帰還不能SS深層へ——奈落送り
配信は、すぐに再開された。
俺はそれを、ダンジョン内の休憩スペースに設置された小型モニターで見ていた。監査対象は隊列に入れない。でも通信は生きている。エクレールのギルド内チャンネルに、配信のミラーが流れていた。
ただし録画も外部送信もできない。
見られるだけだ。黙って見てろ、ということだ。
画面の中心にいるのは、天城迅。
いつも通りの笑顔。いつも通りの声。いつも通りの“正義”。
同接は落ちていなかった。むしろ増えていた。三万を越えている。
「神話級」「運営ストップ」「続報」――この三つのワードだけで、人は集まる。好奇心は燃料だ。真実かどうかは関係ない。燃えればいい。
「みんな、待たせてごめん。状況だけ説明するね」
天城の背後には、もう隠し部屋は映っていない。中層のメイン通路。見慣れた霧。見慣れた結晶壁。何もなかった場所に、画角が戻されている。
俺は画面の外にいた。
配信機材への接触禁止。運営の指示。
つまり――映らない。
映らない人間は、いないのと同じだ。
天城は言った。
「さっきの未登録区画の件。鳴海朔が、独断でログを回しました」
コメントがざわつく。
> 「え、鑑定士の名前出た」
> 「誰それ」
> 「あー、さっきの置物?」
> 「独断でログ回すのアウトなん?」
> 「チーム案件で勝手はダメだろ」
天城は困った顔をしていた。眉を下げて、少しだけ目を伏せる。
“俺だって言いたくない”の顔。“でもみんなには正直でいたい”の顔。
演技だと知っていなければ、俺でも信じる。それくらい、天城の「困った顔」は完成されている。
「企業案件の規約が絡んでてね。運営から止められたんだけど、朔が――ちょっと熱くなっちゃって」
“熱くなっちゃって”。
俺の三年間が、それだけで処理された。
天城は続けた。声のトーンを少しだけ落として、「これは重要な話ですよ」というサインを視聴者に送る。
「まだ確定じゃない。だけど運営から“監査対象”になった。本人にも事情聴取が入る。――俺たちエクレールとしては、正しいことをしたい。いつも通り」
正しいこと。
いつも通り。
コメント欄が一気に色を変える。
> 「やっぱ怪しいじゃん」
> 「神話級売ろうとした?」
> 「鑑定士のくせに欲出したか」
> 「迅くん可哀想」
> 「エクレールが被害者じゃん」
> 「鑑定士切れよ。足手まとい」
一つ一つの文字が釘だった。
画面の向こうの人間は、俺の顔も声も知らない。名前すら覚えていない。それでも「有罪」にできる。証拠はいらない。空気があればいい。
天城は最後にカメラを見て、少しだけ笑った。
「俺は朔のこと、仲間だと思ってた。だから……悲しいよ」
悲しい。
その一言で、数万人の感情が確定した。
天城迅は被害者。鳴海朔は加害者。
それ以外の読み方は、もう存在しない。
俺はモニターの電源を切った。
手が震えていた。怒りだと思った。でも違った。もっと冷たいものだ。
三年間信じていたものが、最初から存在しなかったと知ったときの、底が抜ける感覚。
怒りなら、まだ立てる。
これは、立てなくなる種類の冷たさだ。
---
通路を歩く足音が、近づいてきた。
軽い足音。
小春だ、と一瞬思った。
でも違う。もっと硬い。規則的。複数。
現れたのは、エクレールのサブメンバー二人と、カメラマン。
そして――天城迅。
配信は別班に回したのだろう。さっきまで画面にいた男が、こちらにいる。
十分ほどの時間差が、逆に怖かった。準備の時間だ。
天城の表情は配信の「困り顔」のままだった。でもカメラは回っていない。赤いランプが消えている。
表情だけが残って、中身が入れ替わっている。同じ仮面をかぶったまま、中の人間だけが変わった。
「朔」
天城が名前を呼んだ。
それだけで、背筋が冷えた。石室で聞いた「朔」と同じ温度だ。名前が鎖になる声。三年間、何度も聞いた。何度も従った。何度も飲み込んだ。
「運営の指示。移動する」
「……移動? どこに」
天城は頷いた。困った顔。
「監査対象は、別ルートで帰還させろって。安全上の理由」
「帰還ルートは二つしかない。どっちもこの方向じゃない」
俺が言うと、天城の目が一瞬だけ細くなった。微かな苛立ち。「余計なことを言うな」の目。三年間で何度も見た目。
「新しいルートが開いた。白石が手配した」
白石。
運営窓口の権限なら、緊急時のルート変更は可能だ。監査対象の安全確保という名目なら、手続き上は通る。手続き上は。
「そんな指示、端末に来てない」
「今、来た」
天城の言い方が軽すぎた。「今来た」は、俺が検証できない魔法の言葉だ。確認する暇を与えない。確認したときには、もう遅い。
サブメンバーの一人が、俺の腕に手をかけた。
「行きましょう。鳴海さん」
丁寧語。だが、指の力が強い。親指が上腕の内側に食い込んでいる。逃がさない持ち方。戦闘経験豊富な人間の手だ。
俺は抵抗しなかった。
抵抗したら“暴れた”になる。怒れば“問題を起こした”になる。
どの選択肢を選んでも、天城の筋書きの中にいる。
通路を歩く。
天城が前。サブメンバーが俺の左右。カメラマンが後ろ。
護送の隊形だ。
見慣れた中層の霧が、少しずつ濃くなっていく。壁の結晶の色が変わる。青みがかった白から、赤みがかった灰色へ。空気が重くなる。
この方向は、知らない。
霞門の中層マップは頭に入っている。三年間、何十回と歩いた。どの分岐がどこに繋がるか、壁の結晶の色でだいたいの位置が分かる。
今歩いているルートは、マップにない。
「……天城さん」
俺は声を出した。平らに。感情を消して。
「この通路、通常ルートじゃない」
天城は振り返らなかった。
「だから言っただろ。新しいルートだって」
「中層に“新しいルート”はない。霞門は攻略済みのダンジョンだ。未踏区画は――」
「さっきお前が見つけただろ」
天城が肩越しに笑った。
「未踏区画。あるんじゃん」
言い返せなかった。
俺が隠し部屋を見つけたことが、天城の嘘の材料にされている。
自分の発見が、自分を殺す道具に変わっている。
通路が狭くなる。天井が下がる。霧が黒ずむ。
壁面の結晶が、完全に赤くなった。
《構造看破》が、警告みたいに勝手に立ち上がる。
壁の向こうの魔力密度が、中層の基準値を大きく超えている。
この濃度は、深層――いや、それ以上だ。
心臓が跳ねた。
「……止まれ」
俺は足を止めた。腕を掴むサブメンバーの手を振り払おうとした。振り払えなかった。
「止まらないでください」
サブメンバーが囁いた。声が、微かに震えていた。
――この男も、怖がっている。
自分がやっていることの意味を分かっている。分かっていて、逆らえない。天城に逆らえない人間が、もう一人ここにいる。その事実が、状況の深刻さを教えていた。
通路の突き当たりに、扉があった。
鉄の扉。表面に、ダンジョン庁の封印札が貼られている。通常の攻略ルートには存在しない施設の扉だ。
封印札の下に、小さな認証端末がある。
天城が胸ポケットから管理キーを取り出した。ダンジョン庁の紋章が刻まれたカードキー。通常、現場の探索者が持てるものじゃない。白石が手配したのだろう。運営窓口の権限なら、監査名目で持ち出せる。
ピッ、と機械音。
封印が解除された。
扉が、重い音を立てて開く。
中は――転移室だった。
ただし、帰還用じゃない。
帰還用の転移陣は白い。魔力の流れが「上」に向いている。地上へ押し上げる構造。何度も乗ったから分かる。
この転移陣は黒い。
魔力の流れが「下」に向いている。
吸い込まれるような、深い黒。
深層転移陣。
俺の喉が干上がった。
「……これは、どこに繋がってる」
天城は振り返った。
笑っている。いつもの笑顔。配信の笑顔。
でも目の奥に、今まで見たことのない光がある。達成の光だ。
「隔離だよ。監査対象の安全な隔離」
「隔離って、深層に落とすことか」
天城が肩をすくめた。
「運営が決めた。俺じゃない」
嘘だ。
お前が決めた。お前が仕組んだ。全部お前だ。
でも証拠がない。カメラは回っていない。レコーダーは壊されている。この場にいるのは天城の部下だけで、誰も俺の味方をしない。
サブメンバーが俺の背中を押した。
強い手で、一歩だけ。
魔法陣の端に、右足が乗る。
黒い線が、靴底から這い上がってくる感覚があった。
冷たい。骨まで冷たい。
「やめろ」
俺の声が、狭い転移室に反響した。
「これは隔離じゃない。殺しだ。SS深層に帰還門はない。放り込まれたら戻れない。お前は、それを知ってる」
天城の笑顔が、一瞬だけ消えた。
そしてすぐ戻った。
今度の表情は笑顔じゃない。もっと正確な表情だった。
三年間の付き合いで、一度も見たことのない、本物の天城迅の顔。
「知ってるよ」
静かな声だった。
「だから“疑い”で止めてあるだろ。殺したなんて言ってない。戻って潔白を証明すればいい。――戻れるなら」
言い方が優しかった。
優しい声ほど危ない。
「……戻れないのを知ってて、言ってる」
天城は答えなかった。
代わりに、ポケットから小さな端末を取り出した。
画面に、数字が並んでいる。
配信の同接数だ。
三万二千。
天城は、その数字を俺に見せた。
「見ろよ。お前がいなくなった後の数字」
三万二千。俺がいた時より、一万人以上増えている。
「鑑定士が問題を起こした」というドラマが、人を集めている。
「お前の“退場”で、一万人増えた。分かるか? お前が消えることが、コンテンツなんだよ」
天城は端末をしまった。
「感謝してる。最後の最後に、役に立ったな」
言い返す言葉はあった。怒鳴る力も残っていた。
でも声が出なかった。
三年間、「いないのと同じ」だった人間が、「消えること」で初めて数字を動かした。
その事実が、怒りより深い場所を刺していた。
天城がサブメンバーに目配せした。
背中を押される。もう一歩。
両足が魔法陣の上に乗った。
黒い魔力が、足首から膝へ、膝から腰へ、這い上がってくる。
天城が手を上げた。
「じゃあな。朔」
その口が、もう一つの言葉を形作った。
音は小さく、ほとんど息だけだった。けれど俺には聞こえた。
「――発見者は、俺になる」
サブメンバーが、転移起動の短い呪文を唱えた。
床の魔法陣が、黒く脈打った。
世界が反転した。
胃が浮く。視界が白くなる。音が遠のく。天城の顔が歪んで、引き伸ばされて、消える。
最後に見えたのは、小さな画面の向こうの同接数――三万二千という数字だけだった。
そして、落ちた。
---
風がない。
音がない。
あるのは、圧だけだ。
全身を万力で挟まれているような、均一で容赦のない圧力。空気が重い。吸うだけで喉が焼ける。魔力が濃すぎる。肺に入る空気の半分が空気じゃない。
暗い。
闇という言葉では足りない。光の概念が最初から存在しない場所。目を開けているのか閉じているのか分からない。
俺は地面に倒れていた。
背中に硬い石の感触がある。四肢が動く。骨は折れていない。転移は殺さない。殺すのは、ここにある環境だ。
視界の端に、警告が走った。
```
[Warning]
Area: SS Depth / Abyss Prison
Return Gate: NONE
Survival Rate: <1%
```
帰還門:なし。
生存率は、1%未満。
俺は笑いそうになった。笑うしかない。
“隔離”。
きれいな言葉で、俺は奈落に捨てられた。
身体を起こす。腕が震える。立てる。膝が笑っているが、折れてはいない。
暗闇の中で、《構造看破》が勝手に起動した。
視界が解体図に変わる。壁の層が、ありえないほど分厚い。地上のダンジョンなら数メートルの岩盤が、ここでは数百メートルの密度で俺を囲んでいる。魔力の流れが、川ではなく海だ。巨大な渦が、ゆっくりと回転している。
――ここは、世界の底だ。
遠くで、何かが鳴いた。
獣の声じゃない。もっと低い。もっと大きい。地鳴りみたいな声。距離が分からない。音の伝わり方が、地上と違う。
俺は自分の手を見た。暗闇の中で、ステータスの光だけが薄く指先を照らしている。
```
Name: 鳴海 朔
Job: 遺物鑑定士(Artifact Appraiser)
Lv: 15
HP 312/312
MP 498/540
```
MPが減っている。《構造看破》の自動起動で消費したぶんだ。回復手段はない。ポーションは隊列の補給班が持っている。俺の手持ちは――何もない。
鑑定士が一人で深層にいる。戦闘能力ゼロ。回復手段ゼロ。帰還手段ゼロ。
死ぬために落とされた。
それ以外の解釈がない。
俺は頭を振った。
考えるな。感じるな。ここで絶望に浸っている余裕はない。生存率がゼロじゃないなら、手順はある。
(手順でいく)
――何もない。
それでも口が勝手に動く。
(手順でいく。手順で――)
声にならなかった。喉が詰まって、空気だけが漏れた。
暗闇の中で、俺は一人だった。
---
どれだけ歩いたか分からない。十分かもしれない。一時間かもしれない。時間の感覚が溶けている。
《構造看破》だけを頼りに進む。壁の構造線が薄く光っている。それだけが、唯一の光源だった。
ふと、構造線に別の線が混ざった。
壁の線じゃない。床の線でもない。
――人工物の線。
誰かが、何かを、ここに残している。
俺は足を速めた。暗闇の中で、線だけを追う。
通路が開けた。広い空間に出た。天井が高い。反響が変わった。
その空間の中央に、光があった。
魔力で灯された、古いランタン。
ランタンの下に――人影。
《構造看破》が、自動で人影をスキャンする。
```
[Detected]
Human Signature: 1
Status: Alive
Distance: 32m
```
人間。
この深層に、俺以外の人間が――生きている。
息が止まった。
恐怖じゃない。もっと原始的な反応だ。暗闇の中で一人でいた人間が、突然「他者」に触れたとき、全身が固まるあの感覚。
人影が動いた。ゆっくりと、こちらを向く。
老いた顔。深い皺。白い髪。
しかし――目だけが、異常に強い光を放っている。闇の中で、その目だけが生きている。
「……まだ生きてるのか」
声が響いた。
老いた声だ。喉の奥から絞り出すような枯れた声。
だが芯がある。折れた声ではない。折れなかった声だ。
「落ちてきた音は聞こえた。転移の残響。――どうせ、捨てられたんだろう」
俺は答えられなかった。
“捨てられた”という言葉が、正確すぎた。
老人は立ち上がった。思ったより背が高い。痩せているが骨格は大きい。若い頃は相当な体格だったのだろう。
「名前」
「……鳴海、朔」
「ジョブ」
「遺物鑑定士」
老人の目が一瞬だけ動いた。驚きじゃない。もっと複雑な何か。懐かしさに似ているが、もっと鋭い。
「鑑定士か」
老人は小さく笑った。
「来い。坊主」
老人が背を向けて歩き出す。
俺は動けなかった。まだ足が床に貼り付いている。
「……あんたは」
声が出た。掠れていた。
「あんたは、誰だ」
老人は振り返らず、闇の中に声だけを残した。
「八雲玄舟。――お前たちの言葉で言うなら、“初代探索者”だ」
初代探索者。
ダンジョンが出現した最初期に突入し、そのまま行方不明になった伝説の人物。教本に名前だけが載っている。写真はない。記録もほとんどない。存在したかどうかすら議論になる。
その人間が、ここにいる。
奈落の底で、生きている。
俺の足が動いた。いつの間にか、歩いていた。
闇の中を、老人の背中を追って歩く。
構造看破の視界が、老人の周囲だけ異常な密度の情報を返してくる。処理が追いつかない。神話級の遺物をスキャンしたときと同じ症状。
この老人は、人間なのか。
分からない。
分からないが――歩くしかない。
止まったら、死ぬ。
それだけは確かだった。




