第53章 消えた感覚
リュシアは、ようやく息をつけるようになったと感じていた。
教室の空気は落ち着き、
あからさまな視線や囁き声も、ほとんど聞こえない。
——静かだ。
それが、少しだけ不思議だった。
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(……戻った)
そう思うと、
胸の奥にあった緊張が、ゆっくりほどけていく。
もともと自分は、
ここに守られるために来たわけではない。
「境界」で起きたことを、
二度と繰り返さないために。
知るために。
学ぶために。
——防ぐために。
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机に向かう時間を増やす。
ノートの行間を埋める。
参考文献を洗い直す。
曖昧な部分を、一つずつ潰す。
集中している間だけは、
余計なことを考えずに済む。
それが、心地よかった。
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「……いい顔してるな」
ふと、声がした。
顔を上げると、
フェリクスがこちらを見ている。
いつもの軽い調子。
だが、その目は少しだけ真剣だった。
「前より落ち着いた」
「そうですか?」
「うん。雑音が減った感じ」
それ以上は言わない。
だが、その言葉に
少しだけ救われる。
(……よかった)
リュシアは、そう思った。
⸻
放課後。
フェリクスは、女友達数人と並んで歩いていた。
笑い声。
他愛のない会話。
その中で——
「ねえ」
一人が、声を潜めた。
「最近さ」
「クラスの人数、減ってる気がしない?」
フェリクスの足が、止まる。
「……誰が?」
少女は困ったように笑う。
「それが、思い出せないのよ」
「前はもう一列あった気がするのに」
「でも、誰がいたのか分からない」
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別の子も頷く。
「私も」
「なんか、ぼんやりしてるの」
「顔も名前も……霧みたいに」
「勉強のしすぎかなって思ったんだけど」
「先生に聞いたら、『問題ない』って」
「そう言われると……まあ、いいかってなるじゃない?」
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フェリクスは、笑わなかった。
「……問題ない、ね」
小さく呟く。
(数が減ってるのに)
(それで済むのか)
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視線の先。
いつも通りの学園。
生徒たちの声。
鐘の音。
夕焼け。
何も変わらない。
——変わっていないように見える。
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フェリクスは、指をゆっくり握る。
(……嫌な感覚だ)
思い出せない。
それなのに、
減っていることだけは分かる。
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それは、
忘れた感覚ではない。
もっと違う。
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(削られている)
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その言葉が、
頭の中に浮かんだ瞬間。
背筋が、冷たくなった。
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フェリクスは歩き出す。
ゆっくりと。
だが確実に。
胸の奥に、
一つの確信が形を持ち始めていた。
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(まだ終わっていない)
(むしろ——)
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静かすぎる。
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それが、
何よりも、
異常だった。




