第74章 揺らいだ壁の向こう
アデルが報告を受けて慌てている——
それは、はっきりと分かるほどの変化だった。
いつも整えられていた歩調が乱れ、
書類を抱えたまま立ち止まり、
周囲に鋭い視線を走らせる。
その一瞬。
——隙が、生まれた。
⸻
「……今だ」
影からそれを見ていたのは、
フェリクスとアイリスだった。
アイリスは、息を殺していた。
(ほんとに……動いた)
フローラ王女とカッシウス殿下が動いた。
その事実が、空気を変えている。
「フェリクス」
小さく、だが確信を込めて囁く。
「前に言ってた場所」
「……見に行くべき」
フェリクスは一瞬だけ迷い、
すぐに頷いた。
「ああ」
「今しかない」
⸻
二人が向かったのは、
かつて女性教授が証言していた回廊。
——ローデリクが、
アデルと並んで歩いていた場所。
「突き当たり……のはずだよな」
フェリクスが呟いた、そのとき。
アイリスが、ぴたりと足を止めた。
「……揺れてる」
壁だった。
ずっと、
“何もない石壁”だと思われていた場所。
だが今、
空気が、水面のようにゆらめいている。
「結界……いや、偽装」
アイリスの声が、わずかに震える。
恐怖ではない。
高揚だ。
「——入れる」
フェリクスは短く言った。
次の瞬間、
二人はその揺らぎをくぐっていた。
⸻
中は、静かだった。
異様なほどに。
広くもない部屋に、
数名の生徒がいた。
椅子に座ったまま、
天井を見つめ続けている者。
何もない空間を見上げ、
ケタケタと笑っている者。
指を伸ばし、
何かを掴もうとするように、
宙を掻いている者。
「……っ」
アイリスは、思わず口を押さえた。
(これ……)
(“いなくなった”人たち……)
フェリクスの顔から、
完全に笑みが消えていた。
「……見つけた」
声が、低く沈む。
⸻
その頃。
リュシアは、教授の休憩室にいた。
質問は、
ごく普通のものだった。
だが、話の途中で——
違和感が走る。
視界の端。
さきほどまで、
談笑していたはずの教授たちが、
突然、慌ただしく動き始めた。
「……」
リュシアは、すぐに理解した。
(殿下が動いた)
(……それを、止めに来た)
次の瞬間。
彼女は、椅子を引いた。
「失礼します」
制止の声が上がる前に、
リュシアは廊下へ出ていた。
⸻
廊下。
走ってくる足音。
数人の教授補佐、助役。
明らかに、
“遮断するための動き”。
(来る)
リュシアは、深く息を吸った。
そして——
母から教わった、
伝家の宝刀。
躊躇のない、腕力行使。
一人目。
鳩尾。
二人目。
首筋。
三人目。
膝を払って、床へ。
「——っ」
誰一人、声を上げる暇もなく、
次々と気絶していく。
「……」
一緒に廊下へ出ていたカイオンは、
その光景を呆然と見ていた。
「……君」
ぼそりと、
本気で感心したように言う。
「武闘派だったんだね」
リュシアは、
息を整えながら振り返った。
「……必要なときだけです」
その目は、
もう迷っていなかった。
学園の裏側で、
確かに何かが起きている。
そして——
今なら、まだ間に合う。
その確信だけが、
はっきりと胸に残っていた。




