第七日 旭川 2/2
「あーあ……」
弟を見送ったあと昨日の残り物で適当に朝食を済ませると、もうやることがなくなった。旅先で体調を崩すのは初めてで、この宿に着くまでは少なからず不安だった。だが寝床が確保できた今では、逆に退屈に苦しめられている。
普段風邪をひいたときには押し入れから引っ張り出した本や漫画を読んで過ごすのだが、ここではそれもできない。また横になり天井の木目を眺めていると、平日の朝から何をしているんだろうと思えてきた。まだ治りきっていないのか、単に寝過ぎたのか定かではないが、ぼんやりしたままの頭は重い。
何かを考えるのも億劫になり、楓は再び布団をかぶり目を閉じた。
「はっ……!」
何かに追い立てられるように目を覚ました。背中のみならず全身に浮き出た汗が、ぐっしょりと服を濡らしていた。
体を起こして時計を確認するが、一瞬昼か夜かわからなかった。思考が機能しだして間もなく、それが午後二時過ぎであるとわかる。部屋の照明が消えているのに時計を視認できるのだから、当然といえば当然のことだ。
楓は熱気のこもった布団をはねのけ、ふらふらと部屋を出て風呂場へ向かった。まだ湯は張られていなかったのでシャワーを浴び体を清めていると、気怠さや頭の重さが徐々に消えていった。
生まれ変わったような心地だ。体に力が湧いてくるのと同時に、一刻も早くここから出たいという気になってくる。
楓は慌ただしく風呂をあとにし、渚へ電話をかけた。
蛇という生きものは、人間にとって複雑な位置づけにあるようだ。時と所によっては蛇神として崇拝の対象になることもあるが、「蛇蝎のごとく」という言葉のとおり必要以上に忌み嫌われることもある。
旭山動物園を訪れた渚は、アオダイショウの白い腹を見上げていた。頭上を通るトンネル状の部分でお休み中のようだ。
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〇旭山動物園
旭川市にあるけれど旭山。
動物本来の生態に近い環境を整えた「行動展示」で全国的に有名である。
一般的な動物園で見られる檻や水槽とは一味違い、森林や岩山を再現したり、吊り橋や渡り綱を設けたりと随所に工夫が施されている。
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渚が好きな蛇はこのアオダイショウしかいなかったものの、蛇の腹部をじっくり観られる機会などそうそうないだろう。彼らは手も足も持たぬまま、枝のない垂直な木にも登ることができるらしい。どうすればそのような芸当が可能なのか、と考えを巡らせていた渚は、スマホの着信音で我に返った。
「ただいまキャトルミューティレーション中です。『助けてくれー!』という悲鳴のあとに、お名前とご用件をお話しく――」
『今起きた! ラーメン行こラーメン! あさひかわラーメン村ってのがあるらしいやん!』
「は?」
ネタを完全にスルーされた渚は不機嫌を露わにした。
「また悪化するやろ。そもそも良うなったん?」
『昨日のラーメンのときより格段に良うなったわ! つーかこんな辛気臭くてカビ臭いとこに引きこもってたら、治るもんも治らんし!』
「最終的にその宿選んだん姉貴やろ」
『こまけぇこたぁいいんだよ!! アンタ今どこなん?』
「アオダイショウの真下」
『何やて? 動物園なん? じゃあそこ観終わったらラーメン村で落ち合おや。何時ぐらいがええ?』
「そんなら三時で」
あさひかわラーメン村は、平屋の建物に八つのラーメン店が入っており、土産物屋や神社も併設されたスポットだ。村というわりには交通量の多い街中にあった。
「もう体ええの?」
「おう。数ある運動のうち最も消耗が激しいと言われる十字懸垂を三分してきたった」
「ウォームアップにしてはすこしハードすぎやしないか……」
半端な時間にもかかわらず賑わっていて、外国人観光客も多い。
「昨日から延べ二十時間ぐらい寝たしさすがに治ったわ」
「それ昏睡って言わへん?」
どの店に入るかで揉めると思っていたが、意外にも二人の意見は一致した。旭川に本店を置き、東日本でチェーン展開している「魯山人」だ。
カウンターに並んで腰を下ろす。
「これカップ麺で何回か食ったけど、いっぺん本物を食べてみたいと思てたんよ」
「同じく」
塩とんこつが看板メニューらしく、ともにそれを頼んだ。
「マイナス二十度と動物園はどうやったん?」
「T-1000の気持ちがわかったわ」
「は?」
撮った写真を見せつつ今日の報告をしていると、注文したラーメンが二人の前に置かれた。
「何か器小っちゃくない?」
片方の眉を吊り上げる渚に、楓はドヤ顔で解説する。
「確かに器の口径は一般的な丼より小っさいんよ。でもその代わり底は深めやろ? この形のおかげでスープが冷めにくいんやて」
「なるほど」
身を屈めて丼の高さを確認した渚はレンゲを手にし、白く濁ったスープを口に運ぶ。
「おっ、結構旨い」
濃厚で奥深い味わいだが、後味はスッキリしている。チラリと隣をうかがったところ、楓は脇目も振らずにズビズバーと麺を啜っていた。渚もそれにならい、黙ってラーメンを堪能した。
店を出た二人は、ラーメン村神社なるものに足を向けた。縁結びのご利益があるらしいが、鮮やかな赤色が目に優しくない。
「神社って名乗るうえでクリアせなあかん基準とかないんやろか」
「俺も同じこと思った」
巨大なラーメン丼を模したベンチを眺めているとき、楓は唐突に言った。
「なあ、最後にオイル換えたんいつ?」
「オイル? 卓上に調味油とかあったっけ」
「そっちちゃう、エンジンオイルや! もう結構な距離走ったやろ」
ラーメンを食べた直後、いきなりエンジンオイルの話をする方に非があると思うのだが。
「あれって3,000キロごとやろ? さすがにまだそこまでは……」
「いや、2,000ぐらいで換えた方がええって、ウチが世話になってる店のおっちゃんは言うとったで」
2,000キロであれば、前回のオイル交換からすでに過ぎているかもしれない。
「ほんまか……今からどっかの店に持ってく?」
「そうしよ。でもその前にもう一杯食ってこ」
二杯目はどこにするか意見が割れたので、分かれて別の店で食べることにした。ここは連食する人向けに、ハーフサイズも用意されているのがありがたい。
適当なバイク屋に立ち寄ったところ、見ず知らずの旅行者に対しても店の人は親切に接してくれた。オイル交換も滞りなく完了し、宿へ帰還する。
「ふーい、寝るか」
敷きっぱなしの布団へ身を投げるように転がる楓。
「まだ寝れるんか」
「いや、さすがにもう無理やわ」
「……そうや、おかんに電話しとって」
「えー……」
楓は横になったまま、大儀そうにスマホを耳に当てる。
「繋がらんわ……汗かいたしもういっぺん風呂行ってくる」
姉が部屋を出て数分後、渚のスマホが鳴った。
「私だ」
『お前だったのか……って、さっきお姉ちゃんから電話きてたみたいなんやけど……』
「今風呂入っとるわ」
『ふーん? アンタらホテルにおるの? あれからどうもない?』
「ホテルっつーか民宿みたいな感じ。……昨日姉貴が体調悪なったんやけど――」
『えっ! 風邪ひいたん?』
「うん。でもだいぶ回復したみたいやわ」
『そうなんや……まあ「気ぃつけて」って言うといて』
「わかった」
『アンタも無理しなや。北海道楽しいんはわかるけど、無事に帰ってくるんが第一やからな』
「うん、飯と睡眠はちゃんと取るようにするわ」
『用心して。でもお土産忘れんようにな』
「……アイアイマム」
通話が終わってしばらくして、楓が戻ってきた。
「姉貴、今日また洗濯しときたいんやけど」
「えっ、まだ着れる服あるやろ?」
「せやけど、帰るまでにいずれもう一回はせなあかんやん。時間あるんやし今しといてもよくない?」
楓は指を折って残りの日数を勘定すると、自分の荷物をゴソゴソと探った。
「よし、任せるわ……はいこれ」
「……」
一応病人なので姉の分もしてやろうとは思っていたが、こうまでふてぶてしい態度を取られると少々腹が立つ。
渚は差し出された楓の洗濯物を、ふんだくるように受け取った。




