第65章 思い出されてしまった違和感
カイオン、リュシア、フェリクスは、
ここ数日、同じ感覚を共有していた。
——何も起きていない。
ユリアンは相変わらずだ。
時折ぼんやりしているが、嫌がらせをやめたわけではない。
ただ、どこか力が抜けたようにも見える。
アデルも同じ。
教授の助役として、
実験室を行き来し、学生に声をかけ、書類を運ぶ。
いつも通り。
あまりにも、いつも通り。
「……動けないな」
フェリクスが低く言った。
「疑う理由がない」
「でも、減ってる」
その“減っている”という感覚だけが、
確実に存在していた。
名前を挙げられない。
顔も思い出せない。
だが、確かに——
「いたはずの誰か」が、いない。
⸻
その日の午後。
回廊は、やわらかな光に満ちていた。
講義と講義の合間、学生も教官も、それぞれの目的地へ向かって歩いている。
学園は、表向きは完全に平穏だった。
フェリクスは、壁際に身を寄せ、
書類に目を落としながら、無意識に周囲を観察していた。
そのときだった。
前方で、
一人の女性教授が足を止める。
視線の先にいたのは——
教授の助役、アデル。
「……あら」
女性教授が、少し首を傾げた。
「アデルさん」
アデルは足を止め、
いつもの穏やかな笑顔で振り返る。
「はい、教授。何か?」
「最近ね」
教授は、思い出すように言った。
「——あの大きな生徒、見てない?」
フェリクスの指先が、紙を掴む。
アデルの動きが、
ほんの一瞬だけ、止まった。
だが、それはあまりにも短く、
注意していなければ見逃すほどだった。
「大きな生徒、ですか?」
「ええ」
教授は頷く。
「成績がとても優秀だった子よ」
「最近、クラスに来なくなっていて……」
「少し、心配していたの」
フェリクスは息を潜める。
(……ローデリク)
名前は出ていない。
だが、分かる。
「あなた、確か——」
女性教授は続けた。
「以前、その子と一緒に歩いていたわよね?」
アデルは、静かに瞬きを一つした。
「……そうでしたか?」
「ええ、覚えているの」
教授ははっきりと言った。
「だって、助役が生徒と一緒に歩くなんて珍しいもの」
「印象に残っていたのよ」
空気が、わずかに張る。
フェリクスは、影の中でそのやり取りを見ていた。
アデルは、微笑んでいる。
声も穏やか。
態度も丁寧。
だが——
(……違う)
フェリクスは、はっきりと気づいた。
(笑っているのは、口だけだ)
目が、何も映していない。
「申し訳ありません」
アデルは、穏やかに頭を下げた。
「その件については、存じ上げません」
「何かの行き違いではないでしょうか」
「そう……」
教授は、少し考え込むように視線を逸らした。
「なら、いいのだけれど」
「ええ。ご心配には及びませんよ」
アデルは、変わらぬ調子で答える。
教授はそれ以上追及せず、
軽く会釈して、その場を去っていった。
⸻
回廊に残ったのは、
アデルと——フェリクス。
フェリクスの背中に、
ひやりとしたものが走る。
(“一緒に歩いていた”)
教授は、ただ心配しただけだ。
疑ってはいない。
記録官も言った。
「問題ありません」と。
——だが。
(これは、偶然じゃない)
アデルは、何事もなかったかのように歩き出す。
その背中は、
いつもと何一つ変わらない。
だがフェリクスには、
はっきりと見えていた。
(今の返答は——)
(“知らない”じゃない)
(“なかったことにしている”)
学園は、今日も平穏だった。
成績は整い、
秩序は保たれ、
誰も声を荒げない。
だがその裏で、
記憶だけが、静かに削られている。
もう、
「気のせい」で済ませられる段階ではなかった。




