第73章 焦りの正体
アデルは、明らかに焦っていた。
仲間からもたらされた、たった一言の報告。
——フローラ王女たちが、動いた。
(……まずい)
喉の奥が、ひりつく。
王族が動けば、
必ず——校長や副校長の耳に入る。
学園は表向き、自治に任されている。
だが王族が関わる案件だけは、別だ。
「厄介だな……」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
⸻
そもそもの始まりは、
本当に些細な言葉だった。
教授が、書類に目を落としたまま、
何気なく口にした一言。
「今ちょうど、防衛魔法がほころんでるんだよ」
アデルは、その言葉をはっきり覚えている。
「校長と副校長が不在のときに起きた事故でね」
「結界の一部に負荷が出たらしい」
ため息混じりに、続けた。
「もともと、この種の魔法はとても繊細だ」
「完全修復には時間がかかる」
そして——
「だから今は、応急処置だけしている」
「正式な修復は、戻ってからだ」
少し困ったように、こう言った。
「私の方で一時的に対応しているけど、急でね」
「学年主任を呼んできてくれないか?」
——それだけだった。
ただの、雑談の延長。
誰も深刻には受け取らなかった。
だが。
(……その隙が、あった)
アデルは思い出す。
ほんの一瞬。
結界の流れが、わずかに歪んだ感覚。
(なら)
(“わからないように”穴を開けたら、どうなる?)
出来心だった。
本当に、出来心だった。
どうせすぐに見つかる。
自分の魔法痕跡は、隠しきれない。
(実験の一つだ)
そう思った。
だが——
校長たちが戻っても、
何も見つからなかった。
(……なぜだ?)
理由は分からない。
だから次に、
もっと分かりやすい対象を選んだ。
自分や教授を慕っている、生徒の一人。
「君なら、分かるだろう?」
そう言って、軽く説明した。
彼は、むしろ嬉しそうだった。
「役に立てるなら」
「学問のためなら」
——意思は、似ていた。
だから、かけた。
精神への、わずかな介入。
「実験」だ。
破壊ではない。
制御と調整。
(私は、間違っていない)
教授も、何も言ってこない。
止めないということは、
黙認しているのと同じだ。
(正しいことをしている)
(この国を、この世界を、前進させるために)
——そう、信じてきた。
だが。
フローラ王女が動いた。
それだけで、状況は変わる。
(……校長や副校長に知られたら)
さすがに、言い逃れはできない。
指先が、無意識に震えた。
「……まずいな」
笑みを作ろうとして、失敗する。
頭の中で、思考が早回しになる。
隠すか。
切るか。
それとも——
(……まだ、間に合うか?)
アデルは、静かに息を吸い込んだ。
焦りの正体は、恐怖ではない。
自分が正しいと信じてきたものが、
否定されるかもしれない——その可能性。
それだけだった。




