第五日 宗谷岬・エサヌカ線 3/3
しばらくぼんやりしたのちエサヌカ線を抜け、浜頓別から南西方向へ舵を切った。町外れの道でソロのハンターカブとすれ違い、ほぼ同時にヤエーを送り合う。
「やっぱカブ見つけると嬉しくなるよな」
「わかる」
二人は山あいの道に入る。道路の両側が見通しの悪い茂みになると、再び熊のことが意識に上ってきた。
「ちょっとストップ! 一時の方向」
「えっ!? 出た?」
減速する楓に合わせて強めにブレーキをかける。渚は停止するなり、右前方にいたそいつの姿をまじまじと眺める。
「またずいぶん鹿っぽい熊やな」
「鹿やんけ」
道端にいたその鹿は半ば茂みへ踏み込んで、そこに留まったままこちらの様子をうかがっていた。以前奈良で見た鹿よりも明らかに大きい。枝分かれし天に向かいそびえる角が、貫禄とスゴ味を感じさせる。
「やっぱでかいな……エゾシカやっけ?」
「もう半分トナカイやん」
跨ったままスマホを構えて何枚か撮影する。
「なあ、熊って鹿喰うんかな?」
「そら喰うんちゃう……?」
二人は顔を見合わせた。
「よし行こ」
「合点承知」
速やかにその場を走り去った。
「宅地100坪をタダで差し上げます」という道端の看板を見つけてひとしきり盛り上がったのち、小さな峠の頂上で楓が歓声を上げた。
「音威子府キター!」
「何やいきなり」
「ほら、北海道の地名って珍妙なやつが多いやん? そん中でもひときわ尖ってるんがここなんよ」
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〇音威子府
旭川と稚内の中間あたりに位置する、道内で最も人口の少ない村。
現在の住人は六百名弱。
日本最北のそばの産地であり、村の名産にもなっている。
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「これで『おといねっぷ』て読むんか……」
「子」という字面や音の響きから柔らかい印象を受ける一方、「威」の自己主張が強すぎて、何ともいえないミスマッチを起こしている。
「ここは何があんの?」
「黒いそばが名物らしくて、駅の中にある立ち食いの店がオススメらしいんよ」
「駅ナカの店がオススメって、名古屋のきしめんみたいやな……まあ行ってみよか」
国道275号を南下し40号に入ったところに音威子府駅はあった。ここも道の駅が併設されている。だが件のそば屋は昼営業のみのようで、すでに閉まっていた。
「はあああ……」
深いため息をついた楓は、ゼンマイが切れたように待合のベンチへと倒れ込んだ。
「駅そばってさあ……少なくとも六時七時までは開いとるもんちゃうの?」
「街中やったらそうなんやろうけど……」
時刻表を確認したところ、ここも稚内駅と同じく一日七本ほどだった。ほかのそば屋を検索してみたが、この時間に営業しているところはもうないようだ。
「今日泊まるキャンプ場ってこっから近いんやっけ?」
「むーぃ」
無人の駅舎のベンチに身を預けた楓は、半開きの目を天井へ向けたまま肯定とも否定ともつかない返事をした。どうもここのそばをかなり楽しみにしていたようだ。生まれも育ちも大阪のくせに、何故か楓はうどんよりそばを好む。
「もう店ないで」
「んー……こんなことならあそこのホタテめしも食っとけばよかったか……?」
未練がましい姉をその場に残し、渚は駅舎の一角にある展示コーナーへと足を運んだ。そこには、手書きらしい駅名の看板や、昔の駅員さんが使っていた仕事道具、鉄道のジオラマ等ノスタルジックなものが並んでいる。
鉄道に詳しくない渚は特別な感動を覚えることもなかったが、それらが今でも大切に保管されているというのは、どこかありがたいことのように思えた。
「鉄ちゃんやったらこれでテンション上がるんやろけどな……」
いつの間にか側に来ていた楓が低い声で呟く。
「そんなに楽しみやったん?」
「もちろん楽しみにしてたけど、今日まだ唐揚げしか食ってへんってのがそれ以上に効いとる気がする」
「すぐそこにセコマあるし、旨いもん買うていこ」
買い出しを済ませた二人は、今夜の寝床まで走った。国道を少し外れたところに温泉があり、その近くに無料のキャンプ場が設けられている。
「おっ、悪くないな」
緑の芝生は短く刈り込まれている。管理人はいないようだが小綺麗なところだ。
「ちょっとトイレ確認してくるわ」
「確認?」
楓は荷解きもそこそこにトイレへ向かう。適当に場所を見繕いテントを準備しているところで、姉が帰ってきた。
「OK便所やったわ」
「牧場みたく言うなや」
二度目のテント設営は何事もなく完了した。
「テントの向きってどうやって決めるべきなんやろ」
「北枕にならんようにとか?」
相変わらずペグを打っていないため、荷物を入れる前であれば自由に向きを変えられる。
「まあどうでもええか。さ、温泉行こ」
歩いてすぐの距離だが、横着してカブに乗った。
湯船に首まで浸かった渚は体をぐっと伸ばし、一気に脱力する。若干ぬるめの湯に全身を優しく撫でられると、そのまま体が溶けてしまうような感覚に陥った。
「くはぁー……」
意図せず深いため息が漏れる。思った以上に疲労が蓄積しているようだ。
――バイクは手先足先のみの操作で走る乗り物だ。ほとんど座っているだけなのだから、車と同様に疲労も少ない。
(そんなふうに考えていた時期が、俺にもありました)
バイクに乗り始めて間もなくそれが大きな誤解だと気づいたものの、まさかここまで疲れが溜まるとは予想していなかった。
当然のことだが、バイクはわずかに操作を誤っただけで転倒する危険をはらんでいる。周囲の車や歩行者に加えて、路面にも絶えず気を配る必要がある。常に走行風にさらされるうえに、横風に吹かれれば足腰に力を入れて踏ん張らなければならない。
(ツーリングってこんなハードやったんやな……)
たとえ自腹を切ってでも、明日はちゃんとした宿に泊まろう。そう思いつつ湯から上がった。
「めっちゃ腹減ったわー」
「遅かったな」
辺りが薄闇に包まれたころ、入浴を済ませた楓がテントに戻ってきた。
「なあ、姉貴のその長ったらしい髪は願掛けなん? それとも非常食?」
「あん?」
今は大きなバレッタで雑にまとめられているが、下ろすと腰近くまで達する。
「乾かすん大変やろ」
「まあな……つーか完全には乾いてへんけど」
楓はテントに入れていたセイコーマートのビニール袋を引っ張り出した。芝に敷いたレジャーシートへと、その中身を並べていく。
「別に願掛けでも非常食でもないけど。万一ウチが死んだときには、アンタがこれでカツラを作って売って学費の足しにできるようにって」
「誰が羅生門のババアや」
「実際、大した理由はないな。単に切るんがもったいないってだけ」
「ほーん。それ以上は伸ばさへんの?」
「いっぺん伸ばしてみてんけどな……トイレで便座に座ったとき大変なことになったんよ」
「ああ……」
想像するとせっかくの食欲が減退しそうで、渚は考えるのをやめた。
「それで、明日の宿はありそうなん?」
楓が話題を変える。渚の方が先に上がるだろうからと、入浴前に宿探しを頼まれていた。
「素泊まりで民宿っぽい感じやけど、安いとこいくつかあったで」
「そいつは結構。あとで見せてもらうわ」
渚が今宵のメインに据えたのは豚丼だった。二日前のキャンプ場で一口食べた味が思い出され、つい買ってしまった。
対する楓はカツ丼をチョイスした。これは三日前に渚が一口分けてやったものだ。
空腹の反動か、二人とも五分足らずで丼を平らげてしまった。続いて渚はすじこおにぎりを手に取ったが、楓はショルダーバッグから平たい容器を取り出した。
「何それ!?」
「ザンギ弁当」
楓はあっけらかんと答え、蓋をとめているテープを剥がしにかかる。
「えっ、風呂入ってから買うてきたってこと?」
「ああ、やっぱ足りんやろと思ってな。さっきのセコマまでひとっ走りして『今ここに俺が来なかったか?』つって」
「とっつぁん何しとんよ……そしたら今日の飯オール揚げ物になるやん」
「いや、これのあとパン食うからオールではない」
「腹はち切れろ」




