第131章 新しい鍵と帰る場所
新学期の始まりを告げる鐘が、学園の中庭へ静かに響いていた。
リュシアがこの学園へ入学してから、二年が過ぎようとしている。
その間に多くのものが壊れ、隠されていた事実が明らかとなり、学園は自らの在り方を選び直した。
教授アウルスは官位と研究資格を剝奪され、終身の国外追放となった。
アデルもまた、魔法能力を封じられ、教育や研究へ関わる道を永久に閉ざされた。
彼らの思想へ共鳴していた教官や助役たちの中には、学園へ残って学び直す者もいれば、自ら荷物をまとめて去る者もいた。
そして、禁忌魔法によって真実を明らかにしたアルケオンは、両目の光と片手の自由を失い、校長の座をミレーヌへ託した。
事件は終わった。
処罰も下された。
それでも、失われたものは空気の中へ残っていた。
例年の新学期なら、鐘の音と同時に歓声が上がり、久しぶりに顔を合わせた生徒たちが中庭を走り回る。
けれど今年は、誰もすぐには声を上げなかった。
生徒たちはそれぞれの場所で足を止め、鐘の音へ耳を傾けている。
それは祝福だけを意味する鐘ではなかった。
ここで起きたことを忘れず、それでも学び続けると決めた者たちのための鐘だった。
正門の外には、新たな生徒たちと、その家族の姿が並んでいた。
事件の噂を知らない者はいない。
精神魔法の実験が行われ、生徒が傷つき、教師たちの中にも危険な思想へ加担した者がいた。
それでも、彼らはこの場所を選んだ。
不安がないわけではない。
子どもの手を握る親たちの表情には、期待と同じくらい強い警戒が浮かんでいた。
被害を受けた生徒たちの家族も、学園へ足を運んでいる。
声を荒らげる者は少なかった。
むしろ目立ったのは、俯いたまま拳を握り締める姿と、戻らない日常を惜しむように子どもの名を呼ぶ声だった。
怒りよりも先に、信じていた場所に裏切られた痛みがある。
学園が変わろうと決意したからといって、その痛みまで消えるわけではなかった。
フローラは、少し離れた回廊からその光景を見つめていた。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
ここはエイドリア。
学問と教育を国の誇りとしてきた場所だった。
フローラ自身も、その価値を疑うことなく育ってきた。
優れた教師がいて、高度な魔法を学び、努力した者には未来が開かれる。
その仕組みの内側で、誰かが追い詰められている可能性など考えもしなかった。
「逃げられないわね」
フローラが小さく呟くと、隣にいたカリックスが横目で彼女を見る。
「逃げるつもりだったのか?」
「いいえ。そういう意味ではありません」
フローラは、正門前に集まる家族たちから目を逸らさなかった。
「やっと分かったのです」
「これは教授やアデルだけの問題ではありません」
「この国で学び、ここを誇りに思ってきた私自身の問題でもあるのだと」
彼女の声には、以前のような強がりはなかった。
責任の重さを知りながら、それでも前を向こうとする決意が宿っていた。
カリックスはしばらく黙っていたが、やがて短く答える。
「なら、卒業するまでに覚えておけ」
「学園から持ち出すのは、知識だけじゃない」
「ええ。今なら、その意味が少し分かります」
二人は、もうじきこの学園を卒業する。
守られる側から、学んだものを次の世代へ渡す側へ変わろうとしていた。
大講堂では、新学期の式が始まった。
壇上に立ったミレーヌは、長い演説をしなかった。
彼女は生徒や教師、そして後方に並ぶ家族たちを見渡したあと、静かに言葉を置いた。
「この学園は、学ぶための場所です」
「ですから、学園自身も間違いから学ばなければなりません」
短い言葉だった。
何が正しく、何が間違っていたのかを、校長が一方的に決めることはしない。
ただ、以前と同じ場所へ戻るつもりはないという意志だけが、講堂の隅々まで伝わった。
「私たちは、変わることを恐れません」
「そして、変わったという言葉だけで、皆さんへ信頼を求めることもしません」
「これからの行動を見てください」
ミレーヌは、深く頭を下げた。
拍手はすぐには起こらなかった。
やがて後方にいた一人の家族が、静かに手を叩いた。
それを合図にしたように、別の場所からも拍手が広がっていく。
歓声ではない。
許しでもない。
今後を見届けるという、慎重な意思表示だった。
式を終えたリュシアは、中庭へ出ると大きく息を吐いた。
一年が始まる。
それなのに、以前の新学期とは何もかもが違って感じられた。
「そんな顔をしていたら、新入生が怖がるぞ」
背後から聞こえた声に、リュシアが振り返る。
そこに立っていたのはカリックスだった。
返事をするより早く、大きな手がリュシアの頭へ置かれる。
「よく頑張ったな」
髪をくしゃりと乱すような、彼らしくないほど遠慮のない手つきだった。
リュシアは目を見開く。
「カリックス殿下、何をなさるのですか」
「今日は殿下として言ったわけじゃない」
カリックスは珍しく、屈託のない笑みを浮かべていた。
「少しくらい褒められておけ」
その様子を見ていたフローラが、ぱっと表情を明るくする。
「ずるいです!」
「私も前から触ってみたいと思っていたのに!」
「何を考えているのですか、フローラ」
リュシアが慌てて髪を押さえると、フローラは楽しそうに一歩近づいた。
「だって、ずっと柔らかそうだと思っていたのです」
「今度は先に許可を取りますから、触らせてくださいね」
「許可を求めればよいという話ではありません」
少し離れた場所で、フェリクスが腕を組みながら苦笑している。
「ようやく、学園らしくなってきたね」
その言葉を、誰も否定しなかった。
傷は残っている。
許せない者も、まだ迷っている者もいる。
それでも、誰かの髪を乱して笑い、くだらないことで言い争える時間が戻り始めていた。
リュシアは髪を整えながら、ふと一人の青年の顔を思い浮かべる。
エリアス。
王宮で交わした言葉と、彼が選んだ道。
今どこにいるのか、何を見ているのか。
気にならないはずはなかった。
けれどリュシアは、小さく息を整えて視線を前へ戻した。
自分は、この学園で学ぶと決めた。
彼と別れたからではない。
エリアスが自分の道を歩き始めたからこそ、リュシアもここで立ち止まるわけにはいかなかった。
その頃、エリアスは辺境の故郷へ戻っていた。
神を信奉する国リュネリアを離れたあと、セリウスは王都へ向かい、エリアスは一度家族のもとへ帰ることを選んだ。
石と木で組まれた家々。
乾いた風に揺れる草。
遠くから聞こえてくる家畜の鳴き声。
村の景色は、旅立った時からほとんど変わっていない。
それなのに、自分だけが別の場所から帰ってきたように感じられた。
神殿。
境界。
人間には理解できない存在。
選択を迫られた瞬間と、選ばなかったことで生まれた結果。
考え始めれば、答えのない問いが次々と浮かぶ。
エリアスは一度頭を振り、懐かしい家の扉へ手をかけた。
中からは、薬草を刻む音が聞こえている。
乾燥棚を整える気配と、小さな内職道具が触れ合う音。
扉が軋んだ瞬間、兄アルフレッドの手が反射的に剣へ伸びた。
室内の空気が、鋭く張り詰める。
しかし、エリアスの顔を認めると、その手はすぐに止まった。
「エリアスなのか?」
兄の声に、エリアスは少し照れながら笑った。
「ただいま」
その一言で、家の空気が一気に緩んだ。
薬草を刻んでいたエレナが手を止める。
驚いた表情を浮かべながらも、どこか帰ってくることを分かっていたように微笑んだ。
「お帰りなさい」
「待っていたわ」
妹のオリビアと弟のレイモンドが、奥の部屋から勢いよく駆けてくる。
「本当に兄ちゃんだ!」
「いつまでいるの?」
二人へ同時に抱きつかれ、エリアスはよろめきながら笑った。
「少しだけだ」
「でも、ちゃんと帰ってきた」
家族が落ち着いたあと、エレナは王都から届いたという品を見せた。
棚の上には王家の刻印が入った革袋と、数枚の金属製証票が並んでいる。
一定期間の税の免除。
医療用薬材の優先供給。
家族全員に対する保護証書。
華やかな勲章ではない。
名誉を飾るための褒賞でもなかった。
一家の生活を現実的に守るためのものだった。
「今回のことは、レグナ様の部下から聞いているわ」
エレナは息子を見つめながら言う。
「それでも、あなたの口から聞きたいことはたくさんありますけれど」
「話せる範囲なら話すよ」
「なら、まずは食事にしましょう」
「話は、逃げませんからね」
久しぶりに家族全員がそろった夕食の席で、エリアスは旅の話をした。
神殿のこと。
境界の街のこと。
名前を口にできない人物との出会い。
オリビアとレイモンドは目を輝かせ、何度も同じ場所を聞き返した。
アルフレッドは黙って話を聞いていたが、食事が半ばを過ぎた頃、低い声で口を開いた。
「最近、傭兵の仕事が増えている」
エリアスが手を止める。
「父さんと兄貴も、もう三日戻っていない」
「何か起きているのか?」
「王都に関わる護衛の依頼が多い」
アルフレッドは、家族を不安にさせないよう言葉を選んでいるようだった。
「それと、ガルディアとの国境で小競り合いが増えているらしい」
「特に、身分の高い連中が移動する時に襲撃が起きている」
エリアスの表情が変わる。
学園だけではない。
神殿や境界だけでもない。
世界の別々の場所で起きていた変化が、少しずつつながり始めている。
「気をつけてくれ」
エリアスが低く告げると、アルフレッドは短くうなずいた。
「お前もな」
翌朝。
エリアスが庭で荷物を整理していると、村の入口から一頭の馬が駆け込んできた。
馬上の男は王都の騎士団章を身につけている。
家の前で馬を止めると、男は封書を取り出した。
「エリアス殿へ、レグナ騎士団長からの召喚状です」
エリアスは封を受け取った。
理由は記されていない。
ただ、可能な限り早く王宮へ出頭するようにとだけ書かれていた。
エレナは息子の隣から封書を覗き込み、小さく息を吐く。
「やっぱり、長くはいられなかったわね」
「ごめん」
「謝ることではありません」
エレナはエリアスの外套の襟を整えた。
「帰ってくる場所を忘れなければ、それでいいのです」
エリアスは家族の顔を一人ずつ見る。
帰る場所がある。
だから、もう一度外へ向かうことができる。
数日後。
王宮の回廊には、夜になっても人の気配が絶えなかった。
呼び出されたエリアスは、控えの間で背筋を伸ばして立っている。
召喚の理由は、まだ告げられていない。
分かっているのは、これから会う相手がレグナであることだけだった。
静かな足音が、扉の向こうから近づいてくる。
やがて取っ手が動き、重い扉がゆっくりと開いた。
学園では、新たな鐘が鳴り始めた。
けれど物語は、すでに学園の外側でも動き始めていた。




