第七日 旭川 1/2
耳に届いたスマホのアラーム音を、少し懐かしく感じた。これまでは船の揺れやら鳥の鳴き声やら周囲の物音やらにより、眠りを妨げられるかたちで起きていたのだ。
カーテンを開けようとして、その下で寝息を立てる姉が視界に入る。
「ふん」
薄暗い中で簡単に身支度を済ませ、静かに表へ出た。雨は夜のうちに上がったようで、雲は多いものの陽射しが出ていた。朝練に向かう中学生に交じり優雅な散歩と洒落込む。
昨日警備員に追い返された公園まで行ってみると、肘を曲げた腕を大きく振りながらズンズン歩くじいさんばあさんと数度すれ違った。
(あれは散歩やなくてウォーキングなんかな)
ベンチに腰を落ち着け池を眺めていると、平日の早朝から何をしているんだろうと思えてきた。公園に姿を見せる人はウォーキングか、通勤通学の際に通り道にしているであろう人のどちらかで、渚のように意識の低そうな人物は見当たらない。どうにも居心地の悪さを感じ、まっすぐ宿へ戻った。
部屋のドアノブを回すと、楓は起きてテレビを見ていた。その枕元にあったマップルに手を伸ばし、渚は今日のルートを確認する。
「そういえば俺には伝染ってへんな」
「アホやから風邪引かへんのやろ。ウチは引いたから、な?」
視界の端に、楓がニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべているのが映る。渚は努めてそちらを見ないようにしつつ言った。
「ドアホになると逆に風邪引きやすくなるらしいで」
「えっ!? マジで!?」
部屋に楓を残し渚はカブに跨った。姉のせいで行けなかったアイスパビリオンと、旭山動物園を訪れるつもりだ。国道へ出た渚は、昨日ぎょうざカレーを食べた店を横目に北東へ向かう。
開館とほぼ同時にアイスパビリオンへ到着した。
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〇北海道アイスパビリオン
通年マイナス二十度に保たれている美術館。
使われている氷の総量は千トンにものぼる。
敷地内には何故か神社やツリーハウスもある。
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入館料を払い、広場の長椅子に腰掛けて職員さんの説明を受ける。ろくに調べもせずに来てしまったが、ここは単に極寒を味わえるというだけでなく、様々な彫刻を鑑賞できる美術館でもあるらしい。
(まあ「寒い」一辺倒では商売も難しいやろな)
今まで訪れた最も寒い場所といえば、真冬のスキー場になるだろうか。そこでもマイナス十度を下回ることはなかったはずだ。マイナス二十ともなると、まったくの未知、未体験の世界ということになる。渚は少々の緊張を覚えた。
無料貸出の防寒着を羽織ったのち、職員さんから食卓を拭くのに使うような濡れ布巾を手渡された。
「えっと……これは?」
「持ったまま中を回ってみてください。すぐカチンカチンに凍っちゃいますよ」
「なんと」
すぐとはどのくらいなんだろう、と思いながら二重扉をくぐる。
「うっ――」
汗ばんだ体に心地良いと感じたのは一瞬だけだった。普通に息を吸うだけでも肺が痛いくらいに冷やされ、吐息は白く立ち込めて渦を巻く。顔の肌はチクチク刺されるようだ。みるみるうちに全身の筋肉は強張り、皮ふが粟立つのを覚える。
(とりあえず進まんと)
ライトアップされた鏡張りの回廊を早足で歩く。天井から無数の氷柱が垂れ下がる空間を抜けると、氷の彫刻が立ち並ぶエリアに出た。
まさに氷の世界だ。
(毎日吹雪吹雪やないだけマシか……)
「あっ……」
ポッケの中の丸めた布巾が、気づけばほとんど凍っていた。ずっと冷気に晒されている顔面はとっくに感覚が麻痺して、冷たいのか熱いのかも判別できなくなっている。
「おろ」
「暖かい家/Warm room」と掲げられた部屋を見つけた。家かroomかはっきりしろと心の中でツッコミながら、最少最短の動作で中へ押し入る。
だがそこは、三メートル四方の狭い空間に、家庭用の小さなヒーターが一台置かれているだけの寒い部屋だった。
(向こうよりは暖かいてことか?)
そこにいても体温が回復することは決してないだろうと判断し、渚はその家とやらをあとにした。
さらに進んだところでとんでもないものを発見する。
「マイナス41度体験コーナー」。何故41なのだろうと思ったら、旭川で1902年に記録された国内史上最低気温にちなんでいるらしい。壁には「緑のボタンを押してください」との張り紙、天井にはぽっかりと穴が空いている。
もはや苦痛でしかないのだが、「せっかくここまで来たんだからやらねばなるまい」という貧乏性のためにスルーすることはできない。
「ポチッとな」
ボタンを押すと、天井からものすごい勢いで白煙が噴き出してくる。バラエティ番組で見るような煙だが、それが筆舌に尽くしがたいほどの低温で、威力はまさにブリザードといった感じだ。
(いや、ブリザードに遭ったことはないけど)
さすがに雪や霰が混じることはなかったものの、その冷気は度が過ぎている。もはや寒いとか冷たいとかいうレベルではなく、ただひたすら痛い。そして苦しい。ターミネーター2のワンシーンが脳裏に浮かんだ。




