第76章 名前のない人物
最初に戻ってきたのは、意識だった。
「……?」
ユリアンは、ゆっくりと瞬きをした。
天井が見える。
見慣れない場所——けれど、怖さはない。
(……どうして、ここに?)
身体を起こそうとして、やめた。
頭が、まだ重い。
「無理に動かなくていい」
穏やかな声がした。
副校長だ。
「ここは安全だよ」
ユリアンは、胸に手を当てた。
鼓動は少し早いが、確かに“自分のもの”だと分かる。
「……殿下たちが」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
「カッシウス殿下と、フローラ様が……」
「呼んでくださって……」
その記憶だけが、妙にはっきりしている。
「嬉しかったんです」
「すごく……」
副校長は、静かに頷いた。
「他に、覚えていることは?」
ユリアンは眉を寄せ、必死に探る。
「……ミカエル、という人です」
その名を口にした瞬間、
校長と副校長の視線が、わずかに交差した。
「ミカエル?」
校長が、復唱する。
「生徒で、その名の者が……いたか?」
副校長は首を横に振る。
「少なくとも、私の記憶にはありません」
「でも、いたんです」
ユリアンは焦ったように続けた。
「上級生で……」
「とても感じがよくて」
「相談に乗ってくれて……」
校長は、何もない空間に手を伸ばした。
空気が、静かに歪む。
——ぱらり。
重厚な一冊の書物が、音もなく現れた。
在学中の全生徒の情報が記された、
学園の生徒名簿辞書。
校長は表紙に触れ、静かに告げる。
「ミカエル」
書物が、反応しない。
「……」
校長は、もう一度呼んだ。
「ミカエル・——」
それでも、ページは動かない。
副校長が、ユリアンに向き直る。
「外見を、詳しく教えてくれるかな」
「髪の色、目の色、背丈、話し方」
ユリアンは、思い出す限りを語った。
穏やかな声。
丁寧な言葉遣い。
笑顔。
どこにでもいそうで、
だからこそ印象に残らない——そんな人物。
校長は、その情報をもとに辞書を操作する。
だが。
「……一致しない」
低く、校長が言った。
「生徒にも、教職員にも」
「“ミカエル”という存在は記録されていない」
室内に、沈黙が落ちる。
ユリアンの喉が、小さく鳴った。
「……じゃあ」
「私が話していた人は……?」
副校長は、はっきりと言った。
「記録の外にいる存在だ」
「もしくは——」
言葉を選びながら、続ける。
「記録から消された存在」
校長は、辞書を閉じた。
その音が、やけに重く響く。
「名前がない」
「だが、確かに“接触している”」
校長の目が、静かに細められる。
「これは、偶然ではない」
ユリアンは、自分の背中を冷たいものが這うのを感じた。
殿下たちに呼ばれた記憶は、温かい。
だが——
それ以外の部分は、まるで霧の中だ。
「……私」
「何を、されたんでしょうか」
副校長は、即答しなかった。
代わりに、そっと言う。
「それを、これから突き止める」
校長も頷く。
「そして——」
「二度と、起こさせない」
ユリアンは、震える指を握りしめた。
“ミカエル”。
その名前だけが、
ありえないほど、はっきりと——
胸の奥に残っていた。




