第52章 向日葵の王女は迷わない
フローラは、その名を覚えていた。
一度聞いただけの名前なのに、
なぜか、忘れなかった。
リュシア。
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境界の問題を解決した少女。
校長が評価している生徒。
そして——
アストリア王家と縁を持つ者。
それらはすべて、
父から断片的に聞いただけだ。
「今年、面白い子が入ったそうだ」
その一言だけ。
だが、心に残った。
(どんな子なのかしら)
そう思ったまま、
日が過ぎていく。
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学年は二つ下。
立場も違う。
王女という肩書きは、
近づくためのものではない。
むしろ、距離を作る。
(いきなり話しかけたら……)
警戒されるかもしれない。
そう考えて、踏み出せずにいた。
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そんな時だった。
「そういえば、カッシウス殿下が知り合いらしいわよ」
友人の何気ない言葉。
その瞬間、
道が開けた気がした。
(じゃあ、殿下を通して——)
そう思った、
その矢先。
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「最近、下の学年で変な噂が出てるの、知ってる?」
「アストリアの子でしょ?」
「殿下に取り入ってるとか……」
足が止まる。
耳に入ってくる言葉。
ひとつ、ふたつ。
つながる。
(……それ)
(リュシアのこと?)
胸の奥が、ざわりとした。
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話を聞くほどに、
違和感が強くなる。
内容が、妙に揃っている。
同じ言葉。
同じ方向。
同じ悪意。
(これは……作られている)
その瞬間。
考えるより先に、
体が動いていた。
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教室の扉が、開く。
強く。
音が響く。
「——リュシア」
声は大きくない。
だが、
教室の全員が振り向いた。
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そこに立っていたのは、
エイドリア第四皇位継承者。
フローラ王女。
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いつもの明るい笑顔はない。
ただ、
真っ直ぐだった。
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フローラは、まっすぐ歩く。
迷わない。
誰も止めない。
止められない。
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リュシアの前で止まる。
「大丈夫?」
それだけ。
余計な言葉はない。
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一拍。
そして言う。
「私は、あなたの味方よ」
さらに、
「……殿下もね」
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空気が、変わった。
はっきりと。
誰の目にも分かるほどに。
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「え……?」
リュシアは、戸惑う。
あまりに突然で、
理解が追いつかない。
「いえ……大丈夫です」
それでも、答える。
いつも通りの声で。
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だが。
胸の奥で、
何かがほどける。
(……助けてくれた)
それだけで、
驚くほど、楽になる。
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フローラは、その表情を見て、
ほんの少しだけ微笑んだ。
「そう。ならいいわ」
だがその視線は、
一瞬だけ、
教室の奥を射抜いた。
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ユリアンは、動けなかった。
(……見られた)
(全部)
殿下も。
王女も。
知っている。
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周囲の空気が変わる。
笑い声が消える。
視線が逸れる。
その日を境に、
“正しい指摘”は、なくなった。
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「……まずい」
ユリアンの胸に、
はっきりと焦りが生まれる。
初めての感情だった。
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その様子を。
廊下の影から、
静かに見ている者がいた。
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穏やかな笑み。
柔らかい目。
だが。
そこには何もない。
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「……ふうん」
小さく息を吐く。
「予定より、早いね」
誰に言うでもなく。
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その視線が、
一瞬だけ教室に向く。
リュシア。
フローラ。
そして——
その奥。
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「でも、問題ない」
小さく呟く。
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「削る場所は、他にもある」
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その言葉は、
誰にも聞かれなかった。




