第90章 偶然を疑う者
校長室は、夕刻の光に包まれていた。
分厚い書類の山の向こうで、校長は静かに息を吐く。
「……ひとまず、最悪の事態は免れた、か」
リュシアたちから届いた一連の報告は、
確かに希望を含んでいた。
被害の拡大は止まり、
不自然な消失も、いったんは沈静化している。
教師たちも、あれ以来、目を光らせている。
だが——
(それでも、難しい)
校長は眉間にしわを寄せた。
教師同士ですら、互いを完全に信じきれない。
誰が、どこまで関わっていたのか。
知らなかったのか、見ないふりをしたのか。
疑心暗鬼は、静かに学園を蝕んでいた。
「……その点」
机の上に置かれた報告書を指で叩く。
「外部の視点で動いてくれているのは、正直ありがたい」
学園として、万全のサポートはしている。
警備も、記録の精査も、規則の再確認も。
それでも——
内部だけでは、見えないものがある。
⸻
ふと。
校長の思考に、ひとつの違和感が差し込んだ。
(……そういえば)
なぜ、あの事故は——
「よりによって、私とミレーヌが不在の時だった?」
口に出してみると、余計に引っかかる。
校長と副校長。
学園の防衛魔法と記録体系の、二つの要。
その両方が不在だった、わずかな時間。
(偶然、か?)
いや。
ここまで来て、
「偶然」で片付けるのは、むしろ不自然だ。
さらに——
机の端に置かれた、封印付きの書簡に目を向ける。
禁忌魔法使用許可申請。
提出から、すでに一ヶ月。
「……まだ、下りないか」
それだけ重大な案件だということは、理解している。
精神に直接介入する術。
証拠を得る代わりに、取り返しのつかない傷を残す可能性。
慎重になるのは、当然だ。
(だが)
校長は、椅子の背にもたれ、静かに目を閉じた。
「ここでは」
「“何も考えない”方が、危険だな」
ため息が、部屋に落ちる。
⸻
校長は、机の脇に置かれた小さな鐘を鳴らした。
澄んだ音。
次の瞬間、
空気が、わずかに揺らぐ。
「来てくれ」
呼びかけに応じるように、
淡い光が集まり、形を成す。
現れたのは、精霊だった。
人の姿を模してはいるが、
その瞳は、この世の理をそのまま映したように深い。
「偶然は、疑え」
校長は、低く告げる。
「私とミレーヌの不在」
「防衛魔法のほころび」
「許可が下りない、この時間」
「——すべてを、洗い直してほしい」
精霊は、言葉を発さず、ただ静かに頷いた。
そして、光となって、学園の奥へと溶けていく。
⸻
校長は、再び窓の外を見た。
夜に向かう学園。
静かで、平穏で——
だからこそ、油断できない。
(偶然ではないとしたら)
(これは、まだ“終わっていない”)
その確信だけが、
胸の奥で、静かに重みを増していた。




