第54章 思い出せない名前
ユリアンは、相変わらずだった。
廊下ですれ違うときの、わざとらしいため息。
提出物の場所を、遠回しに間違って伝える。
誰かの前で、聞こえるか聞こえないかの声で囁く。
だが——
それを真正面から受け止めるほど、
今のリュシアは暇ではなかった。
(……くだらない)
そう思う自分に、少し驚く。
以前なら、
もう少し心を乱していたかもしれない。
だが今は違う。
(私には、やるべきことがある)
学ぶこと。
知ること。
——備えること。
それだけを考えていれば、
ユリアン一人の悪意など、歯牙にもかけない。
⸻
それでも。
最近、気になることが一つあった。
カイオンの姿を、
ときどき見失うのだ。
「……最近、忙しそうですね」
ある日の昼休み、
リュシアがそう声をかけると、
カイオンは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……まあ」
「何か、ありましたか?」
口を開きかけて、
彼は一度視線を逸らす。
「もう少し、分かったら」
それだけ言って、
それ以上は何も話さなかった。
(……そう)
無理に聞くことは、しなかった。
カイオンは、
話すと決めたことは話す人だ。
「そのうち、教えてくれるでしょう」
そう自分に言い聞かせて、
リュシアはそれ以上踏み込まなかった。
⸻
その日の帰り道。
ふと、胸の奥に引っかかるものがあった。
(……あ)
足を止める。
(あの子に、言わなきゃいけないことがあった)
確かに、そう思った。
大切なことだったはずだ。
後回しにしてはいけないことだったはずだ。
なのに——
「……誰、でしたっけ」
名前が、出てこない。
顔も、
声も、
曖昧な輪郭しか思い浮かばない。
(おかしい)
焦って記憶を辿ろうとするほど、
頭の中が、霧がかかったようになる。
(確かに、いたのに)
(“いた”はずなのに)
その瞬間。
ぞわり、と背筋を冷たいものが走った。
(……違和感)
そういえば。
最近、授業中も
ふっと集中が切れることがあった。
理由もなく、
大切な何かを思い出しかけて——
次の瞬間には、何も残っていない。
(疲れているだけ?)
そう思おうとして、
リュシアは首を振った。
違う。
これは、
単なる疲労ではない。
(……忘れている?)
(それとも——)
忘れさせられている?
夕暮れの廊下は、
いつもと同じように静かだった。
だがその静けさが、
今はひどく不自然に感じられる。
リュシアは、
胸の前で、そっと拳を握る。
(気のせいで、終わらせない)
名前を思い出せないなら、
また探せばいい。
思い出せない理由があるなら、
突き止めればいい。
——学ぶために来たのだから。
その決意だけは、
まだ、はっきりと胸の中に残っていた。




