確かに大変ですけど、面白いこととか、多かったりするんですよ」
「いいなあ、わたしもこんなの乗ってみたいな……」
「えっと……普段は車に乗ってるんですか? あ、いや……これは車の免許では乗れないんですけど、一回り小さい50ccなら乗れたりも……」
そのとき、横を通りかかった車が数メートル先で急停車した。三人の注意がその高級SUVに集中する。
勢いよく開いた助手席から、いかにも富裕層といった装いの婦人が飛び出してきた。
「遥! あなた、いったいどうしたの?」
その眼差しは始め彼女に注がれていたが、間もなく姉弟の顔にも順番に向けられた。戸惑いや不審を覚えているのがその表情から伝わってくる。
「お、お母さま!」
(お母さま……?)
それまで明るく朗らかだった美女は、一転して淑やかな雰囲気を身にまとった。心なしか声のトーンも上がっている。
「実はわたくし、自転車に乗っている最中に転んでしまいまして……通りかかったこちらの方たちに助けていただいたのです」
彼女は膝に手を伸ばし、楓が貼った絆創膏を示す。
「まあまあ、何ということを……怪我は大したことないの?」
口元に手を当てた婦人は思い立ったように車へ戻った。だがすぐに引き返してきて、手にした真っ白な紙袋を楓へ差し出す。
「娘が大変お世話になりました。お礼といってはなんですが、もしよろしければお受け取りいただけませんか? 富良野産のメロンです」
「えっ……あ、はい、どどどどうも……」
楓は面白いほど狼狽しつつも袋を受け取る――かに見えた。
「あ、やっぱいいです」
(なんでそこで断んねん!)
「あら、メロンはあまりお好きではありませんか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですが……その、私たちも旅行者でナイフとか持ってませんし、あと……何よりそんな高そうなものをいただくのは……。ただ絆創膏を貼っただけで、大したことは何もしてませんので……」
楓の言い分も間違ってはいないものの、高級メロンをもらい損ねた渚は静かに奥歯を噛んだ。
「そうでしたか……。では、これにて失礼いたします。遥、参りましょう」
姉弟に向かって一礼し、婦人は踵を返す。
「お母さま。わたくし、この方たちと昼食をご一緒したいのですが」
「えっ? でも、今から予約していたお店に行くのよ? 今朝言っておいたでしょう」
「しかしそれでは、お世話になった方に何のお礼もできないままではありませんか。お二人はこれから昼食を摂られるということでしたので、是非わたくしがご馳走して差し上げたいのです」
(あれ、昼飯まだとか言ったっけ……?)
婦人はまた車へ戻り、二言三言交わしてから向き直った。
「わかりました、そうしてちょうだい。あとで連絡するわね」
「はい、お母さま」
「あなた、もう自転車に乗るのはおよしなさいよ。危なっかしいんだから」
婦人は改めて頭を下げたのち、車に乗り込んだ。
「はあ……」
SUVが見えなくなったところで美女はため息をつく。肩の荷が下りたとでもいうように、体から力が抜けたのが渚にも見て取れた。
「ごめんなさい、変なとこ見せちゃって! というかお昼ごはんまだだった?」
「あ、はい。まだですよ」
「良かったー。 じゃあわたしにご馳走させて? また助けてもらったお礼に」
「は、はい……」
今しがたの慎ましさは鳴りを潜め、あの車が現れる前の明るい雰囲気に戻っている。その変貌ぶりに、姉弟は動揺を隠せなかった。
二人の困惑を察したのだろう、彼女は車が走り去った方向を見つめながら切り出した。
「びっくりさせちゃったよね。うちの家ちょっと変わってて。両親……特にお母さんが、言葉遣いや礼儀作法にすごく厳しくて。ずっと一緒にいると、どうしても息が詰まっちゃうのよ。それで一人で自転車にでも乗ってやろうとしたら、いきなりこの有様で。このあとも家族で食事に行くところだったんだけど、あなたたちのことを口実にして断っちゃった。迷惑かけて、ごめんなさい」
「いやいや、別に迷惑とかでは」
「ほんと? じゃあお昼とか、一緒にどうかな? もしよかったらなんだけど……」
ここまでの道中様々なことを経験してきたが、どういうわけかロマンス要素がまったくといっていいほど見られなかった。
そこへ来て千載一遇の美女からのお誘いである。高級メロンが霞むどころか完全に雲隠れしてしまうほど、あるいは棚からぼた餅どころかレアアース採掘とでもいうほどの僥倖に、渚は頬が緩むのを抑えきれなかった。
「はい! 僕らはもちろん……ええやんな?」
「うん、まあ……」
何故か煮え切らない調子だが、一応楓の了承も得られた。
「ほんと? ありがとう! でもお店とか、私は全然わからなくって……二人はどうする予定だったの?」
「この先の店のサガリ弁当ってのが有名らしくて、そこへ行こうかなと思ってまして――」
「ちょい待ち」
肩を叩いて渚の話を遮った楓は、くぐもった声で言う。
「その弁当屋って千円そこそこの値段やで。しかもおそらく適当なベンチとかに座って食うことになるやろうし、それはちょっと……」
「あっ」
姉の指摘はもっともだった。
これまでの様子を見るに、彼女は明らかに上流階級の人間だ。いかにも庶民向けといった店に連れて行き、屋根もないところでともに弁当をつつくというのはいかがなものだろうか。
「もしかして気を遣ってくれてる? わたしそういうの全然だいじょうぶよ」
「マジすか」
「うん。ファストフードとかカップ麺とか、時々食べてるし……お母さんには内緒でだけど、ね」
小さく肩をすくめながら、彼女は笑みをこぼす。
「じゃあ行こっか? そのお店どこにあるの?」
「えー、こっから五キロぐらいですかね」
「五キロか……」
彼女は俯いて頬に指先を添えた。歩くにはさすがに遠いが、自転車ならばそれほどかからない。だがもう自転車には乗るなと母親に釘を刺されたばかりだ。
「お嬢さん、よければ僕の後ろにお乗りになりますか」
渚はクロスカブに跨り、おどけた調子で言った。
「え、いいの?」
「えっ」
「お母さんにも『バイクに乗っちゃダメ』とは言われてないし」
しかし彼女は真に受けてしまったようで、今さら冗談だと言うのもためらわれる。
「でもこれ、おっきなバッグが着いてるけど、この上に乗るの?」
「あ、いやこれは……まあ外そうと思えば外せますし」
シートバッグはバックルで留められているため、取り外すのは難しいことではない。
「でも外したバッグの置き場所がないから……」
「それなら……わたしの泊まってるホテルがすぐそこだから、預かってもらえると思うよ」
「ほんとっすか」
「うん、この自転車を返すついでに頼んでみるね」
彼女主導で話が進んでいるが、渚は内心焦っていた。このままでは本当に後ろに乗せて走らなければならなくなる。
一番の問題は、いざ二人乗りするとなった場合、彼女の柔らかそうなものがまず間違いなく当たってしまうということだ。それ自体は喜ばしいこと――渚の人生至上の幸福と呼んでも差し支えないほどのご褒美になるだろうが、一歩間違えばセクハラ案件になってしまう。
仮に彼女がその気になれば、肩で胸を突いただの、背中を胸に押し付けてきただの、いくらでも事を大きくできるだろう。そういった場合、男というものは圧倒的な弱者に成り下がる。加えて彼女の身内には、凄腕の弁護士なんかがいてもおかしくない。
(……というか普通にいそうやし)
二ケツはしたいが、それで人生を棒に振るのもさすがに惜しい。
(ああ、どうすれば……!)
「ウチがクロスカブ運転するわ。それで後ろにお姉さんを乗せる」
板挟みに悶える渚に、それまで沈黙を守っていた楓が言い放った。
「身内から犯罪者を出すわけにはいかんからな」
「誰が犯罪者や!」
弟の思考をすべて見透かしたかのような姉の発言に、渚は彼女の存在も忘れてツッコミを入れる。
「ふふふっ……!」
傍で聞いていた彼女は、こらえきれずといった様子で吹き出した。
「あなたたち面白いね! じゃあわたしは、妹さんの方に乗せてもらおうかな」
「「……えっ?」」
「あれ、さっき身内って……二人はお兄さんと妹さんじゃないの?」
「いえ、私が姉です」
「弟です」
今度は三人で顔を見合わせ、ひとしきり笑い合った。




