第五日 宗谷岬・エサヌカ線 2/3
丘を下った二人は、「流氷館」へ向かった。入場無料の小さな施設だが、マイナス十度の低温室が設けられている。そこには本物の流氷が一年中展示されているらしい。
「おお、ここやここや」
最北端の売店の隣にそれはあった。売り場を突っ切って低温室の前に来たものの、厚く重そうな扉の前には立入禁止のパネルと赤いコーンが置かれている。
「何これ、中入れへんやん」
小さなのぞき窓から中をうかがうと、コンビニほどの広さの内部に、ゴロゴロと氷の塊が転がっているのが見えた。アザラシやシカ、ペンギンやキツネの剥製もそこかしこに佇んでいて、生きていれば相当賑やかになったことだろう。のぞき窓の近くには室内の温度を示すモニターがあり、「-171」という数字が並んでいる。
「えっ? さすがに低すぎへんか」
「おい視力1.2。小数点付いとんで」
よくよく見ると「7」の後ろに小さな点が打たれている。
「マイナス十七度とか想像できんな」
「ウチは経験あるで」
「ああ、シベリア抑留のときな」
「アホか。子どものころ足の指にイボができてな、液体窒素当てられたんよ」
「うわぁ……」
最前通り抜けた売店を冷やかす。何も買うつもりはなかったが、レジの横で「最北端到達証明書」なるものを発見して心を動かされた。
「あれ買うてみよかな……」
渚の呟きに楓が反応した。
「えっ、到達証明? 別にええやろ、写真ようさん撮ったし」
「でも何ていうかさ、物理的に形に残るものがほしいやん」
「いや、こんなんただの紙とインクやで? いくらや……二百円? 高すぎやろ」
「姉貴、冷静に考えてみいや。ここまで来るのに俺らはどんだけの金と時間と労力を費やした? ひっくるめて十万は下らんやろ? 十万かけてここにたどり着いた証が二百円ってむしろ超安くないか?」
自分でも相当無茶な理屈を捏ねているなと感じながら、渚は持論を説く。
「……なるほど。ウチも買うわ」
逡巡ののち、姉はあっさりと主張を翻した。そのうち悪徳商法に引っかかるのではないかと心配になる。
「すいませーん」
近くで品出しをしていたおばちゃんに声を掛けた。にこやかな笑みを浮かべるおばちゃんは、慣れた手つきで証明書を包んでくれた。
「アンタたち姉弟で旅行? 仲良いのねえ」
「仲が良い」に反応した二人は、同時に顔を見合わせる。渚は猪木に対抗し、ほっぺの裏に舌を思い切り突き立てた。楓も肩を波打たせ、室井慎次ことギバちゃんになった。
最北端のトイレで用を足し駐車場へ戻る。
「さっきの到達証明の件で気づいたわ」
楓は一転して真面目な顔になっていた。
「この宗谷岬が折り返し地点や。こっからは帰り道」
「えっ!? もう?」
「もちろんいろいろ寄り道するけど、基本的に苫小牧に向かって南下することになる。まあ日程的には明日の昼でちょうど半分やな」
「……そうか」
家を出て五日目。
走って食べて寝る。地元の人や旅行者と出逢い、束の間の交流ののち別れる。そのすべてが初めて訪れる土地で展開されていて、今後赴くことは二度とないかもしれない。
そういった非日常にようやく対応できかけていたのに、これでもう折り返しだとは。ヘルメットを手にしたまま、渚は霞む水平線を見つめていた。
「次は宗谷丘陵を経由して、また海沿いの国道を走るで」
「おう」
「感傷に浸るんもええけど、事故らへんことが一番やからな」
先ほど徒歩で登った丘を、今度はカブで上がっていく。
「あっ!」
前を行く楓が突如ブレーキを掛け、渚もまたレバーを強く握る。事故るなと言ったそばから、危うく追突するところだった。
「急に止まんなや……誰かトゲゾーでも撃ったんか」
楓はリアブレーキを踏みながら、スマホを確認して岬を振り返る。
「最北端のガソリンスタンド行くん忘れとったわ」
「えっ?」
「『最北端給油証明書』みたいなやつとストラップがもらえるんやて」
渚はガソリンのメーターを確認する。目盛りの六つある燃料メーターのうち、ひとつしか点灯していなかった。
「危なかったわ……じゃあ行こか」
流氷館のほど近くにそのスタンドはあった。給油証明書は確かに受け取ったものの、ストラップが出てくる様子はない。シールドをはね上げた楓が遠慮がちに申し出る。
「あのー、ここって給油したらストラップみたいなんもらえるって聞いたんですけど」
「ごめんなさいね。あれはお会計千円以上のお客さん限定なんですよ」
「あ、そうですか……」
カウンター一発であっさりと沈んだ楓は、うなだれたままカブに跨った。先ほどUターンした坂道に再び入る。少し行くと和やかに草を食む数頭の黒い牛に出くわし、そこから先は緩やかなアップダウンを繰り返しつつ広大な丘陵を走った。淡い緑の牧草が海風で一方向に揺れている。
やがて、サロベツ原野で見かけたような風車が立ち並ぶ地帯へ入った。
「ほーう、これまたええもんやなあ」
宗谷岬を出た旅行者のほとんどは海沿いの道を行くのだろうか、この緑と風車の丘は極端に交通量が少ない。
「なあ姉貴」
「んー?」
「前後替わってくれへん?」
「トゲゾー当たるで」
楓はそう言いながら、アクセルから離した右手で前に行くよう合図した。その前に出た渚は、姉の前方三十メートルの位置につく。楓が少し右にズレることで、ちょうどポジションを交替するかたちとなった。
「おお……」
これまで常に見えていた姉の後ろ姿が消え、景色を遮るものは何もない。見えない力に背中を押され、大気の中を滑っているようにも感じられる。
半ば無意識のうちに、アクセルを余分に開けた。さらに加速しかけたとき、後方から鋭い声が届く。
「あんまり飛ばしなや!」
「でも俺は外装慣らしまだやし」
「旅先での事故はどう考えてもまずいやろ。特に北海道では」
「なんで北海道?」
「北海道は事故ったときの死亡率が全国ワーストなんよ」
「マジで?」
「分母に事故発生件数を取った場合はな。車の巡航速度が段違いで事故の規模がでかくなりやすいし、いざ事故ったとき救急車が来るんも病院へ運ぶんもやたらと時間かかるやろ? それで処置が遅れて死ぬっつうパターンが多いとかなんとか」
姉の忠告は実に的を射ていた。もしここで事故を起こせば、まともな治療を受けられる病院まで何分かかるのだろう。
「オーケーわかった。わかったからその銃を下ろしてくれ」
アクセルを戻し、エンジンブレーキで徐々に減速する。ミラーに映る楓が小さく頷くのが見えた。
しばらく走ってから国道238号へ復帰し、道の駅「さるふつ公園」で休憩をとった。
「もうグローブ乾いたわ」
「ウチも。やっぱ濡れたもんは走行風で乾かすんが一番やな」
ここ猿払はホタテが名産のようだ。すでに陽は高く昇っており、早めの昼食と洒落込むのも悪くない。
「やっぱホタテにしよか……」
店先のパネルには、ここのホタテめしがどこかのコンテストで入賞した、などと書かれている。
「一応ほかの店も見てみようや」
二人はいくつかある売店を遠巻きに眺めながら、何か良さげなものはないかと目を光らせる。とある店ののぼりを前にして楓が口を開いた。
「エイの唐揚げか……」
「あの平べったいやつ? あんまり美味そうな感じせえへんけど」
「わかってへんな。エイって終戦直後とか食いもんに困ったときにはわりと食べられてたんやけど、当時はアンモニアくさくて不味い魚やという印象が強かったんやて。でも獲れたてのエイを上手に調理したら決してアンモニアくさいことはないし、それどころか肉質の素晴らしさを十分に引き出せば、最上級の魚料理のひとつとなりうるんよ。ちなみにアンモニア臭がするのは排尿期間が未発達やからなんやけど、そのおかげで普通の魚よりずっと腐りにくいんやわ」
「それ絶対美味しんぼの受け売りやろ……あとあれは魚でええの?」
「まあ食ってみようや」
二口サイズの唐揚げは、紙コップに数ピースが入れられていた。爪楊枝を突き立てたそれを持ち上げかじり付く。唐揚げにしては濃い味付けで、胡椒が効いている。
「うーん、何か肉のような魚のような……」
「まあ悪くない」
唐揚げを食べ終えた二人は、橋を渡ってから国道を折れ細い農道へ入った。小さな集落を抜けると、どこまでも続く直線道路が目の前に延びる。渚は浮き足立って言った。
「これがあれか! エヌサカ線」
「エサヌカな」
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〇エサヌカ線
猿払に位置する十数キロのまっすぐな村道。
厳密には一直線ではなく、途中に二か所のクランクがある。
道道106号よりは短いものの、交通量が少ないので写真を撮りやすい。
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雰囲気はサロベツ原野の道道に似ているものの、今日の空は穏やかに晴れている。目の前に広がるのは、空、牧草、そして一本道のみ。
「ひゃっはー!」
テンションが急上昇した渚はギアを三速に落とし、アクセルを目いっぱい回した。先ほど受けたばかりの忠告を忘れたわけではないが、この絶景を目前にしては致し方ない。これほどまっすぐで交通量もなければ、そもそも事故ることはないだろう。
「ほどほどにしときや!」
呆れた調子の姉の声を無視し、渚はクロスカブを走らせた。
(せっかくの北海道なんやから、これをやらんことには……!)
愛車の最高速がどれほどのものか、渚はかねてから試してみたいと考えていた。だが加速らしい加速を見せたのは一瞬だけで、間もなくカブというマシンの限界が見えてしまう。八馬力のエンジンは唸りを上げているものの、速度計の針の動きは鈍い。少しでも抵抗を減らそうと、身を屈めて前傾姿勢をとった。
「ん?」
上目遣いに睨む前方に、キラリと光る粒状のものが見えた。甲高いエンジン音とともにそれが大きくなったかと思うと――
「うおっ!?」
渚の横を猛スピードで通過し、後方へと消えていった。
「バイクやったよな……?」
渚はゆっくりとブレーキをかけ端に停車した。今さらになって背筋が冷たくなるのを感じる。毒気を抜かれたように最高速への気持ちが失せ、道の真ん中に座り込んで姉を待った。点のように見えていた楓のハンターカブが次第に大きくなり、クロスカブの後ろへ停まる。
「飛ばすな言うとるやろ」
「俺の中のディフェンスたちがオフェンスへ走りたがるんよ」
「まあ先月まで十代のガキやったわけやし、気持ちは分からんでもないけどな」
姉は弟と背中合わせになるように腰を下ろし、しばし二人でそれぞれの地平線を見つめていた。
楓が思い出したように口を開く。
「しっかし死ぬほど飛ばしとったな、あのバイク。どんだけウンコ漏れそうなんよ」
「なんでウンコって決めつけるん?」
「そう考えると精神衛生上ええんよ。特に煽られたときとか」
確かにそうすれば腹立たしさも半減するかもしれない。機会があればやってみよう。
「つーかこっち側、山みたいなんあって地平線見えへんねんけど。アンタあれをダイナマイトで吹っ飛ばしてきてや」
「黒澤明か」
楓は渚の背にもたれるように体重を預けてきた。
「あーしんどっ……」
「やっぱ疲れ溜まっとる?」
「んー、否定はできんな。もともとウチ体力ないし」
「あ、向こうからバイク来たわ」
一度路肩へ寄ってバイクをやり過ごし、再び路上に座り込む。
「ここらで休息日っつーかさ、ホテルらしいホテルに泊まってゆっくり回復する日も要るんちゃう? 姉貴の金で」
「自分の懐が痛まんからってアンタは……。でもほんまにそうした方がええかもな。今日はキャンプやけど、明日は旭川あたりのホテル泊まろか」




