第130章 辞められない役目
王妃は、学園から届けられた報告書を最後の頁まで読み終えると、しばらく指を動かさなかった。
窓の外では、王宮の庭師たちが冬を迎えるための剪定を進めている。
枝を落とされた木々は少し寂しげに見えたが、それでも土の下では、次の季節へ向けた準備を始めているのだろう。
王妃は閉じた報告書へ、もう一度視線を落とした。
軍部過激派と教授アウルスの接触。
精神魔法を利用した学園内での実験。
アデルが引き受けた罪と、その背後に残された思想。
禁忌魔法による事実の確認。
そして、その代償としてアルケオンが失ったもの。
両目の視力。
片手の機能。
長年守り続けてきた校長という地位。
文字として並べられた事実は、あまりにも冷たかった。
報告書には、治療を担当した医師の所見も添えられている。
視力が戻る可能性は、ほとんどない。
右手についても、日常生活に必要な最低限の動作を取り戻せるかどうかという状態だった。
禁忌魔法を使えば、術者にも重大な代償が生じる。
アルケオンは、それを知らなかったわけではない。
誰よりも魔法へ精通していた彼が、自分に起こることを理解していなかったはずがない。
理解したうえで、使ったのだ。
「本当に、昔から変わらない方ですね」
王妃は、呆れたように小さく息を吐いた。
幼い頃から、アルケオンは厳しい教師だった。
王族だからと特別扱いすることはなく、課題を忘れれば容赦なく叱り、身分を理由に他人へ任せようとすれば、その場でやり直しを命じた。
王妃がまだ少女だった頃、一度だけ彼へ尋ねたことがある。
なぜ、そこまで厳しくするのかと。
その時、アルケオンは平然と答えた。
王族であるなら、失敗した時に被害を受ける人間の数が多いからだと。
だからこそ、失敗しない方法だけではなく、間違いを認める方法を覚えなければならないのだと。
当時の王妃は、その言葉をあまり好きになれなかった。
もっと優しい教師がよいと思ったこともある。
少しくらい褒めてくれてもよいではないかと、陰で不満を漏らしたこともあった。
それでも、困難な決断を迫られるたび、最後に思い出すのはアルケオンの言葉だった。
正しい答えを選べない時ほど、自分が何を犠牲にしようとしているのかを見失うな。
急ぐ時ほど、置き去りにした者の顔を覚えておけ。
自分の正しさを証明することより、間違っていた時に戻れる道を残せ。
王妃は報告書の上へ手を置いた。
今回、アルケオンが選んだ方法を、誰もが正しかったと評価しているわけではない。
禁忌魔法を使わず、別の手段で調査するべきだったと非難する者もいる。
学園長という立場にありながら規律を破った以上、負傷の有無にかかわらず退任は当然だと述べる者もいた。
逆に、自分の身体を代償にしてまで真実を明らかにした彼を、英雄として称える声もある。
だが、王妃はそのどちらにも違和感を覚えていた。
英雄と呼べば、彼の選択に伴った恐怖や迷いが消えてしまう。
罪人と呼べば、彼が守ろうとしたものまで否定することになる。
アルケオンは、完璧な答えを選んだのではない。
正解の存在しない場所で、最も重い責任を自分へ引き寄せただけなのだ。
「ご自分ばかりが損をする答えを、よく見つけられるものです」
王妃は少しだけ眉を寄せた。
「教師としては優秀でも、生き方の配分は完全に落第ですね」
部屋の隅に控えていた侍女が、わずかに口元を緩めた。
王妃はそれに気づきながら、あえて何も言わなかった。
机の引き出しを開き、王家の紋章が入っていない便箋を取り出す。
公式な書状ではなく、一人の教え子として手紙を書くつもりだった。
筆を取り、しばらく考えてから文字を置く。
――親愛なるアルケオン先生。
最初の一文を書いただけで、王妃は小さく笑った。
在学中、アルケオンは生徒から親愛なるなどと呼ばれる教師ではなかった。
尊敬されてはいたが、恐れられてもいた。
課題の提出日を忘れた生徒にとっては、精霊王より恐ろしい存在だったかもしれない。
王妃は筆を進める。
――学園からの報告を拝読しました。
――先生は昔から、生徒には無茶をするなと教えながら、ご自身だけはその規則の対象外だと考えておられたようですね。
――両目と片手を差し出してまで真実を確かめるとは、見事というより、もはや悪い冗談です。
そこで一度、筆を止める。
これを読んだアルケオンが、どのような顔をするのかを想像した。
きっと苦笑する。
あるいは、自分以外に被害が及ぶよりはよかったと、当然のように言うだろう。
その答えまで想像できることが、少し悔しかった。
――治療を受ける者としては、これ以上ないほど模範的でない患者でしょう。
――ミレーヌから叱られても、どうか反論なさらないでください。
――先生が彼女を校長へ指名した以上、今度は先生が彼女の指示へ従う番です。
王妃の口元に、穏やかな笑みが浮かんだ。
アルケオンが新しい校長から安静を命じられ、渋々従っている姿は、想像するだけで少し愉快だった。
王妃はさらに書き続ける。
――とはいえ、先生へ落第を言い渡せる日が来るとは思いませんでした。
――長く生きてみるものですね。
――教え子として、ほんの少しだけ胸がすく思いです。
侍女が今度こそ、かすかな笑い声を漏らした。
王妃は顔を上げる。
「何かおかしなことがありましたか」
「いいえ、王妃陛下」
侍女は慌てて頭を下げた。
「とても愛情深いお手紙だと思いまして」
「そう見えるなら、私の皮肉はまだ修行不足ですね」
王妃は何事もなかったように便箋へ視線を戻した。
けれど、その次の言葉を書こうとした時、筆先が止まった。
軽口だけで終わらせてはならない。
アルケオンが失ったものの重さを、教え子である自分まで冗談で覆い隠してはならない。
王妃は静かに息を吸い、今度はゆっくりと筆を動かした。
――先生。
――心から、感謝しています。
短い一文だった。
それでも、その言葉を記すために長い時間が必要だった。
――先生が真実から目を背けなかったからこそ、学園は自らの過ちを見つめることができました。
――先生が責任を他者へ押しつけなかったからこそ、ミレーヌは罰だけに頼らない道を選ぶことができました。
――そして先生が、身体の機能を失うことを承知しながらも最後まで踏みとどまってくださったからこそ、多くの生徒たちは、自分たちの未来を奪われずに済みました。
王妃の脳裏へ、若い頃のアルケオンの姿が浮かぶ。
まだ老いを知らず、教壇の前を大股で歩いていた頃。
王族である自分へも遠慮なく問いを投げ、答えを急げば、考え直すよう命じた人。
その目は、いつも生徒たちを見ていた。
優秀な者だけではない。
授業へついていけない者も、問題を起こした者も、諦めかけている者も。
誰がどこで立ち止まっているのかを、彼は見落とさなかった。
その両目が、もう光を見ることはない。
そう考えると、王妃の胸に鈍い痛みが広がった。
――先生の目は、光を失いました。
――けれど、先生が見つけたものまで失われたわけではありません。
――それは今、ミレーヌ校長の目に、生徒たちの目に、そして先生から学んだ私たちの目に受け継がれています。
――先生の右手は、以前のようには動かないかもしれません。
――ですが、先生が差し出した手によって立ち上がった者たちは、今も自分の足で歩いています。
文字がわずかに滲んだ。
王妃は自分の目元へ触れ、そこで初めて涙が浮かんでいることに気づいた。
侍女は何も言わなかった。
気づかないふりをして、窓の外へ視線を向けている。
王妃は涙を拭い、筆を持ち直した。
――ですから、ご自分を終わった人間のように扱わないでください。
――両目が見えなくなっても、片手が動かなくなっても、校長室を追い出されたとしても、先生が私たちの恩師であることは変わりません。
そこで、王妃の表情へ再び小さな笑みが戻る。
最後の一文だけは、迷わずに書くことができた。
――残念ながら、恩師という役目だけは辞任できません。
手紙を書き終えた王妃は、しばらく便箋を眺めていた。
形式に沿った美しい文章ではない。
王妃として送るには、あまりにも私的で、少しばかり皮肉が多い。
だが、アルケオンへ送る手紙としては、これでよいと思った。
敬意だけを並べれば、彼は自分には過分だと退けるだろう。
感謝だけを伝えれば、当然のことをしただけだと返すに違いない。
それならば、少し笑わせてから逃げ道を塞いでしまえばよい。
王妃は便箋を丁寧に折り、封筒へ入れた。
封蝋には王家の紋章を使わず、幼い頃にアルケオンから贈られた小さな鳥の印を押した。
それは、初めて難しい試験へ合格した時にもらったものだった。
当時のアルケオンは、褒める代わりにこう言った。
これでようやく、自分が何も知らないと理解する資格を得たな、と。
本当に、最後まで素直ではない教師だった。
「この手紙は、必ず先生ご本人へお渡ししてください」
王妃は封筒を侍女へ差し出した。
「ほかの方には読ませないように」
「承知いたしました」
侍女は両手で手紙を受け取ったあと、少しだけ迷うような表情を見せた。
「陛下」
「何でしょう」
「アルケオン様は、きっとお喜びになると思います」
王妃は窓の外へ目を向けた。
「そうでしょうか」
「はい」
「では、まだ私の皮肉が足りませんでしたね」
侍女は今度こそ、隠さず笑った。
王妃も小さく笑い返す。
笑ったあと、胸に残っていた重さがほんの少しだけ軽くなった。
失われたものは戻らない。
アルケオンの目が再び光を見ることも、右手で杖を握ることも、おそらくない。
彼が校長室へ戻ることもないだろう。
それでも、人の役目は地位だけで決まるものではない。
教えた言葉が誰かの中へ残り、その誰かがまた別の人間へ渡していく。
そうして続くものがある限り、失ったものだけが、その人のすべてにはならない。
王妃は机の上に残された報告書を閉じた。
事件への対応が正しかったかどうかは、今すぐには判断できない。
ミレーヌが選んだ方法が、将来どのような結果を生むのかも分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
学園は、アルケオンを失って終わったのではない。
彼が残した問いを抱えたまま、新しい校長と生徒たちによって歩き始めている。
そしてアルケオン自身もまた、何もできない老人になったわけではない。
王妃は誰もいなくなった部屋で、静かに呟いた。
「先生には、まだ教えていただくことが山ほどあります」
少し考えてから、言葉を付け加える。
「ですから、隠居した程度で楽になれると思わないでくださいね」
窓の外では、剪定を終えた庭師たちが道具を片づけていた。
枝を失った木々は、以前とは違う姿になっている。
それでも根は残り、次の季節が訪れれば、また新しい芽を伸ばす。
王妃はその姿を眺めながら、親愛なる恩師のもとへ手紙が届く日を、静かに待つことにした。




